12-11
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馬車を屋敷に戻らせると、アントニウスは栗毛の愛馬にまたがってアーチボルト伯爵邸を目指した。
門番に見とがめられぬように馬を降りると、近くの木に馬の手綱を結んだ。それから、正門から少し離れ、フェンスの高さが低くなったところでフェンスを乗り越えた。
馬も降り、フェンスを乗り越えた時点で正面玄関からアレクサンドラを訪ねることはできないが、主だった家人が出かけている屋敷の中で灯りがついている部屋は思ったよりも数が少なかった。
これも日頃からの節約の賜物で、家人のいない部屋の灯りは徹底的に落として節約する習慣が使用人全員に染みついているからだった。
ゆっくりと屋敷の方へと進んでいくと、一階の窓辺で灯りが瞬いていた。
アントニウスは足早に屋敷に近づくと、明かりが家令による見回りか、使用人なのかを確認しようと、部屋の中を覗き込んだ。
そこは図書室のようで、蝋燭の灯りを頼りに本を探しているのはアレクサンドラだった。
少し痩せたように見えるその面差しに、アントニウスは後先も考えずに窓を静かにノックした。
突然のことに驚いたアレクサンドラが振り返り、ゆっくりと窓の方へと歩み寄ってきた。そして、蝋燭の灯りにアントニウスの姿が映し出されると、その表情から脅えが消え、アレクサンドラは窓のカギを開けてくれた。
「こんな夜分に申し訳ありません」
アントニウスが謝罪すると、アレクサンドラは窓から離れ扉の方へと歩いて行った。そして、カチリという金属音が聞こえた。
「この図書室は、家令も利用することを許されていますから、念のため鍵をかけておきました。こちら側から鍵が刺さっていれば、断りなく入っては来れませんから」
すっかり物腰も言葉遣いもレディになったアレクサンドラに、アントニウスは眩しささえ感じた。
「どうぞ、お入りください」
窓の高さからいって、アントニウスに乗り越えられない高さではなかったが、それをしてしまうと、ロベルトとの約束を破ることになるような気がして、アントニウスは躊躇した。しかし、暖炉に火の入っていない図書室は、窓を開けただけで急激に温度がさがってしまう。アントニウスは決心すると窓枠を乗り越えて図書室に入ると窓を閉めた。
「アレクサンドラ嬢・・・・・・」
改まって呼ぶと、アレクサンドラは不思議そうにアントニウスの事を見つめた。
「家族が皆、出払って居るので、もしかしたら今宵、いらっしゃるのではと思って、一階に降りておりました」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスは驚きを隠せなかった。
「両親とジャスティーヌが共に出かけることは珍しいですから。それに、間もなく私が社交界にデビューしてしまえば、初物としての私の価値も下がってしまうのでしょう? 誰も見たことのない、深窓の令嬢と言うことだけの価値しかないのですから」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスは自分が歓迎されているのではなく、間もなくに迫ったアレクサンドラの社交界デビューを前に、今までの投資を回収するために貞操を奪いに来たのだとアレクサンドラに思われているのだと気付いた。
「愛の言葉も、お世辞も、何もいりません。ただ、あなたの望むように私をしてください」
アレクサンドラは言うと、するりとガウンを床に落とした。
既に寝る準備を終えているアレクサンドラが身に着けているのは薄い夜着だけだった。柔らかいシルクは、アレクサンドラの体の線を惜しげもなくアントニウスの前に晒した。
余りのことに、アントニウスは言葉もなくアレクサンドラの事を見つめた。
本当は背を向けなくてはと思っているのに、余りに魅力的なアレクサンドラから目が離せず、魅入られたようにアントニウスは体が動かなかった。
「どうぞ、こちらへ」
そう言うアレクサンドラの指が夜着のボタンにかかった。
そのボタンが外されれば、それこそ何も隠すもののないアレクサンドラの肌がアントニウスの目に晒されることになる。
「いけません」
アレクサンドラに触れないと創造神と母の名に誓ったアントニウスは、慌ててアレクサンドラに背を向けた。
「あなたがおっしゃったのです。あなたを篭絡しろと。でも、私にできるのは、所詮この程度の事です」
アレクサンドラは言うと、ゆっくりとアントニウスの方に歩み寄ってきた。
「どうぞ、私をあなたのお好きになさってください。その代わり、決して、家の名を貶め、父の顔に泥を塗り、姉の結婚の邪魔となるようなことをしないとお約束してください。今夜、あなたが犯す罪は、すべて私の罪。あなたが未婚の娘と契ることで犯す罪は、未婚の私が殿方に体を許す罪として、私一人が背負ってまいります」
アレクサンドラの言葉が途切れ、パサリと夜着が床に落ちる音がした。
男としての本能が目覚めるよりも前に、アントニウスはここまで愛する人を追い詰めた自分が許せなかった。ロベルトの前で創造神と母の名に誓っていなければ、すぐにでも自分の上着を脱いでアレクサンドラの体を覆い、その場に跪いて許しを請い、自分が卑怯ともいえる振る舞いをしていたのは、アレクサンドラを誰にも奪われたくなかったからで、本当は秘密を誰かに漏らすつもりなど全くなかったことを伝えたかった。しかし、アレクサンドラに触れられぬ身では、それもできなかった。
「どうか、おやめください」
なんとか言葉を絞り出したが、アレクサンドラは納得していないようだった。
「どうぞ、こちらをお向きください」
震える声で言うアレクサンドラが、どれ程の羞恥心に襲われているのか、アントニウスは考えるだけで胸が苦しくなった。
「どうか服を・・・・・・。そして、体が冷えぬようにガウンを着てください」
やっとのことでアントニウスが言うと、背後でアレクサンドラが動く気配と衣擦れの音が聞こえた。
「もう、そちらを向いても大丈夫ですか?」
「ガウンに袖も通しました」
アレクサンドラの返事を聞いてから、アントニウスはゆっくりと振り向いた。
蝋燭の光に照らし出されたアレクサンドラは、落胆したように床を見つめていた。
「私は、卑怯ものでした」
アントニウスの言葉に、アレクサンドラが驚いたように顔を上げた。
「私は、あなたの秘密を知り、それを利用してあなたの気持ちを私に向けようとしたのです。あなたの気持ちが、他の男のところに行かないようにと。ですが、それは全て間違いでした」
「私には、それほどの価値はありませんし、他の殿方に想いを向けることもないでしょう」
「今宵、私はロベルトに、あなたに指一本触れぬと創造神と母の名に誓ってきました」
「では、日を改めていらっしゃるのですね」
再びかみ合わぬ話に、アントニウスはぎゅっと両手を握りしめた。
「アレクサンドラ、私はあなたに心から恋しています」
アントニウスの言葉に、アレクサンドラは頬を染めるのではなく、寂しげに微笑んだ。
「私には、どのような愛の言葉も、お世辞も必要ありません」
「アレクサンドラ・・・・・・」
「この身は既にあなたのもの。あなたの望むようにしていただいて構いません。どんな目にあわされたとしても、どの様に扱われたとしても、文句は申しません」
「お願いです、私の話を聞いてください! ちゃんと、私の言葉を聞いてください!」
声を上げたアントニウスに、アレクサンドラが驚くと同時に、図書室の扉の鍵がガチャガチャと音を立てたかと思うと、扉がノックされた。
『アレクサンドラお嬢様? このようなお時間に、鍵をお閉めでいらっしゃいますか?』
訝しげなコストナーの声がドアー越しに聞こえた。
「ええ、一人になりたくて」
『左様でございましたか。ですが、お嬢様以外のお声が聞こえたような気が致しましたが』
鋭い家令の問いに、アレクサンドラはスッと手を喉に手を当てた。
「酷いなぁ。もしかして、このアレクシスの声を聴き忘れたわけじゃないだろう?」
低いアレクシスの声に、家令は納得したようだった。
『これは、失礼致しました。後ほど、戸締まりを確認しに戻って参ります』
家令の去っていく気配に、アレクサンドラもアントニウスもホッと息をついた。
「このような場所を誰かに見られては、あなたのお名前に傷がつきます」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスは思わず数歩の距離を詰めた。
「お名前に傷がつくのは、私ではなく、あなたの方です。このような事が人の耳に入れば、未来の夫となる方に多大なる誤解を与えることになります」
アントニウスは言ってしまってから、再び自分の言葉がアレクサンドラにとって脅しのようになっていることに気付いた。
「ご心配はいりません。私は誰にも嫁ぎは致しません」
アレクサンドラは静かな声で言った。
「なぜです? あなたほどの美しいレディが社交界にデビューすれば、縁談は星の数ほど舞い込んでくるでしょう。ましてや、ジャスティーヌ嬢が王太子妃にと決まれば、ジャスティーヌ嬢に恋をしていた男達の目はすべてあなたに向けられることになります。それこそ、選り取り見取りに・・・・・・」
「賭けは私の負けです。私は、あなたを篭絡することが出来なかったのですから」
アレクサンドラが寂しそうに笑った。
「では、我が妻に。あなたが本当に私のものだというなら、その証として、我が妻になってください」
アントニウスの言葉に、アレクサンドラは頭を横に振った。
「アントニウス様は大公位の継承権を持つ、公爵家のご嫡男です。その地位と立場にふさわしい女性を迎えられるべきです。ロベルト殿下が、六ヶ国後を話し、経済にも政治にも詳しいジャスティーヌを妻とするように、アントニウス様には、アントニウス様に相応しい女性が奥方となるべきです。私は、アントニウス様がエイゼンシュタインにいらした時にお慰めする程度の役にしか立ちません」
「アレクサンドラ、あなたが何と言おうと、私はあなた以外の妻は要らない。あなたが我が妻にならないというなら、私もあなた以外に妻はいらない。あなたが他の誰の者にもならないというなら、私はそれで構わない」
「アントニウス様・・・・・・」
「私は、私の愛であなたを縛る。それは、秘密のためでも何のためでもない。私があなたを愛しているからです」
「もう、お戯れはおやめください。私が邪魔なら、いっそ死ねと、そう仰ってください。私の命はアントニウス様のものでございます。お望みなら、今ここで命を絶ってご覧にいれましょう・・・・・・」
アレクサンドラの言葉に愕然とするアントニウスと悲嘆に瞳を潤ませるアレクサンドラの耳に、門から近づいてくる馬の蹄の音が聞こえてきた。
「お父様たちだわ」
「今宵は、これで失礼致します」
アントニウスは言うと、素早く窓のカギを開けて窓の外へと身を翻した。
突然の風にアレクサンドラの蝋燭の火が消えたが、アレクサンドラは急いで窓に駆け寄り、アントニウスが去った窓のカギを閉めた。
さっきまで寒さを感じなかったのに、暖房の入っていない図書室の中は冷え切り、一人になったアレクサンドラはぶるりと体を震わせた。それから手探りで蝋燭を手に取ると、ゆっくりと手探りで図書室の扉まで進んだ。
『アレク? こんな時間に図書室なんかで何をしているの?』
廊下を足早に進んでくるジャスティーヌの気配に、アレクサンドラはやっとのことで鍵を鍵穴から抜いた。
「ジャスティーヌ、蝋燭を落として火が消えちゃって、外から開けてもらえる?」
『わかったわ。ちょっと、待っててね』
立ち去るジャスティーヌの気配に、アレクサンドラはホッとした。
今すぐ扉を開けられたら、そこにアントニウスがいたことをジャスティーヌに知られてしまいそうな気がしたからだった。
外から鍵を開けてもらうまでの間、アレクサンドラはぎゅっと夜着の胸元を握りしめた。
今夜こそは、全ての決着をつけ、明日には全ての罪を神の前に告白できると、アントニウスが現れた時に思ったのに、何もかも思った通りにはならなかった。
(・・・・・・・・勇気をふりしぼって、自分から裸になったのに。籠絡しろなんて言うくらいだもの、アントニウス様は最初から私に興味なんてなかったんだ。だから、こっちを見ようともしなかった。そうだよね、ジャスティーヌみたいに細くないし、胸も大きくないし、スタイルが悪いのはダンスの練習で確認済みだもんね。魅力がないんだから、籠絡なんて出来るはず無いじゃない・・・・・・・・)
アレクサンドラは潤んだ瞳を手の甲でこすって涙を隠した。
「私はジャスティーヌじゃないもんね」
一卵性の双子で、他人から見たら見分けがつかない二人だが、アレクサンドラにとって、ジャスティーヌは常に自分より美しく、上品で、賢く素晴らしい、比べようもない存在だった。
「もう、こんな薄着で。体が氷みたいに冷たいじゃない!」
図書室から出て来たアレクサンドラを抱きしめると、ジャスティーヌは心配そうに言った。
「ねえ、風邪ひいてない? 寒気とかしない?」
「大丈夫だよ。ジャスティーヌは心配症なんだから」
そう言ってガウンの前を合わせなおしたアレクサンドラの夜着のボタンが一つ飛んで斜めにかかっているのをジャスティーヌは見逃さなかった。
以前のアレクサンドラならば、夜着に着替える時も一人で着替えていたが、今はライラが着替えを手伝うから、ボタンを掛け違うことなどありえない。つまり、ライラがボタンを留めた後、アレクサンドラが故意にボタンを外したか、誰かがボタンをはずし、アレクサンドラが留める際に掛け違えたとしかジャスティーヌには考えられなかった。
アレクサンドラが階段を上っていくのを見送ると、ジャスティーヌは家令の執務室に取って返した。
ちょうど執務室から出て来た家令は、突然のジャスティーヌの訪問に驚いたが、ジャスティーヌの問いに更に驚かされた。
「留守中にどなたか訪問者は?」
「いいえ、どなたもいらしておりません」
「アレクが一人で図書室にいたけれど、何かおかしなことはなかった?」
「久しぶりに、アレクシス様のお声を拝聴致しました」
家令の答えに、アレクサンドラは背筋を冷たいものが流れていくのを感じた。
「お嬢様、何か?」
顔色の悪くなったジャスティーヌを心配する家令に礼を言うと、ジャスティーヌは自分の部屋へと戻っていった。
ライラに着替えを手伝ってもらう間も、ジャスティーヌの中の疑惑は膨らんでいくだけだった。
突然、足しげく教会に通うようになったアレクサンドラは、ライラの話では、何度も告解しているという。もしそうだとしたら、今晩、家族の留守中にアレクサンドラを訪ねてきた男が、アレクサンドラに不埒な真似を働き、そのことをアレクサンドラは苦にして教会に通い、何度も告解しているということになる。
(・・・・・・・・だとしたら、いったい、誰が? アレクは非力な普通の令嬢じゃないのに・・・・・・・・)
そう思った瞬間、パーティーの途中で姿を消したアントニウスの事がジャスティーヌの脳裏に浮かんだ。
まるで示し合わせたように、アントニウスがどこに行ったのか、なぜパーティーの途中で帰宅したのかを訪ねても、ロベルトは何も知らないと言いながら、一人残したアレクサンドラが心配だから早く家に帰りたいとジャスティーヌが言うと、ロベルトは何度もジャスティーヌの事を引き留めた。
そのロベルトの様子に納得がいかず、ジャスティーヌが奥の手である、気分が悪くなったと言って帰宅しようとすると、両親が心配して一緒に帰ると言い出し、ロベルトはそれでも名残惜しいとか、なんとか理由をつけて、ジャスティーヌ達の帰宅を引き延ばそうとした。
もし、それがアントニウスに頼まれての事だとしたら、ロベルトは従兄のアントニウスに頼まれて自分たちを足止めし、アントニウスがアレクサンドラに非道な真似を、少なくとも、夜着のボタンを留めなおさなければならないような不埒な真似をする手助けをしたということになる。
そう考えると、ジャスティーヌはアレクサンドラに申し訳なくなって涙が溢れてきた。
「お嬢様?」
心配げに問いかけるライラに頭を横に振ると、ジャスティーヌは無言で出て行くように合図した。
思い続けていたロベルトと相思相愛だとわかり、自分だけが幸せいっぱいで、アレクサンドラが酷い目にあわされているなんて考えもしなかった自分が、酷く子供で愚かに思えた。
きっと、全てはあの落馬事件の時なのだと、ジャスティーヌは確信した。
落馬したアレクサンドラが女性だと知ったアントニウスは、きっとその優位さを利用して、アレクサンドラを脅したに違いない。伯爵家の名誉、ジャスティーヌの幸せがかかっているとなれば、アレクサンドラは一も二もなく、アントニウスの命令に従っただろう。だから、翌日見舞いに来たアントニウスとは話をしてはいけない、傍によってはいけないと、アレクサンドラは自分に警告したのだと、ジャスティーヌは確信した。
そう考えると、ジャスティーヌの立場は、更に難しいものになった。
このまま初恋のロベルトと夢のような時を過ごし、結婚するとなれば、アレクサンドラに非道を働いたアントニウスとは、義理の従兄妹として付き合いを続けていかなくてはならない。それが、どれ程アレクサンドラの心を傷つけるだろうか。考えるだけでジャスティーヌは耐えられなかった。
(・・・・・・・・もう、修道院に入るしかないわ・・・・・・・・)
王太子との見合いを放棄すれば、当然、他の男性に嫁ぐわけにもいかない。ましてや、ここにきて、王太子の本命はジャスティーヌと言う話が社交界でも実しやかに囁かれ、今までジャスティーヌに冷たく当たっていた侯爵家の令嬢たちまで、最近はジャスティーヌの御機嫌取りに来るくらいだ。この状況から、話をなかったことにするには、もうアレクサンドラと二人で修道院に入るしかない。
ジャスティーヌは涙を止めることが出来ず、泣きながらベッドに入った。そして、二度とアントニウスとアレクサンドラを二人っきりにはしないと、心に誓ったのだった。




