最初に負けた男
まもなく冬の始まりを告げる、木枯らし吹き荒れる季節になった。公園であの子を見かけなくなったのも、冷えるせいだろう。
仕方なく身を震わせる風に吹かれながら飲食店通りへ向かう。蕎麦の美味いと評判の蕎麦屋で蕎麦でも食べて、身体を温めようと思ったのだ。
そんな日に蕎麦屋で注文されたのが、あつあつのカツカレー。皿が目の前を通り過ぎると、対面に座る彼女の瞳がきらりと輝いた。立ち上るスパイシーな香りを胸いっぱいに吸い込み、期待に頬が緩む。
こんがりと揚がったカツ。彼女は、その端の一切れにスプーンを入れる。
────サクッという小気味よい音が響き、断面からは湯気が立ち上る。ほんの少しとろりとした濃厚なルーと絡めて、大きく口を開けて頬張る。
「んっ⋯⋯!」
思わず漏れたらしい感嘆の声。口の中いっぱいに広がる、カレーのスパイスの芳醇な香りと、肉汁あふれるカツの旨み。緩めで熱いルーをハフハフしながら、夢中で咀嚼する。
ソースはウスターソースに限る⋯⋯と言いたいが、個人の好みだろう。彼女は、ソースをルーにもかける。コクが増して旨味が増す。
一口頬張るたびに、彼女の表情には満面の笑みがこぼれる。スプーンを持つ手は止まることなく、豪快かつ上品に食べ進めていく。ご飯とカツとルーの黄金バランスが崩れるたびに、丁寧に整えながら、その至福の時間を全身で味わっているようだ。
────気がつけば、お皿の上はきれいに空っぽだった。
「美味しかった!」
‥‥満足げにつぶやき、最後の一口まで名残惜しそうに平らげた彼女の顔は、最高の笑顔で満たされていた。
「お客さん、ご注文は?」
「あっ、あぁ、カレー‥‥南蛮で」
彼女のあまりに美味そうな食べ方が見れて幸せになり、注文を忘れていた。蕎麦を食べるつもりが、彼女の食べる姿とカレーの匂いに負けたようだ。
◇
雪がチラつくのでは‥‥朝晩冷え込む日が多くなった。彼女は蕎麦が美味しいと評判の蕎麦屋へとやって来た。
場所はランチタイムを争う会社員たちが、我先にとやって来るオフィス街の飲食店通り。安くて美味い店から高くて不味い店まで、何でも揃っているのが飲食通りだ。蕎麦が評判のこの店は、激戦区からから少し外れた所にある「若松屋」だ。
彼女の会社は公園の近くにあり、コンビニや交番もある。コンビニのオリジナルおむすびは具沢山だ。そのため飲食通りよりコンビニ飯派も多い。
「いらっしゃいませーーっ、お一人様ですね。こちらの席へどうぞ」
満席に近い蕎麦屋の少し雑然とした空間。蕎麦が美味い繁盛店で、彼女は迷うことなくカツカレーを注文する。
「カツカレー入りました!」
賑わう店内に、店員の元気なオーダーを通す声が一際大きく響く。ざわつく店内に、一瞬沈黙が走ったように感じるのは気のせいだろうか。
彼女は注文のあと、湯呑みに注がれた緑茶を一口飲む。出来上がりを待つ間、その視線は厨房に向けられ、期待に輝いている。
────鼻を擽る蕎麦屋の出汁や醤油の香りが、カレーの匂いに塗り替えられ店内を漂い覆う。匂いに釣られたのか、歴戦の猛者たちは鼻を刺激されて苦い表情となる。
運ばれてきたのは、皿からはみ出しそうな大きなカツと、濃厚なカレーの同色茶系のコントラスト。食欲をそそる一皿を前に、彼女は満足げに小さく息を吐いた。
「‥‥いただきます」
手を合わせ、彼女はスプーンを手に取る。まずは揚げたてのカツを一口大に、スプーンで押し切り分ける。そして、たっぷりとカレーを絡めて口へと運んだ。
咀嚼するたびにカツの衣のサクサクとした食感、脂身の甘さ、そして始めと後からじんわりと広がるスパイシーなカレーの風味が混ざり合うのがわかるようだ。
ひと口ごとに、彼女の表情は至福に満ちていく。
「美味しい…⋯」
そう呟き、時折添えられた赤い福神漬けをポリポリと心地よい音を立てて食べ進める。
夢中になって食べ続けるその姿は、周囲の目を気にすることなく、純粋に目の前の食事を楽しんでいる様子がありありと伝わってきた。
あっという間にカツカレーの皿は空になる。最後の一口を飲み込んだ彼女は、心から満足した笑顔を見せた。
蕎麦が美味しいと評判の蕎麦屋でカツカレーのみ注文というのは一見邪道だろうか。だが誰よりも美味しそうにカツカレーを平らげる彼女の姿は、その場にいる人々の心まで温かくするようだった。
◇ ◇
年の瀬がせまり、街中を彩る落葉樹もすっかり枯れて、あたりは冬景色となった。風が吹くと体温を奪われて、芯から凍える気がする。
そんな日でも会社員達の戦場は変わらない。ランチタイムの激戦区はボーナスでも入ったのか、いつも以上の賑わいを見せているように見える。
彼女は会社の昼休みの時間になると、飲食店の並ぶ街角の蕎麦屋「若松屋」に足を運ぶ。若松屋は蕎麦が安く、美味く食べられる働く社会人に人気の店だ。
店の立地はオフィス街に一番近い飲食店通りの外れの街角にも関わらず、ランチタイムの激戦に参戦して営業をし続けている事からも、蕎麦の人気ぶりがわかる。
若松屋は普段は通い慣れ年季の入った常連客で賑わうのだが、お昼過ぎの僅かな時間‥‥12時を少し回った頃から様相が変わる。
近隣のオフィスビルからやって来る会社員の女性が、蕎麦が美味いと評判の若松屋の暖簾をくぐって来るからだ。彼女の会社の隣には公園があり、会社近くにはコンビニや交番もある。
そのコンビニオリジナルおむすびは具沢山で人気がある。交番勤務の警官もよく買うのを見かける。そのためだろう、彼女の会社では飲食通りよりコンビニ飯派も多いくらいだ。
そんな彼女が蕎麦屋に訪れるようになり、彼女を知る者が他にもいたせいだろうか⋯⋯ざわつく店内に少し違った空気が流れていた。
「いらっしゃいませーーーっ、こちらにどうぞ!」
店員の声は明るい。窓際の四人掛けのテーブル席に腰を下ろし、慣れた手つきで水とおしぼりを受け取る。その席のメニューは、相席のため先に座っていた同じ年頃の女性会社員がにらめっこ状態になって離さない。
彼女は先客の女性の様子を見て、少し相好を崩しながら、店員に声をかける。
「私、いつものカツカレーで。大盛り‥‥出来るかしら」
「プラス百円だよ!」
「じゃあ、それで」
彼女が笑顔で注文する。
「えー、私もそれにしようかなカツカレー大盛り。蕎麦屋なのに」
肩までほどの少し癖っ毛のショートヘアの先客の女性が、慌てて便乗した。先客の女性は初来店だったようで、迷う間に蕎麦屋の香りにやられて、お腹が悲鳴をあげていたらしい。
注文を聞いた店主は、少し驚いた様子で二人を見て‥‥すぐに、ニッコリ笑顔になる。
「あいよ! カツカレー二つ、大盛り入りました」
威勢の良い返事をし、レジ対応に入る店員。混雑までいかないスムーズな流れ作業を見ているようで、入れ替わりの客も邪魔しないように導線を空ける。
運ばれてきたカツカレーの大盛りは、蕎麦屋ならではの和風だしが効いたルー。それに、揚げたてのカツが鎮座する一品。
「────わあ、美味しそう!」
食欲をそそるカレーの香りが店内に広がる。蕎麦屋のカレーが美味い事はよくある話だが、彼女が蕎麦の美味い店で、蕎麦を食べた姿を見たことかない。
蕎麦のアレルギーなのだろうか。それにしては蕎麦粉が舞いそうな蕎麦屋に通いつめて、今や常連の一人になっている。
彼女の来店後、カレー臭に敗北した猛者たちが妥協点をカレー南蛮そばに見出すため、蕎麦の美味しい店は、カレー南蛮がオススメかと勘違いされそうだ。
大事なお昼の補給源。客の苦悩など彼女は気にもかけない。同席となった援軍の助力もあり、若松屋はカレーの匂いがいつもより増していた。
顔見知り⋯⋯ではなさそうだが、蕎麦屋の聖域を犯すようなカレーの香りを漂わせる二人。周りのことなど気にもかけず、顔を見合わせ──早速スプーンを手に取った。
「ここのルー、癖になるんだよね。無理矢理コクを砂糖で出さないちょうど良い甘さがあって」
「わかるわかる! そばのおつゆかな? なんかいつも店の前通ると、カレーの匂いがしていて気になっていたんだ」
「蕎麦で評判だからね。でもねカレーも美味しいんだよ。食べてないけど⋯⋯カツ丼もね」
彼女たちは、おしゃべりを楽しみながら、豪快に大盛りのカツカレーを食べ進めていく。蕎麦が美味しいと評判のお店で、奇しくも彼女達の初見の注文はカツカレーになった。
一口、また一口と頬張るたびに、満面の笑みがこぼれる。あつあつなカツカレーとスパイスの辛味で、体温が上昇したのか顔を上気させている。
正しく、美しい食事姿とも言える。普段オフィスで見せる真面目な表情とは違う、カツカレーの美味しさを心から楽しんでいる様子が印象的だ。
二人は大盛りカツカレーをあっという間に完食し、綺麗に平らげたお皿を見せ合い満足そうに笑う。
「ごちそうさまでした!」
「まいどあり!」
会計時に声を揃える二人。笑顔を見て同じように微笑み声をあげる店員。
午後の仕事へと戻る活力を補充し、彼女は同席の女性と共に颯爽と店を出ていった。
オフィス街を縫うように、寒い風が吹き付ける。知り合った女性と別れた彼女の足取りは軽い。蕎麦屋で堂々とカツカレーを頼む仲間を得たのが嬉しいのか、大盛りで重たいはずのお腹が気にならないようだ。
普段よりも彼女の背中には、カツカレーで満たされた元気と活力が漲っているように見える。
元気が有り余っているのか、彼女は先を急ぐように会社へ戻る道を進み⋯⋯通り過ぎた。温まりついでにコンビニに寄り、買い物でもするのだろう。
「お巡りさん、アイツです」
彼女が姿を消した後に、人を連れて再び現れスッと指先をこちらへ向けた。コンビニではなく、交番に寄ったのだ。こちらに向かい何やら話し進んで来る。後ろには先ほど蕎麦屋にいた女性がいた。
置かれた状況は理解した。あつあつのカツカレーの辛味が回ったかのように、緊張で体温が急激にあがる。
公園で眺めるだけで良かったのに、どうしてこうなったのか。彼女が魅力的なのが悪いのか、カツカレーの魔力が悪いのか。
彼女が暖かい季節に公園でコンビニ飯を食べていたのを思い出す。同僚がおむすびを頬張る中、彼女が決まって食べていたのがカレーパンだった⋯⋯。
お読みいただきありがとうございました。蕎麦屋のカレーが食べたくなっても年末年始で、お店はお休みかもしれません‥‥。




