獅子の目覚め
今回は過去話からです。
グラント家から追放されたリアは、路頭に迷っていた。
身に纏ったボロボロの布切れが人目に晒されるのを避けるように、リアは静まり返った裏路地を進んでいく。
その布の隙間から見える腕には、かすれた痣にような物が見え隠れする。
(随分と落ちぶれたものですわ)
リアは、かつて『紋章』が輝いていた手の甲をさすった。
そこにはもはや光などかけらもなく、あるのは何かがあったと示すかのような跡だけである。
追放される際に父から貰ったお金は、潤沢にあったはずだった。
それさえあれば、例え仕事が見つけられなくても数年は食いつなげる。
贅沢はできなくても、宿を借りて腰を据えて生活基盤を整えていけばいい。
追放されたリアも泣いてばかりはいられない。
箱入り娘なりに知恵を絞って、そのように生きていくつもりだった。
脅されてお金を奪われさえしなければ。
貧民街の崩落から逃げてきた人によって、周辺の町の治安は悪化していた。
ならず者たちが、貧民街の外でも幅を利かせるようになっていたのだ。
そのような事態に対処できる術を、リアは持ち合わせていない。
なんとか手持ちのお金をばら撒いて、隙をついて逃げた。
それでも追ってきたので、上等な服を脱ぎ捨てて死に物狂いで走る。
どれくらい走ったか分からないが、息が切れて地面に這いつくばった。
後ろを振り返り、なんとか撒いたようで安心する。
しかし、状況は最悪であった。
頼りにしていたお金を失ったのだ。
(泣いてはだめ。泣き虫の私は、グラント家の家名と共に捨てたはず)
こぼれそうになる涙をこらえて立ち上がる。
お金が無いなら宿は使えない。
とりあえず、安全な場所に行かなければ。
考えた末にリアは貧民街に行くことにした。
崩落によって貧民街の住人が追われていることは、リアが追放される前に知りえた情報だ。
つまり、今の貧民街は危険だがそれゆえに悪人すら寄り付かない場所ということである。
今の自分にとっては都合がいいだろう。
(もうすぐ日が沈む。急いで移動しないと)
そうして貧民街のある場所へとやってきたリアだったが、貧民街に広がる光景を見て絶句する。
あちこちに空いた穴に傾いた廃墟、さらには大きな亀裂がそこらかしこに入った道。
貧民街を見たことのないリアでも、この惨状が常時のものではないことは分かる。
こんなところに人が住めるはずがない。
どこか別の場所を探そうかと考えるリア。
しかし、もう暗くなり始めており、今から探すのは逆に危険かもしれない。
結局リアは、貧民街に腰を据えることにしたのだった。
元々人が住んでいたこともあって、最低限の衣食住を確保することは容易だった。
腐りかけの食べ物でお腹を壊したり寝床が固くて眠れなかったりと、温室育ちのリアにとっては辛い日々が続く。
しばらくたって、必死さが無くなり考える余裕ができるくらいには、生活が馴染んできた。
だが、リアの頭に浮かぶのは罪悪感ばかりである。
この貧民街の惨状を知ってしまえば、自分は知らないなどと言うことはできなかった。
何も考えずにテファニー・フォレスを信用して支援したのは自分なのだ。
ここの人々の生活を壊したことの罪の重さを今更実感したことで、段々と無気力になっていくリア。
食べ物を探して眠る日々を惰性で繰り返す。
そんなリアに転機が訪れる。
その日いつも通り食べ物を探していたリアは、足元が崩れ落ちたことで穴に落ちかけた。
なんとか崩れた穴の淵に両手をかけるが、非力なリアでは自分を引き上げることはできない。
穴に落ちたら再び登れる保証は、どこにもない。
「誰か! 助けて!」
そう叫ぶが、こんな所に自分以外の人がいるはずがない。
腕の力も限界に近づいていく。
(こんなに多くの人に迷惑をかけたんだから、天罰が下ったのかもしれませんわ……)
全てを諦めようとしたリア。
しかし、上から伸びてきた腕に強引に引っ張り上げられる。
なんとか助かったリアの目の前にいたのは、自分と同年代ぐらいの少年だった。
「あの……ありがとうございます。私、リアって言います。あなたは?」
「グレンだ。見慣れない顔だけど、なんでこんな場所にいるんだ?」
目の前のグレンと名乗る少年に、リアは自分の全てを打ち明けた。
元貴族であることやお金を失い貧民街で過ごしていること。
そして自分が貧民街の崩壊の原因であることも。
「ごめんなさい。迷惑ですよね。こんな急に話されても」
リアは自分でも止まらない口が、不思議でならなかった。
「同情を誘っているわけではないのは分かる。多分オレもあんたと同じだ。後悔と無力感に打ちひしがれて自暴自棄になってる」
グレンはリアの話を聞き終わった後に、自分のことを語り出した。
自分の恩人を探しているのだと。
なんでも崩落のあとから行方知れずらしい。
今も見つかっておらず、半ば諦めながらも惰性で探しているそうだ。
「それなら、なぜ私を恨まないのですか?」
「あんたの場合利用されただけだ。それに、貧民街には後ろ暗い奴らが山ほどいた。更生して友達になったやつもいる。あんたのそれは嫌う理由にはならねぇ。つってもこれは恩人の受け売りだけど」
グレンはそういって悲し気に笑った。
「恩人の方は見つかるといいですね」
リアの言葉に、グレンは生返事をして立ち上がった。
「怪我もないようだし、これぐらいで。次は落っこちないように気を付けろよ」
そう言って、その場を後にしようとするグレン。
しかし、リアの勘がこの出会いを逃してはならないと囁いた。
「あの、着いて行っても?」
リアはグレンに問いかける。
確証はないが、リアにはグレンに対して何かの素質を感じ取っていた。
小さい頃に父から言われたことを、リアは思い出す。
グラント家は従う相手を見極めることで、今日まで繁栄してきた。
そのためか、自分より上位の人間の資質を見る目が備わっているという。
自分が肩入れするべき相手を嗅ぎ分ける嗅覚ともいうべき直観こそ、グラント家の持つ最大の武器なのである。
かつてバーン王子へと謁見したときのような、目が惹きつけられる感覚。
今この瞬間にリアがグレンに感じているのは、それに近かった。
「いいけど、退屈だと思うよ」
こうしてグレンとリアは行動を共にするようになった。
リアは、グレンが過ごす住処の一部を借りて生活するようになった。
なんでも以前グレンの恩人が住んでいた場所らしい。
グレンが恩人を探す傍らで、リアは地属性魔法で少しずつ住処を補強する。
それを続けていく内に、少しずつ住処は拡張されていった。
しばらくして小屋が増築され、貧民街の廃墟の中でも目立つようになった頃。
ならず者たちが、貧民街へと戻ってくるようになった。
やはり貧民街の外では厄介者扱いのようだ。
そうなれば当然リアの住処はならず者の標的となるが、グレンが全て返り討ちにしてしまった。
貧民街で一番強かった恩人に鍛えられたというグレンの強さは相当なものらしい。
グレンがならず者を従えるようになり、リアに統率を任せたことでできることが各段に広がった。
そこからリアはある目標を抱くようになる。
リアは貧民街をそのまま放置することを心苦しく思っていた。
元ならず者たちに資材を運ばせれば、貧民街を修復することができるかもしれない。
こうしてリアは貧民街の復興を目標に『土竜商会』を立ち上げたのであった。
──────────
『土竜商会』の建物一階の奥にある、厳重に出入りを禁じられた一室。
クロの元々の住処がそのまま残されたその場所で、リアはこれまでの経緯を説明していた。
「……というのが『土竜商会』の成り立ちですわ」
リアの話を聞いていたクロは、感心する。
追放されて一文無しからここまでの成り上がるとは大したものだ。
というかグレンってそんなに強くなっていたのか。
見ない間に背もかなり伸びたし、もはや格闘だけでは互角かもしれない。
ちょっと前まで自分の後ろに着いて回っていたのに、男の子の成長をいうのは侮れないものだ。
別室にいるグレンのことを思い浮かべて、クロは少し感慨深い感情を抱くのだった。
「でも、リアのような良識のある人がいるなら、なんで『土竜商会』はこんなひどいことをしているんだ? グレンの様子もおかしいし」
クロはそう疑問を口にした。
罪滅ぼしとして復興したのなら、今の弱者を虐げる行いは矛盾している。
また、グレンは弱者と強者の関係に異様に固執していた。
クロとの再会を果たした後、グレンは頭を冷やすといって別室に閉じこもっている。
クロの知るグレンに少しは戻ったようだが、明らかに様子が変化してるのだ。
「クロを完全に諦めたことで、グレンは変わってしまいましたわ」
リア曰く、今のグレンは非常に不安定な精神状態ならしい。
自身への無力感。
クロの意思を次いで貧民街の人々の面倒を見ようという責任感。
自分よりも弱者を優先するクロを許容したことへの後悔。
弱者の居場所は作るが、更なる力を求めて搾取もする。
このめちゃくちゃな方針は、グレンによるものらしい。
「グレンにとって貧民街の人たちは、守るべきものでありながら恩人であるクロを失ったきっかけでもありますの。だからきっと憎い相手を守るをいう矛盾で、苦しんでいるのです」
神妙な面持ちでリアはグレンの内情を語った。
クロにとって夢を追いかける手段が人助けなので、それを苦と思ったことはない。
だが、それを傍から見れば、余計な心配をかけてしまうものだったのかもしれない。
とはいえグレンが貧民街の人間を憎むというのは、極端すぎるが。
「リアの方でなんとかできないの?」
なんとか解決策はないものかと、クロは頭をひねった。
「グレンは私の言葉も受け入れません。ただ、クロの生存が確認できたので、何か心に変化があるかもしれません」
リアの返答にクロは少し顔を明るくする。
グレンが自分をそんなに慕ってくれているとは思わなかったが、クロの存在で改善するのであればそれに越したことはない。
クロ自身も後日グレンと話してみれば何か変わるかもしれない。
クロがそう考えていたその時、ちょうどグレンがクロたちのいる部屋に入ってきた。
「話は済んだ?」
グレンはそう言ってドアを閉める。
「ええ。長話になりましたが、説明は終わりました。すっかり夜も遅くなってしまいましたが」
リアはそう言って、眠そうな目をこすった。
どうやらそろそろお暇した方がよさそうだ。
「後日また話そう。今日は帰らせてもらうよ。邪魔したな、グレン」
クロはそう言って立ち上がる。
「帰る? 一体何処に? ここがクロの住処じゃないか」
グレンはそう言って引きとどめる。
どうやら久しぶりの再会が名残惜しいようだ。
「今は教会で寝泊まりしてるんだ。それにここは『土竜商会』の建物になっちゃったし」
「気にしないで。ここがクロ姐さんの場所だよ」
クロの言葉にグレンはなおも食い下がる。
あんまり会話が嚙み合ってない気がする。
やっぱり不安なのだろうか。
「私はもうどこにも消えない。だから安心して―」
「ああ、どこにも消えさせない」
グレンは突然クロを抱き上げる。
お姫様を抱っこするような優しい感触と共に、ふわりとクロの体が浮かぶ。
「クロ姐さんはずっとここで暮らしていくんだ。だから安心して」
クロは、一瞬グレンが何を言っているのか分からなかった。
藻掻くクロだったが、グレンのその大きな手はクロを捕らえて離さない。
「グレン、何を言ってるんだ。そんなの―」
グレンはクロの言葉を遮るように、口を開いた。
「クロ姐さんはすごいなぁ。あの『ブラックムーン』だなんて。貧民街の皆のためにずっと尽くしてきたんだよね? ……なら今度はオレが代わりに貧民街を支えるよ。だからもう姐さんは何もしなくていい」
もはやクロの言葉はグレンには届かない。
やむをえないと判断したクロは、グレンに蹴りを入れて離脱した。
ようやく解放されたクロは、距離を取ってグレンを睨むつける。
「何をするんだ、グレン!」
「そうですわ! クロとは後日また会えます! ここにとどめる必要はありません!」
リアとクロの言葉に、グレンは顔を歪めた。
「……またいなくなるんだ、オレの前から」
次の瞬間、グレンの顔から表情が抜け落ちる。
部屋の中に威圧感が充満していく。
どうやらグレンは、力づくでクロをこの場所にとどめようとしているらしい。
「リア。危ないから離れていろ」
グレンは、リアにそう言葉を投げかける。
リアは反論しようとするが、クロがそれを遮った。
「ありがとう、リア。でも私は大丈夫。部屋から離れてて」
クロの言葉に渋々といったかんじで、リアが退出する。
二人きりになった部屋で、クロは改めてグレンの方に向き直った。
「頭を冷やしたんじゃなかったの? グレン」
「ああ、冷えている。今のオレは冷静だとも、クロ姐さん」
会話ができることから、完全に狂っているわけではないらしい。
ただ話し合いをするにしても、一回無力化した方がよさそうだ。
睡眠薬のような小道具は今は持ち合わせていないため、肉弾戦での制圧となる。
この部屋は先ほどの廊下と違って明るい。
場所を変えないと不利だが、出入り口にはグレンが立ちはだかっている。
ならば押し通るのみ。
クロはグレンへと突貫する。
その勢いのまま、グレンの頭へと飛び蹴りをした。
両腕でそれを防いだグレンが、こちらのお腹に強烈な一撃を見舞う。
しかし、クロに服越しの打撃は通用しない。
『影潜み』によって服の影に体を入れて衝撃を逃がす。
すかさず顎に掌底を放つクロ。
グレンはすんでのところで掌底を躱し、同時にその場を飛びのいた。
クロの追撃の蹴りが、グレンのいた位置をからぶる。
体術はやはり互角なようだ。
だが、これでお互いの位置が入れ替わった。
クロは扉から部屋の外へと飛び出す。
「……っ! 待て!」
グレンは後ろから追いかけてくるのを確認しながら、クロは付かず離れずの距離を保つ。
逃げることに関しては、義賊『ブラックムーン』の得意分野である。
グレンはまだクロの魔法の仕組みに気づいていない。
(このまま暗い場所に誘い込めば、こっちのものだ)
影のある場所でグレンを迎撃して制圧するのが、クロの狙いだった。
暗い廊下でクロはグレンと対峙する。
走る勢いのままグレンがこちらに拳を繰り出す。
急所は意図的に外しているが、威力の手加減は一切していないようだ。
こちらを侮っていないのは、さすがといったところだろう。
だがクロがその攻撃を避ける必要はない。
この暗闇において、クロへの攻撃は全て影に沈み無効化される。
この初見殺しに気づかない限り、空気か水を殴るようなものだ。
グレンの攻撃を全て透かすクロは、暗闇の中でグレンへと拳や蹴りを浴びせていく。
なかなか頑丈ではあるが、一方的な攻撃である限りこちらに負けはない。
(押し切れる!)
クロがそう確信したそのとき、何十回と打ち込んだであろう影に沈んだグレンの拳に妙な感覚を覚えた。
何かを握った?
グレンが引き抜いた手の先には何か細長いシルエットが見える。
(なんだ、何を引き抜いた? いや、そういう問題ではない。なぜ引き抜ける?)
『影拾い』によって影の中にある物体は、クロにしか取り出せない。
引き抜けること自体がおかしいのである。
グレンの持つ棒から光が漏れ始めるのを確認したクロは、即座に距離を取る。
暗闇から浮かび上がったのは、海で手に入れた『勇者の遺物』だった。
だが様子がおかしい。
『勇者の遺物』の表面に着いていた汚れや鉱物などが、自発的に剥がれていっている。
その細長い物体の中身が徐々の露わになっていく。
中から現れたのは、一本の剣であった。
剣自身から放たれる光によって、傷一つない刃の光沢が鈍く輝いた。
勇者のいた古い時代の物としては、到底考えられないような保存状態である。
まるで剣が持ち主を見つけたことを喜ぶかのように、放たれる輝きを増していく。
辺り一帯が照らされ影が消え、クロは眩しさに目を細めた。
(これはまずい。光源が手に渡れば、場所を変えた意味がなくなる)
クロは焦って、グレンの剣を奪い取ろうとする。
しかし、その手が剣に届く前にグレンは距離を取った。
その速度は先ほどよりも格段に上がっている。
「ふむ、よく馴染むな」
グレンはそう言って、クロとの距離を詰めて剣の側面を振るった。
峰打ちであれば、クロの服の下に刃が届くことはない。
『影潜み』によって攻撃を防げるはずだ。
だが、嫌な予感を感じたクロは、その攻撃を避けた。
あれには魔法を分解する光の魔力が宿っている。
当たるのは良くない気がする。
グレンは早くなった動きでこちらに峰打ちの連撃を繰り出し続ける。
このままではまずいと判断したクロは、攻撃を掻い潜りながら反撃をした。
しかし、その攻撃に手ごたえはない。
まるで肉ではなく岩に攻撃を加えているようだ。
(一体何が──)
強い衝撃によって吹っ飛ばされたことで、クロの思考は中断された。
腹に感じる鈍痛によって、思わずクロは地面に横になったままえずく。
剣ばかりに意識を集中していたせいで、迫る拳に気が付かなかった。
だが、拳の攻撃は服越しには通らないはず……。
「すまない、強くし過ぎたか」
倒れこんだクロを心配して覗き込むグレン。
不安と安心が入り混じったその瞳は、普通ではない。
このままでは、グレンは完全に狂ってしまう。
自分が止めなければ。
(ここで倒れるわけに……は……)
立ち上がろうとするクロだが、頑張りも空しく視界が霞んでいく。
抱きかかえられたクロは、グレンの腕の中で意識を失うのだった。




