15-6
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「今宵のあなたは、やはり誰よりも一番可愛くて、独身男性陣の視線が刃の様に私の背に刺さってきましたよ」
アントニウスは言うと、茶化すように笑って見せた。
「まさか、ピエートルまで、あんな風に話しかけてくるなんて、私はアレクシスだったことが知られてしまうのではないかと、生きた心地もしませんでした」
アレクサンドラは、その時の事を思い出しながら言った。
「今のあなたを見て、アレクシスの事を思い出す人間など、誰もいないでしょう」
アントニウスは笑みを浮かべて言った。
「それは、あなた以外はでしょう?」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスがきょとんとした。
「私ですか? 今は、あのアレクシスがあなただったということの方が信じられませんよ」
アントニウスの言葉に、アレクサンドラはアントニウスの真意を探ろうとじっとアントニウスの事を見つめた。
「ダメですよ。そんな情熱的な瞳で見つめられたら、理性のたがが外れてしまいます。この狭い場所で、そのドレスでは逃げられないのですから、私に口づけられても文句は言えませんよ」
本気なのか、茶化しているのかわからないアントニウスの言葉に、アレクサンドラの頬が染まっていく。
「私は、そんなつもりはありません」
「それは残念だ。私は、あなたが許してくださるのなら、そのバラの花びらのような、愛らしい唇を味わいたかったのに」
「そういうことは、ちゃんとしたレディに言うものです。私には、そんな言い方をしなくていいのです。ただ、あなたのしたいようにすれば・・・・・・」
次の瞬間、アントニウスの両の手がドンと背面の板壁につかれ、アレクサンドラはアントニウスの両腕の間の狭い空間に閉じ込められる形になった。
「言ったはずです。もう、あのゲームは終わりです。私が知っているのはあなたの秘密ではない、アレクシスの秘密です。だから、私は今晩あなたに取り入ろうと躍起になっていたフランツと同じ、あなたに求婚する独身貴族の一人です。二度と、さっきのような言葉を口にしてはいけません。私は二度と、あなたにあの晩の図書室でのような事をして貰いたくはありません」
「でも、何事にも、口止め料が要るのが世の常なのではないのですか?」
「それならば、口止め料を払うのは、アレクシスだ。あなたではありません」
「でも、そんなことは・・・・・・」
同じ人間なのだから、アレクシスに口止め料を払わせろと言われても、アレクサンドラにはどうしたらいいかわからなかった。
「アレクサンドラ、愛しい人。あなたが私に教えてくれたのです。本当の愛のない相手と一緒に過ごす時間に快楽はあっても安らぎがないことを・・・・・・。あなたと過ごす時間は、蜜のように甘く、例え口づけする事さえできなくても、そこには安らぎがあると・・・・・・。だから、私は独身貴族の子弟の一人として、正々堂々と、あなたに求婚したいのです」
『求婚』という言葉がとてもリアルに感じられ、アレクサンドラは、必死になってアントニウスに喧嘩を吹っ掛けようとしたフランツの姿を思い出した。
「やはり、フランツは冗談ではなく本気で私を口説くつもりなのでしょうか?」
アレクサンドラは呟くように言った。
「そんなに私を嫉妬させたいのですか? こんな近くに私がいるのに、他の男、しかも、よりによって、あの憎らしいフランツの名を口にするなんて・・・・・・」
アントニウスは言うと、近かった距離を更に縮め、まるで鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで間合いを縮めた。
「彼は、きっと父親から、なんとしてもあなたをモノにしろと命じられているのでしょう。実際、彼の家は侯爵家ではありますが、ここ何代も要職に就くことができず、宮廷での存在感が薄れています。そこへ、ジャスティーヌ嬢とロベルトの婚約が近いという噂が王宮で実しやかに囁かれ、王太子妃の父親となれば、伯爵でも充分要職に就くことが出来ますから、ますます存在感が薄れてしまう。そうなると、妹のあなたを息子の嫁に貰い、伯爵と縁戚関係になることで宮廷内での存在感をあげ、息子の将来を少しでも明るいものにしたいというのが親心でしょう。何しろ、妻の妹の夫を冷遇する男はいない。例えロベルトがどんなに公平でも、あなたの夫となったものを冷遇することはないでしょうから、存在感の薄い上級貴族にとって、あなたは喉から手が出るほど嫁に迎えたい存在ということです」
アントニウスはこんな至近距離まで距離を詰めておいて、自分は口づけ一つせず、何を語っているのだろうと、自分の愚かさにため息が出そうになったが、それでもアレクサンドラの許しを得ずに無理やりに口づけしたいとは、微塵も思わなかった。
「父は、きっと要職に等つかないでしょう。自分の領地の管理に忙しいですから」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスは苦笑した。
「ご存知でしたか? 税金には二種類あることを・・・・・・」
アントニウスの問いに、アレクサンドラはコクリと頷いて見せた。
「この国の税金は、国が国民に課す税金と、領主が領民に課す税金の二種類があります。あなたの御父上の領地では、二つ目の領主が領民に課す税金がほとんどゼロなのです。つまり、民は国に治める税金さえ工面すればそれでいい。しかし、貴族の生活は、二つ目の税金、領民に領主が課す税金で成り立っている。ですから、あなたの御父上が、フランツの父親のような重い税を領民に課していれば、あなたは産まれてこの方、お金の心配などすることなく生活することが出来たでしょう。その代わり、領民の怒りや憎しみが向けられ、あなたが所領を訪問しても、民はあなたに儀礼的な挨拶しかしない。でも、アーチボルト伯爵家の所領は違います。わずかな税金しか課せられていない民は豊かです。それでも暮らしが成り立っているのは、先祖伝来の広い領地を所有しているからです。だから、アレクシスが所領のどこかに帰って戻ってこないと聞いても、誰も不思議には思わないのです。あれだけ広い領地です。それをあそこまで細かく丁寧に管理しているのは、この国ではあなたの御父上くらいです」
父の事を褒められ、アレクサンドラはとても誇らしく思った。しかし、アントニウスは再び自分の体たらくにため息をつきそうになった。
相手がアレクシスを感じさせるアレクサンドラだった時は強引に迫ることも。それこそ、いざとなったら力ずくも辞さない覚悟のようなものがあったが、その不謹慎極まりない覚悟はアレクサンドラがレディになればなるほど姿を潜め、社交界デビューを果たし、誰もが羨む立派なレディとなった今、アントニウスが持つ選択手段からは完全に姿を消していた。
本来ならば、誰よりも優位な立場で、しかも国王陛下にまで求婚する意思があることを表明し、アレクサンドラを正式に妻に迎えることも陛下に非公式に許され、どちらかと言えば、将来王妃になるジャスティーヌの妹であるアレクサンドラを将来大公の片腕として補佐する立場に着くであろうアントニウスが娶ることは政治的にも望ましいとされ、母のマリー・ルイーズまでしゃしゃり出てきている状態なのに、なぜかアントニウスには甘い口説き文句を連ねることが出来ず、告解室という狭い密室でアレクサンドラと二人っきりになることが出来る教会のフェルナンド神父にまでやきもちを妬いている始末だった。
きっと、アレクサンドラが普通の男を相手にするときのように、激しい警戒や恐れや躊躇を見せたなら、アントニウスにもいつものように口説きモードに入ることが出来るのだろうが、何度言い聞かせてもアレクサンドラは秘密を知られた弱みがあるからと、アントニウスの前では無防備で、何をされても抵抗しないという姿勢を貫いているから、アントニウスは逆に強硬手段に出ることによって、アレクサンドラの意思を踏みにじって自分の想いを無理やり押し付けることになることを警戒して、それこそ人目のない場所で腕を組む事すらためらってしまうのだった。
その結果が、口説くのに最適な密室であるはずの馬車の中で二人きりだというのに、しかも、鼻と鼻が触れ合いそうな距離に迫ってもなお、アントニウスがしていることは、いかにアーチボルト伯爵が領民を大切にしているかという、どちらかと言えば男同士で語るような話題にそれて行って、微妙な男女二人だけの甘い空間を自らぶち壊していると言っても過言ではなかった。
「とにかく、あなたはもう私に何も引け目を感じる必要はないということです」
やっとのことでアントニウスが言うと、再びアレクサンドラが目を伏せた。
「そういうわけには参りません。今日のお支度といい、何もかも、すべてを援助していただいたのですから・・・・・・。余りにも畏れ多くて、私を妻に等とは申しません。アントニウス様は公爵家のご嫡男なのですから、せめてこちらにいらした時にお世話をする、それくらいのお礼しか私にはできませんが、出来ましたら、そうやってご恩を返していきたいと思っております」
目を伏せて言うアレクサンドラの『お世話』は言葉通りのメイドの様に甲斐甲斐しく身の回りのお世話をすることではなく、アントニウスの愛人になるという意味だということは、既にアントニウスもよく理解している。そして、その事がアレクサンドラを教会の告解室へと通わせていることも分かっていた。
「ですから、私は、あなたに妻になって欲しいのです」
アントニウスは馬車の板壁から両手を離すと、自分の頭を両手で抱えた。
このすれ違いの会話は、アレクサンドラと会うたびに交わされている、エンドレスで出口の見えない迷路のような会話だった。
ぶざまにも、ストレートに『妻になってほしい』などという言葉を口にしている時点で、アントニウスの自己嫌悪は極限値に達していた。本来、結婚の申し入れはもっとロマンチックで、思い出に残るシチュエーションを用意するべきものだというのがアントニウスの考えであるにもかかわらず、相手がアレクサンドラになると、何もかも計画通りにはいかないのだった。
「ですから、それも何もかも合わせて、引け目を感じる必要はないと言っているのです」
もう一度言うと、アレクサンドラは頭を横に振って見せた。
それは確かに、アーチボルト伯爵家の年間予算を遥かに上回るような、恐ろしい桁の額があちこちの仕立て屋や宝石商に支払われていることは確かだが、これ自体途中からはロベルトとの張り合いみたいなものになってしまったのも事実だ。
ロベルトがジャスティーヌを社交界で一番美しいレディにすると言うのに対抗し、ロベルトはアレクサンドラを社交界で一番可愛いらしいレディにして見せると、対抗意識を燃やしてドレスやアクセサリーを奪い合うように用意したのは事実だった。しかし、それでアレクサンドラを買ったように思われるのは心外だった。
「すべては、ロベルトと競うためにやったことです」
仕方ないので、アントニウスは本当の事を口にした。
「競う?」
「ええ、そうです。ロベルトがジャスティーヌ嬢を一番美しい女性にするというので、私はあなたを一番可愛らしいレディにして見せると。ロベルトも意地になるから、最後は仕立て屋の生地を奪い合い、宝石商のアクセサリーを奪い合うような状態になったのです。何しろ、双子ですから、似合うものは同じですから、同じ評価基準で戦えば、ロベルトは国のお金を湯水のごとく注ぎ込みますからね、私は一歩引いて、美しいではなく、可愛らしいという少し評価基準の違う、よりあなたに相応しい方を選んだのです。だから、あなたが負担に思うことなど何もありません」
アントニウスに説明を受けても、アレクサンドラは目を伏せたままだった。
「そんなに、あなたは私がお嫌いですか?」
直球の質問に驚いたのか、アレクサンドラがまっすぐにアントニウスの事を見つめた。
何度も尋ねなくてはと思いながら、答えが『嫌いだ』というストレートなものだったらと思うと、問うことのできなかった質問だが、その逆に、アレクサンドラの事だから、気を使って例え嫌いでも、秘密を知られ、更に世話になっているアントトニウスを嫌いだとは言わないだろうという、二つの答えの間でアントニウスは苦悶するばかりだった問いを仕方なく投げかけてみた。
「そんなことは、ございません」
予想通りの答えに、アントニウスは尋ねなければよかったと、頭を抱えたまま大きなため息をついた。
「アレクサンドラ・・・・・・」
アントニウスは呼びかけながらアレクサンドラの手を掴んだ。
「あっ・・・・・・」
恥じらうようなアレクサンドラの声に、アントニウスは自分が激しく淫らな行為に及んでいるような錯覚を覚え、慌ててアレクサンドラの手を放した。
次の瞬間、馬車が止まり御者が御者台から降りる音がした。
儀礼的なノックの後、馬車の扉が開いた。
御者がノックをするのは、主が馬車の中で何を致しているかわからないから『これから扉をあけますよ』という合図なのだが、それすらも腹立たしくなるくらい、アントニウスとしては最悪のタイミングで馬車はアーチボルト伯爵家の正面玄関前に横付けされた。
家令のコストナーが玄関から姿を現すのを横目に見ながら、御者が整えた足台を使って馬車から降りると、アントニウスはアレクサンドラの手を取り、抱きかかえるようにして馬車から降ろした。
「おかえりなさいませ、アレクサンドラお嬢様。旦那様方は、まだお戻りではございません。アントニウス様を奥にご案内いたしましょうか?」
「アントニウス様は、爵位を継がれファーレンハイト伯爵となられたのよ」
アレクサンドラの指摘に、コストナーが背筋を正した。
「これは大変失礼致しました。ファーレンハイト伯爵、この度の爵位継承、謹んでお祝い申し上げます」
「いや、そんなに改まることはないよ。私は、ファーレンハイト伯爵よりも、ただのアントニウスの方が気楽でよいくらいだから」
アントニウスが答えると、コストナーは恐縮したように頭を下げた。
「今宵は遅いので、私はこのまま失礼します」
アレクサンドラが疲れているだろうことを考えると、アントニウスは離れがたい気持ちを押し殺し、素早く馬車の取っ手に手をかけた。
「あの、お茶でも・・・・・・」
慌てて誘うアレクサンドラに、アントニウスは笑顔で頭を横に振った。
「では、失礼致します。伯爵ご夫妻によろしくお伝えください」
アントニウスは言うと、さっと馬車に乗り込んだ。
「ありがとうございました」
アレクサンドラは追いすがるように、お礼を言った。
「おやすみなさい」
アントニウスが言うと、御者が扉を閉めた。
気の早い御者に舌打ちしながら、アントニウスは扉の窓を開けてアレクサンドラの事を見つめた。
「おやすみなさいませ。アントニウス様」
「良い夢を・・・・・・」
アントニウスが言ったところで、御者が御者台に戻る気配がした。
仕方がないので、アントニウスは御者に発車の合図を送った。
走り去る馬車を見送り、アレクサンドラは家令と共に屋敷の中に入った。
中ではライラがアレクサンドラの事を待っていた。
「やっぱり、王宮の舞踏会はすごいわ」
アレクサンドラが言うと、ライラは笑顔でアレクサンドラを迎えた。




