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一階のサロンで夫からの甘い甘いラブレターのような分厚い手紙を読んでいたマリー・ルイーズは、最後の一ページに記された『アントニウスを直ちに帰国させるように』という一文に目を剥いた。
マリー・ルイーズ宛の手紙には、基本事務的な内容は最後の一ページにおまけのように付け加えられるだけだったので、甘い手紙に気を良くしていたマリー・ルイーズは一瞬のうちに、修羅のように怒りを燃え上がらせた。
予定とは少し異なってしまい、アーチボルト伯爵家を掌握することには失敗したが、それでもジャスティーヌの将来の姑となる王妃に華を持たせ、徹底した裏方とはなったものの、堂々と誰に臆することなくアーチボルト伯爵家に出入りすることを許される身として、ありとあらゆる方法で外堀を埋め、もはや他の貴族にアレクサンドラを嫁がせるなどという考えが伯爵の頭に浮かぶことがないよう、しっかりとアントニウスを売り込んであるというのに、肝心のアントニウスは拗ねた子供のように自室に引き籠り、親の心子知らずとはよく言ったもので、顔を合わせればマリー・ルイーズのやり方を非難する言葉を投げつけるばかりで、会話らしい会話すら成立しない状態になっていた。そこへ『直ちに帰国させろ』と言われては、怒りのやり場に困り、そのままサロンで金切り声を挙げて叫びそうな精神状態だったが、それでも王家の血を引く公爵夫人の矜持がマリー・ルイーズを思い留まらせた。
王家お抱えの医師が派遣され、アーチボルト伯爵夫人、アリシアの具合も大分よくなり、そろそろ社交界に復帰する日も近い今、最後の一手を打てばアレクサンドラをアントニウスの妻に迎える事はほぼ決定と言えるのに、ここでアントニウスが帰国してしまったら、すべては水の泡。誰もが羨む豪奢なレディに仕上がったアレクサンドラをトンビに油揚げを攫われるように、どこの馬の骨ともわからない男に甘い言葉で掠め取られてしまうかもしれないのだ。
「こんなこと、絶対に納得がいきません!」
ぎゅっとシルクのハンチを手に握りしめて昂りそうな声を必死に抑えながらマリー・ルイーズが壁に言葉を投げつけるように吐き出すと『何が納得いかないのですか母上?』という言葉が背後からかけられた。
「アントニウス!」
慌ててマリー・ルイーズが振り向くと、アントニウスは正装に身を包み、王宮に向かうのだということがすぐに見て取れた。
「約束もなく、突然、王宮を訪ねるのですか?」
普通ならば許されないことだが、マリー・ルイーズが元々王家出身であることから、その息子であるアントニウスも特別に許されている特権の一つであった。
「はい。あまり時間がないので、伯父上、いえ、陛下とロベルト殿下に御挨拶をして参ります」
「待ちなさい、時間がないとはどういうことです? まさか、お父様に従って帰国するつもりなのですか? アレクサンドラさんのことはどうするつものなのですか? 婚約もせず、そのままで帰国するなんて!」
マリー・ルイーズの言葉に、真剣な瞳でアントニウスが見つめ返した。
「母上、事は国の一大事。一家臣である私の婚約など、国の安寧の前には些細なことです」
「国の一大事ですって? 一体何を言っているの?」
アントニウスの言葉の意味が分からず、マリー・ルイーズは困惑を露わにした。
「まったく、父上のことですから、母上宛の手紙には何も書いていなかったのですね。事の子細を知れば母上とて、国に戻る気になるでしょうから、父上としては、母上はエイゼンシュタインとの同盟の維持のためにも、帰国してもらいたくない。そんなところですか・・・・・・」
アントニウスは言うと、小さくため息をついた。
「何があったというのです、アントニウス」
「ポレモス共和国との関係が際どくなり、大公殿下が国軍に召集をかけたのです。ですから、陸軍に籍を置く私も、国の平和を守るために戦わねばならないということです」
もともと、ポレモス共和国との問題を抱えていたイルデランザ公国は、同じ公国であるグランフェルド公国大公女との政略結婚を考え、ポレモス共和国をグランフェルド公国と挟み撃ちにすることで、両国の和平と、ポレモス共和国からの軍事的脅威から逃れようとしていたが、既に婚約者のいる後嗣の婚約者を取り換えるわけにもいかず、アントニウスの相手にと計画したものの、度重なるアントニウスのエイゼンシュタインへの逃亡により、公式に話を進めることができないうちに、グランフェルド公国大公女の方から浮名が流れすぎているアントニウスに対しての懸念が持ち上がり、話が頓挫している状態だった。そのため、グランフェルド公国との不可侵条約は締結されているが、ポレモス共和国と戦争になった場合の軍事協力を得られるほどには友好関係が築けていないのも事実だった。
イルデランザ公国がポレモス共和国と戦争に入れば、列強同盟六ヶ国は当然、エイゼンシュタイン王国に倣って援軍をすぐに出してはくれるが、真反対側に国境を接するポレモス共和国との戦線に援軍を送るためには、一番近いエイゼンシュタイン王国でさえ、イルデランザ公国を横断するほかには最前線に援軍を送ることができないという問題をイルデランザ公国は抱えていた。
「こんなことならば、私がおとなしくグランフェルド公国大公女と結婚するべきだったのでしょう」
いまさら言っても仕方ないことだが、アントニウスは自分の勝手のせいで国を危機に陥れたのかもしれないと思うと、いまさらながらに自分の身勝手さに腹が立った。しかし、アレクサンドラに出逢い、人を愛すること、本当に愛するということを知ったアントニウスは、政略結婚がどれほど虚しく、どんなに努力を重ねたとしても、自分がアレクサンドラ以外の相手を愛せないこともよくわかっていた。
「そんな・・・・・・。あなたが国に帰るというなら、私も国に戻ります」
「いいえ。母上はエイゼンシュタインに残ってください。母上に何かあれば、エイゼンシュタインとの同盟にひびが入りかねませんし、エイゼンシュタインの王族でもある母上は、ポレモス共和国からしたら格好の標的です」
「ですが、陸軍大将の妻である私が、公爵夫人である私が国を離れたままだなんて・・・・・・」
「母上はこちらに残り、必要に応じて列強六ヶ国への応援の要請や色々と母上にしかできない方法で国を支えてください。私は、国王陛下にしばしのお別れをして参ります」
アントニウスは言うと、マリー・ルイーズを残して屋敷を後にした。
「戦争が起こる。あの、蛮族たちが私の大切な国を踏みにじるというの? 自らの手で、王家と貴族階級を壊滅させ、王族の首を落とし、城壁の上に飾ったという、あのポレモスの野蛮人達が、イルデランザを、そしてエイゼンシュタインを狙っているなんて・・・・・・」
マリー・ルイーズは茫然として長椅子に腰を下ろした。




