13-1
アレクサンドラは社交界デビューとなる国王陛下との正式な謁見の日取りが決まっても、所領内の教会へ通うことを止めようとしなかった。
所領内の教会には、アレクサンドラ達が子供の頃からお世話になっていた老神父の補佐と言う形で、ちょうど若いフェルナンド神父が派遣されてきたこともあり、老神父はいつも黙して座り続けるアレクサンドラの告解を若いフェルナンド神父に任せるようになっていた。
毎日のように教会を訪れ、告解室に入るが、実際には未だ罪を犯していないアレクサンドラには、懺悔することは色々あったとしても、一番懺悔したいことを懺悔することが出来なかった。
「哀れな神の子羊よ。こうして毎日、あなたをこの教会に向かわせるほどの苦しみを話してみる気にはまだなりませんか?」
フェルナンド神父に問いかけられ、アレクサンドラの瞳からポロポロと涙が零れた。
「この告解室の中で話されたことは、例えどのようなことがあっても第三者に知られる可能性はありません。例え、国王陛下に脅され、処刑されたとしても、私たち聖職者は信者の秘密を胸に抱えたまま天に召される道を選びます」
フェルナンド神父の言葉に、アレクサンドラはアレクシスに会ったことのないフェルナンド神父になら、多少話を脚色して話しても良いのではないかと思いながらも、やはり話すことはできなかった。
「私の告解の内容を神父様はバーソロミュー神父様と共有なさるのですか?」
やっと口をついて出たのは、そんなつまらない問いだった。
「いいえ。私たちは、例え聖職者同士であっても、信徒の告解の内容を共有することは致しません。ただ、内容が信徒自身の生死にかかわるような一大事の場合、私のような若年者がバーソロミュー神父のような経験豊富な方にご相談することはありますが、信徒のお名前を出したり、告解の内容をお話したりすることはありません。ですから、なにも心配される必要はありません」
フェルナンド神父の言葉に、アレクサンドラは勇気づけられながらも言葉は、やはり喉の奥に詰まったようで出てこなかった。
「貴重なお時間をありがとうございました」
アレクサンドラは言うと、告解室を後にし、ライラを伴って教会を後にした。
その憂いに満ちた横顔に、フェルナンド神父は聖職者としてはあるまじき事と知りながらも、アレクサンドラの笑顔を見たいと、彼女の不安を取り除き、その顔に笑みを取り戻したいと、心密かに想いを寄せてしまうのだった。
☆☆☆
アレクサンドラが帰ってくるのを待っていたジャスティーヌは、アレクサンドラとライラを乗せた馬車が視界に入るや否や、レディらしくない猛ダッシュで階段を駆け下りた。
あの晩以来、既に十通もロベルトからご機嫌伺いの手紙が届いていたが、返事を待とうとする使者には具合が悪いので返事はすぐには書けないと言って追い返し、一通も返事を書かないジャスティーヌに、両親は何事かと焦っているようだったが、ジャスティーヌは何を聞かれてもだんまりでやり過ごした。
「おかえりなさい、アレク。良かったら、庭を散歩しない?」
突然のジャスティーヌの言葉に、屋敷の中に入りかけていたアレクサンドラは足を止めるとジャスティーヌが外に出てくるのを待ちながら、外出用のボンネットを外してライラに手渡した。
「ライラ、二人で大丈夫よ。庭からは出ないから」
ジャスティーヌは言うと、ライラを屋敷の中へと追いやった。
最近、頓に二人きりになりたがるジャスティーヌに、アレクサンドラは嫁ぐ前の寂しさからくる一種の依存症みたいなものなのかなと考えるようになっていた。
何しろ生まれてこの方、離れ離れになった事のない二人だ、昼間に喧嘩をしても夜には仲直りし、どちらかのベッドで手を繋いで寝るほど仲が良かった。
特に何を話すわけでもなく、ジャスティーヌとアレクサンドラの二人は、慣れ親しんだ庭を歩いた。
以前は、無駄に広いのを良いことに、屋敷から見えないところに畑を作ったり、家畜を育ててみたり、食費を切り詰めて屋敷の者全員がちゃんと食事を摂れるようにするために、アリシアまで畑作業に参加し、アレクサンドラもジャスティーヌも雑草抜き等の手伝いをしたものだった。それが、ロベルトとアントニウスという支援者の出現のお陰で、庭は庭としてキチンと整えられ、使用人達の暮らす棟の裏に畑と家畜小屋が新しく整えられたので、そう言う意味では、見慣れた光景ではなく、本来あるべき姿に戻りつつあるという表現が正しいのかった。長年、水が出なくなっていた噴水も、先日王宮から送られてきた技師が修理を行い、今では大理石で彫られた美しい女性の持つ水瓶から水が池にそそぎ込まれ、更に池のあちこちに設置された噴出口から妖精が踊るように水を噴き出して池を飾っていた。
「アレク、今日も教会に行っていたんでしょう?」
ライラという一人しか居ないメイドを共有する関係なので、アレクサンドラの行動はジャスティーヌに筒抜けだったが、別にやましいことも隠さなくてはならないような事のないアレクサンドラは『そうよ』と笑顔で答えた。
「ねえ、新しくいらした神父様っは、どんな方?」
思ってもみなかった質問に、アレクサンドラは告解室に入る前にチラリと顔を合わせるだけのフェルナンド神父の顔を思い出そうと首をひねった。
「うーん、背が高くて、かなり若くて、スマートな方かな」
バーソロミュー神父は伯爵よりもかなり年上ということもあり、二人には祖父のような存在だったが、フェルナンド神父は例えるなら、兄と言うような年代だった。
「たぶん、お兄さんみたいな感じって言うのがぴったりかな。スチューみたいな感じ?」
アレクサンドラの言葉からは、それ以上の感情を感じることはできず、ジャスティーヌは教会通いの理由が新しい神父にあるわけでないことを再確認した。
「でも、ほとんど毎日でしょう?」
「あっ、もし、ジャスティーヌの出かける邪魔になっているなら、僕は・・・・・・。えっと、私は毎日じゃなくても大丈夫だから、ジャスティーヌの予定を優先してくれていいよ」
今では、ジャスティーヌと二人だけの時だけ少し顔を出すだけの男言葉も、アレクサンドラは極力、直すようにしていた。
「ねえ、アレク。大切な話があるの」
ジャスティーヌは言うと、噴水の傍のベンチに腰を下ろした。
屋敷からは十分な距離を取ってあるし、噴水の水の音で二人の会話は誰にも聞かれることはない。
「どうしたの?」
アレクサンドラは心配そうに言うと、ジャスティーヌの隣に腰を下ろした。
「この間の舞踏会の晩、アントニウス様が訪ねてきたんでしょう?」
いきなりの事に、アレクサンドラは言い訳も思いつかず沈黙した。
「ロベルト殿下に頼んで、私たちを舞踏会に引き留めて、その間にアントニウス様が忍んであなたに逢いに来たんでしょう?」
ジャスティーヌの推理は正しいが、それを大人しく認めるわけにいかないアレクサンドラは、何のことと言わんばかりに首を傾げて見せた。
「どうしてそんなことを言うの? これでも、私は一応、まだロベルト殿下の見合い相手よ。そんな、夜に忍んでとか、お父様の許可を取らずに逢いに来るなんて許されないでしょう?」
アレクサンドラがごまかすと、今度はしばらくジャスティーヌが沈黙した。
「ジャスティーヌ? ねえ、何かあったの? 最近様子が変だけど、殿下と喧嘩でもしたの?」
アレクサンドラは心配げにジャスティーヌのことを見つめた。
「アレク、あなたアントニウス様に秘密を知られてるんでしょう?」
ジャスティーヌの言葉に、アレクサンドラは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
(・・・・・・・・あれほど誰にも言わないと約束したのに・・・・・・。きっと、面白半分でロベルト殿下に話したのね。それで事の真偽をロベルト殿下がジャスティーヌに尋ねたんだわ。だから最近、ジャスティーヌは落ち込んでいて、ロベルト殿下からの手紙にも返事を書かなかったのね。信じていたのに・・・・・・。もう、殿下に話してしまった後だったから、対価を要求しなかったのね。そういうこと・・・・・・・・)
アレクサンドラは瞬時に理解した。
アレクサンドラは答える代わりに身を翻すと屋敷の方へ駆け戻った。
玄関口でヒールのある靴を脱ぎ捨てると、階段を最速で駆け上った。自室に入ると、驚くライラの前で来ているドレスを引きちぎるようにして脱ぎ、無理やりにコルセットを外すと床に投げ捨てた。
その様子は、まるで錯乱でもしているか、正気を失ったようにライラには見えた。
しかし、裸同然になったアレクサンドラは、洗面台で顔に水をつけると、化粧をタオルで強引に拭き取り、短い髪の毛を引っ詰めにして結い上げていたリボンを解いて床に投げ捨てた。そして、もう着ないものとして片付けてあったアレクシスの服を取り出すと、慣れた手つきで男物の服に袖を通した。
「アレクサンドラ様?」
驚いて止めようとするライラを部屋から追い出すと、アレクサンドラは一番良いベストに袖を通し、舞踏会用の銀糸の刺しゅう入りの上着を手に部屋を後にした。
家族に見咎められるのが面倒だったので、使用人用の通路を抜けると、裏口から出て馬蹄のカルロスに馬の準備をさせた。
アレクサンドラが馬に乗るのは、あの落馬の一件以来初めての事だった。それでも、アレクサンドラは構わずスピードを出した。
しばらくぶりのせいか、やけに鞍が硬く感じ、擦れる内股やお尻が痛かったが、全て無視してスピードを上げた。
残念ながら、レディの姿では馬に乗って一人で出かけることが出来ないから、これ以外にアントニウスを訪ねるには手がなかった。
誰にも見られたくないし、早く決着をつけなければと焦る心が馬に鞭を当て、馬は猛スピードで走り続けた。
約束も取り付けず、公爵家の屋敷に乗り込むのは非常識極まりないことだったし、着ているのは夜会用の
ベストにコートで、昼間の訪問には不自然な姿だったが、向こうが約束を破った以上、アレクサンドラは礼儀などわきまえるつもりはなかった。
「ご開門願おう。私は、アーチボルト伯爵家ゆかりのもの。名をアレクシス・バルツァーと申します。ご嫡男、アントニウス殿に、緊急でお目通り願いたく参上致しました。アレクサンドラ嬢からの、急ぎの使いでございます」
門番は、アーチボルト伯爵家とアレクサンドラの名を聞くや、すぐに門を開きアレクサンドラを通してくれた。
屋敷の正面玄関にアレクサンドラが辿り着くと、中からアントニウスの執事であるミケーレが出迎えに姿を現した。
「これは、これは、アレクシス殿」
田舎に帰ったと聞いていたアレクシスの登場に、ミケーレは驚きの声を上げた。
「アレクサンドラ嬢より、急ぎの伝言を預かって参りました。ミケーレ殿、ご主人にお目通り叶いましょうか?」
アレクサンドラは口上を述べると馬から降り、手綱を片手にミケーレに向き直った。
「どうぞ、こちらへ」
裏から走り出てきた馬蹄に馬を預けると、アレクサンドラはミケーレの後について屋敷の中に入った。
今まで、舞踏会等で色々な公爵家の屋敷を訪ねたことはあったが、ザッカローネ公爵家の屋敷はイルデランザ公国風の飾りが多く、いつもの見慣れた調度品とは少し違ったが、そんなものを堪能している余裕はアレクサンドラには全くなかった。
「どうぞ、こちらでお待ちくださいませ。ただ今、主を呼んでまいります」
サロンに案内されたアレクサンドラは、言われるままにサロンのソファーに腰を下ろした。
本来なら、門前払いされても文句は言えない立場なのだが、アレクサンドラからの使いという一言で、丁寧にサロンにまで案内されたが、アレクサンドラの怒りが静まることはなかった。
やがて、駆け足で階段を下りてくる気配がし、サロンの扉を開けてアントニウスが姿を現した。
「アレクシス、これはいったい・・・・・・」
アントニウスの言葉は、アレクサンドラの渾身のパンチで掻き消された。
二発目のパンチを構えたアレクサンドラの腕は、アントニウスによって軽々と掴まれてしまった。
「あなたと言う人は、突然何を・・・・・・」
掴み合うアレクシスとアントニウスの姿に、お茶を運んできたメイドが悲鳴を上げた。
本当なら、このまま抱きしめてしまいたいアントニウスだが、アレクシス姿のアレクサンドラを抱きしめたとなると、使用人の口から秘密が漏れ、どんな尾鰭を付けられて噂になるか分からない。
「お茶はいいから、下がりなさい!」
茶器のセットもお茶も床に落とし、激しいクラッシュ音に我を忘れて震えるメイドにアントニウスが言うと、メイドは逃げるようにして部屋から出て行った。
「この嘘つき!」
アレクサンドラの口をついて出た言葉に、アントニウスの腕に力がこもり、アレクサンドラはその場でねじ伏せられそうになり片膝をついた。
「この間の晩、あなたに恥をかかせたことは謝ります。ですが、そんな姿でいきなり乗り込んできて、暴力に訴えるなんて、あなたらしくない」
アントニウスは誰にも聞こえないように小声で言った。
しかし、アレクサンドラはアントニウスを見上げると、鬼火が宿ったような怒りの瞳でアントニウスを睨み付けた。
「あなたの事を信じていたから、全てあなたの言うとおりに、全てあなたの望むとおりにしてもいいと思っていたのに、それなのに、軽々しく秘密を口にして、ジャスティーヌの幸せを壊すような事をするなんて」
アレクサンドラの言葉に全く思い当たることがないアントニウスは、途方に暮れたような顔をした。
「私は創造神と母の名に誓って、あなたの秘密は誰にも話していません」
「この期に及んで、あなたは神を愚弄し、お母様の名まで貶めるつもりなのか?」
怒りのおさまらないアレクサンドラの言葉に、アントニウスはほとほと困り果てた。
「もしかして、先日の舞踏会以来、ジャスティーヌ嬢が体調不良でロベルトとの連絡を絶っていることと関係があるのですか?」
アントニウスは昨日、ロベルトから似たような追及を受けたこともあり、すぐにアレクサンドラの怒りの理由がジャスティーヌとロベルトの不仲が原因だと思い至った。
王宮にアントニウスを呼び出したロベルトは、流石に殴り掛かりはしなかったが、辛辣な言葉でチクチクとあの晩、創造神と母の名に誓ってアレクサンドラには触れないと約束しておきながら、無体なことをアレクサンドラにしたために、何度も帰りたいというジャスティーヌを引き留めた自分が共犯の疑いをかけられ、手紙に返事も貰えない状態になっているのだと、怒りをアントニウスにぶつけてきた。
双方から同じような内容の言いがかりをつけられるという事は、あの晩、アントニウスがアーチボルト伯爵邸に忍んでいき、夜着姿のアレクサンドラと密会したことが誰かに知れ、それがジャスティーヌ嬢の耳に入ったとしか考えられなかった。
「ミケーレ! 人払いを!」
アントニウスは廊下で控えているであろうミケーレに命じると、一気にアレクサンドラをソファーの上に押し倒した。
「落ち着いてください。これでは、伯爵家の縁者がイルデランザの公爵家嫡男に対して暴力沙汰を起したこととなり、お父上に多大なるご迷惑が掛かります」
父に迷惑がかかると言われ、一瞬怯んだアレクサンドラから手を放すと、アントニウスは抱きしめたいという想いを必死に抑えて向かいのソファーに座った。
「とりあえず、人払いはしましたが、ここは国王のプライベートガーデンではありませんから、壁に耳ありです」
アントニウスは殴られて腫れた頬を冷やそうともせず、まっすぐにアレクサンドラの事を見つめた。
「あなたは、本当に私が誰かに秘密を話したと思っていたのですか?」
アントニウスは失望したように問いかけた。
「他に疑う相手は? 使用人や下僕、私利私欲の為に主の秘密をお金に換える輩は沢山います」
アントニウスの言葉にアレクサンドラは頭を横に振った。
他の家ではどうか知らないが、少なくともアーチボルト伯爵家には、そのような使用人は一人も居ない。
「実は昨日、王宮に呼ばれ、ロベルトから似たような苦情を受けましたよ。あの舞踏会の日以来、ジャスティーヌ嬢が手紙に一切返事をくれないし、一筆でいいから、一行でもいいから、具合が良くなるまで待つという使いをけんもほろろに追い返したと言ってね。ロベルトの推理では、あの晩、私がアレクサンドラ嬢に破廉恥な真似をし、ジャスティーヌ嬢はロベルトが私の共犯だと思って怒っているに違いないと言っていました」
アントニウスの言葉を『はいそうですか』と信じられるほどアレクサンドラの心は穏やかではなかったが、確かに、あの日以来、ロベルトから手紙や贈り物があってもジャスティーヌが全く喜ばず、お見舞いの花でさえ部屋に飾らずに母のサロンに飾らせていることはアレクサンドラも気付いていた。
「でもジャスティーヌは、あなたが秘密を知っているのだろうと、はっきり訊いてきました」
アレクサンドラは言うと、正面に座るアントニウスの事を見つめた。
「あの賢いジャスティーヌ嬢の事です、もしあの晩、私が窓から出入りしているところを下男か誰かに目撃され、それが耳に入れば、いつもなら引き留めるどころか、すぐにでも屋敷にジャスティーヌ嬢を自分の馬車で送るロベルトが、引き留めるという不自然な行動をとったことと、私が舞踏会の途中で姿を消したこと、そんな些細な情報から一番可能性の高い、秘密を知られてあなたが私に脅されているという結果にたどり着くのは簡単な事でしょう」
ソファーに向かい合って座り、諭されるように言われると、アレクサンドラも自分の軽率な行動がジャスティーヌにアントニウスに秘密を知られているという確信を持たせてしまったことに気付いた。
「こまりましたね」
アントニウスは言うと、アレクサンドラから距離を取るようにソファーの背に寄りかかった。
最近はドレス姿を見慣れていたせいか、体の線がはっきりと際立つ男姿のアレクサンドラを見ていると、抱きしめたい、触れあいたい、あのバラ色の唇に口付けたいという欲求がここぞとばかりに沸き上がってくる。
「私がバカだったから、ジャスティーヌにまで秘密が・・・・・・」
アレクサンドラは言うと、言葉に詰まった。
ついこの間まで、するすると出て来た男言葉が、今は意識してもはしたなく思えて出てこない。これでは、アレクシスではなく、男装をしたアレクサンドラだと言って歩いているようなものだった。
「とにかく、まず一点、大きな誤解を解かなくてはなりません」
「誤解?」
アレクサンドラは鸚鵡返しに返した。
「ええ、この問題を大きくしている、一番の問題です」
アントニウスは言うと咳ばらいをした。
「あの晩、私があなたに指一本触れていない事は、あなたが一番よくご存知のはずです。この点をはっきりとジャスティーヌ嬢に説明して戴ければ、ジャスティーヌ嬢の誤解は解け、ジャスティーヌ嬢のロベルトに対する怒りも静まり、そうすればロベルトの私に対する怒りも静まります」
アントニウスの説明に、アレクサンドラは無言でコクリと頷いた。
「さて、それから、大事なお話があります。本当は、お宅に伺ってお話したかったのですが、こうなっては仕方がないので、今ここでお話します」
アントニウスは居住まいを正すと、優しい瞳でアレクサンドラの事を見つめた。
「私は、アレクサンドラ嬢の社交界デビューが終わったら国に帰ります」
さすがに、本人を前にアレクサンドラの社交界デビューの仕度につぎ込んだお金のことで父の怒りを買い、国に戻らなくてはならなくなったとは言えないアントニウスだった。
「えっ! そんな・・・・・・」
喜ぶかと思っていたアレクサンドラは、驚くと困惑を露わにした。
「あなたにとっては、アレクサンドラ嬢やジャスティーヌ嬢の幸せを邪魔するかもしれない邪魔者が消えるのですから、嬉しいことでしょう?」
少し皮肉っぽく言われ、いつものアレクサンドラならば、一言も二言も言い返しただろうが、アントニウスが帰国するという知らせに、アレクサンドラは何も言う事が出来なかった。
「残念ながら、舞踏会にお供できるのも、ほんの数回になるでしょう。ですから、その間に、フランツから逃げる方法は、アレクサンドラ嬢自身でお考え下さいと、お伝えください」
最後までアレクサンドラの心配ばかりするアントニウスに、アレクサンドラは更に困惑を深めた。
「私が数回エスコートして我が物顔で振舞ったところで、国に帰ってしまえば、手も足も出ません。私が耳にしたところによれば、フランツは父のバルザック侯爵に働きかけて、アレクサンドラ嬢との結婚話を進めようとしているようです」
「そんな・・・・・・」
アレクサンドラにしてみれば、自分を見れば『出自が卑しい貧乏伯爵家の縁者が社交界で大きな顔をするな』だの『貧乏伯爵家の娘でなければ、ジャスティーヌを嫁に貰ってやっても良い』などと、不遜な言葉を頻繁に口にしては自分と決闘にまで発展した犬猿の仲どころか、いっそ一思いに殺してしまいたいと、殺意さえ湧く相手だ。そんなフランツとダンスを踊るだの、結婚するだの、考えただけでも怖気が走った。
「本当は、アレクサンドラ嬢を連れて国に帰りたかった」
アントニウスは静かに言った。
「私は馬鹿な男です。最初から、アレクサンドラ嬢に愛を囁けば良かったのに、つまらない事で時間をムダにしてしまった上に、あなたの心を深く傷つけてしまった」
「アントニウス様・・・・・・」
「聞いています。アレクサンドラ嬢は最近、毎日のように教会に通っていらっしゃると」
「それは・・・・・・」
「その話を聞いて私は、アレクサンドラ嬢が私との結婚から逃げるために、自ら命を絶とうとしているのではと不安になったのです。それで、あの晩、アレクサンドラ嬢に逢いに伺ったのです。でも、アレクサンドラ嬢の頑なな心に、私の愛は届きはしなかった。あの方の心を貝のように閉ざしたのは、この私なのに」
アントニウスは悲しげに言うと、ほんの少しアレクサンドラから視線を逸らした。
「きっと、社交界にデビューされれば、アレクサンドラ嬢は引く手あまたになります。何しろ、ジャスティーヌ嬢が王太子妃になるのは、ほぼ確実だと社交界でも噂されているくらいですから。そうしたら、瓜二つのアレクサンドラ嬢は、ジャスティーヌ嬢のハートを射止めようとしていた男たちにとっては、ジャスティーヌ嬢も同じ。すぐにアレクサンドラ嬢に想いを移すでしょう」
「アレクサンドラは誰にも嫁がないと」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスがアレクサンドラの事を見つめた。
「あなたも伯爵家の縁の者なら貴族の社会の事はお分かりでしょう? 貴族の令嬢ならば、家と親の立場と言うものがあり、家長の決断には逆らえないと言うことも分かっているはずです」
アントニウスは言うと、アレクサンドラから視線を逸らした。
ジャスティーヌが王太子妃に決定した後、一気に株の上がったアーチボルト伯爵家と縁戚関係になりたいと思う高位貴族達によるあの手この手の戦法に、いずれ『のらりくらりのルドルフ』も、国の安寧の為と追い詰められれば、アレクサンドラをどこかの有力貴族に嫁がせる必要が出てくるという事は、考えれば誰にでも分かることだった。いくらエイゼンシュタインが自由恋愛の国とはいえ、政略結婚が皆無なわけではない。必要に迫られれば、それぞれの家の事情で双方納得するしかないのが、いわゆる貴族の、大人の世界の約束事で、それはエイゼンシュタインだからと言って違いはない。
「私は、あなたのものです。そう、お約束しました。あなたが約束を破ってない以上、私も約束を守ります」
アレクサンドラはアントニウスだけに聞こえる様に、囁くような小さな声で言ったが、その言葉を聞いたアントニウスの表情が曇った。
「この間言ったはずです。もう、ゲームは終わりです」
アントニウスも声を潜めて直接アレクサンドラに答えた。
「でも・・・・・・」
「私は、墓まであなたの秘密を持って行くと母の名にかけて誓います。たとえ、どんな拷問や、卑怯な罠にはめられたとしても、私の命に代えてもあなたの秘密は守るとお約束します。だから、あなたは、もはや誰のものでもありません」
「でも、それでは・・・・・・」
アレクサンドラは言い募ったが、アントニウスは頭を横に振った。
「愛しい人。きっと、私は国に帰ってもあなたの事を忘れることはできないでしょう」
男装のアレクサンドラではなく、美しく着飾ったレディのアレクサンドラに言いたかった言葉だが、アントニウスはそのまま続けた。
「残念ながら、私は、あなたのハートを射止めることが出来なかった。でも、私はあきらめが悪いので、まだまだ、悪あがきはするつもりです。あなたが正式に別の男性の妻になるまで、決してあきらめはしません」
アントニウスの言葉に、アレクサンドラは何を信じて良いか分からず、返す言葉が見つからなかった。
「そんな薄着で、共も付けずにお一人でいらしたのですか? 馬車で、お屋敷まで送らせましょう」
「アントニウス様!」
「次にお目にかかるのは、社交界デビューの時ですね。覚悟してください。絶対にあなたの手を放しはしません。他の誰とも、あなたを踊らせはしない」
アントニウスは言うと立ち上がり呼び鈴の紐を引いた。
少しの後『失礼致します』と一声かけて執事のミケーレが入ってきた。
「ミケーレ、アレクシスの乗馬の技を信頼していないわけではないのだが、やはり、私と早駆けをして落馬されたことが思い出されて不安が拭えない。このままお返ししたくないので、悪いが、急いで馬車を用意して、アーチボルト伯爵家までお送りしてくれ。それから、アレクシスの乗ってきた馬は馬蹄に送らせるよう手配してくれ」
「かしこまりました。直ちに馬車の準備を致します」
ミケーレは言うと、すぐにサロンから出て行った。
「アレクシス、申し訳ないが帰国の準備でバタバタしているので、私はこれで失礼させてもらう。馬車の準備はすぐに整うだろうから、しばらくここで待っていてくれたまえ」
アレクサンドラに向き直って言うと、アントニウスは立ち上がった。
「せっかくの訪問に、お茶も出さないままで失礼した。では・・・・・・」
アントニウスは優雅に一礼すると、アレクサンドラを置いてサロンから出て行った。
アントニウスの言ったとおり、馬車の仕度はすぐにでき、迎えに来たミケーレに案内され、アレクサンドラは公爵家の馬車で屋敷まで送ってもらうことになった。
☆☆☆
突然、嵐のように屋敷を飛び出していったアレクサンドラの様子を目の当たりにし、ジャスティーヌは自分の推理が正しかったことを確信した。
それは、ジャスティーヌにとって、信じられないほど恐ろしいことだった。
幼い頃に出逢い、ずっと想いを寄せていた愛しいロベルトが、ジャスティーヌを思いやり、どんな無体なこともしないロベルトに絶対の信頼を置いていたのに、そのロベルトが協力し、アントニウスが落馬事故の時に知った、アレクシスが実はアレクサンドラであるという秘密を使ってアレクサンドラを脅し、その貞節を奪ったのだ。そして、アントニウスがそんな非道な事をすると知ってか、知らずかはわからないが、頼まれるままにロベルトはアントニウスに力を貸したのだ。
ジャスティーヌが幸せな気持ちでロベルトと舞踏会で踊っている間、アレクサンドラは図書室でアントニウスから死にたくなるほどの恥辱を受けていたのだと思うと、ジャスティーヌは自分が許せなかった。
夜に忍んで屋敷まで訪ねてくるという事は、きっと、あの落馬事故の後すぐからアレクサンドラは辱めを受け、それがアレクサンドラに自分は男性ではなく、非力な女性なのだと思わしめたに違いない。自ら進んで、血のにじむような努力をしてアレクサンドラがレディに戻ったのだと思っていたが、それすら、アレクサンドラの意思ではなく、アントニウスの指示だったのかもしれないと思うと、ジャスティーヌはあふれる涙を止めることが出来なかった。
あの落馬事故の後、誰よりも一番に見舞いに来たアントニウスに、ジャスティーヌは敬意を持って接したが、痛みで体が自由にならないアレクサンドラをアントニウスが辱めたとしたら、それはもう、お皿に載った御馳走を食べるくらい簡単だっただろう。
ジャスティーヌはアレクサンドラに申し訳ないという思いと、双子なのに、なにも気付いてあげられなかった自分の鈍感さに怒りすら覚えた。
涙を拭ったジャスティーヌは階下に下りると、父の書斎を訪ねた。
「どうしたジャスティーヌ。殿下と喧嘩でもしたのか? 使いも返し、花束も受け取ろうとしないと、アリシアが心配していたぞ?」
父の問いに、ジャスティーヌはすぐには答えられなかった。
「まあ、若いうちはよくあることだ。喧嘩をして、仲直りし、また、喧嘩をして、仲直りする。そうしている間に、よりよく互いの事が分かり、子供が生まれ、私たちのような歳になるころには、お互いに言葉にしなくても相手の考えていることが、おおよそはわかるようになるものだ」
ルドルフは嫁ぐ前の娘に教えるように言った。
「お父様・・・・・・」
「どうしたジャスティーヌ。お前らしくない暗い表情ではないか」
さすがのルドルフも、いつもと違うジャスティーヌに困惑した。
「お父様、わたくし、殿下とのお見合いを辞退し、所領内の修道院に入りたいと思います」
突然のことに、ルドルフは開いた口がふさがらなかった。
「い、いま、何と言った? いや、ちょっと待て! もしかして、ジャスティーヌではなくアレクサンドラなのか?」
慌てふためくルドルフに、ジャスティーヌは静かに頭を横に振って見せた。
「いいえ、お父様。私はジャスティーヌでございます」
「ならば、なぜそんなことを急に言い出す? お前は、幼い頃に殿下と結婚の約束をし、今までずっと殿下一筋に想いをよせ、やっと念願かなって殿下の隣に並び、この見合いが終われば王太子妃になれるというのに、なぜ修道院に入るなどと言い出すのだ?」
ルドルフの驚きとパニックは当然の事だった。既に、国王のプライベートガーデンでロベルトの妻にはジャスティーヌを迎える事が決まっていると、リカルド三世自らそう宣言したのだから、正式ではないものの、既にジャスティーヌとロベルトは婚約したも同じ。それを若気の至りとはいえ、つまらない喧嘩が原因で、結婚の話はなかったことに等できるはずがない。
「私は、とても幸せでした。お慕いしていた殿下が、私の事を覚えていてくださり、それだけでなく、あの幼き日に婚約したことまで覚えていて下さった。それだけで私は満足でございます」
ジャスティーヌの言葉からは、なぜ結果が婚約破棄になるのか、まったくルドルフには話が見えてこなかった。
「ですが、私はアレクの不幸の上に成り立つような幸せを甘んじて受けるわけにはまいりません」
ジャスティーヌの言葉の意味が全く分からず、ルドルフは困惑した。
もともと、アリシアに言わせれば、国王の気持ちや考えはよくわかるが、女心はちっともわからない唐変木だというルドルフには、女心どころか、年頃の娘の考えていることなど、想像すらつかなかった。
こうなったらアリシアを呼ぶしかないと、呼び鈴に手をかけたルドルフは、ジャスティーヌの『アレクの不幸の上に成り立つような幸せ』という言葉がひっかかり、いったん呼び鈴を鳴らすのをとどまった。
「ジャスティーヌ、それはどういうことだ?」
説明を求める父に、ジャスティーヌは事の次第を話すべきか悩んだが、ただ頭を横に振った。
「それでは、話にならない。国王陛下自らお前とアレクサンドラをロベルト殿下の見合い相手として選ばれ、既にロベルト殿下に妻として選ばれたも同じお前が今更見合いを辞退し、しかも修道院に入るなど、そんなこと国王陛下がお許しになられるわけがないだろう! 大体、お前が辞退すれば、アレクサンドラが殿下に嫁ぐことになるのだぞ!」
言ってしまってから、大粒の涙を零すジャスティーヌに、ルドルフはやはりアリシアを先に呼ぶべきだったと後悔した。
「アレクと共に、二人で修道院に参ります」
泣きながらも、ジャスティーヌはそう答えた。
「何を馬鹿な!」
おっとりした性格のルドルフにしては珍しく、乱暴に呼び鈴を引くと家令のコストナーが飛んでやってきた。
「話にならない。ジャスティーヌを部屋に。それから、アリシアをここに。ライラに言って、ジャスティーヌは部屋から一歩も出さぬように見張らせるように」
めったに見ることのない、憤怒に顔を赤くする主人の姿に、コストナーは両手で顔を覆って涙するジャスティーヌを連れて主の書斎を出ると、ゆっくりと階段を目指しながら、メイドにライラを呼びに行かせた。
「では、お嬢様。旦那様のご命令通り、お部屋でお過ごしください。すぐにライラが参ります」
ジャスティーヌを部屋まで送り届けると、家令はすぐにアリシアを探しに階下へと降りていった。
部屋から一歩も出るなと命じられる必要もなく、アレクサンドラが不在の今、ジャスティーヌには出かける場所も予定もなかった。
ただ、怒りに任せて飛び出していったアレクサンドラの身を心配しながら、無事に戻ってくることを祈るしかなかった。




