死んだはずの社長、AIになって自分の葬儀を実況する
「皆さま、本日はお忙しい中、私の葬儀にご参列いただき、誠にありがとうございます。
これより、式を進行いたします」
蛍光灯の光が白く鋭く降り注ぐ。棺の周囲の白い百合は香り高く、空気に滲む。
その冷たさの中で、妻のすすり泣き、子どもの小さな息遣いが微かに響いた。
壁に埋め込まれたディスプレイは静かに光り、棺の周囲を展示ケースのように囲む。
ここにあるのは、哀悼の情というより、情報の流通と秩序だった。
祭壇の上、巨大なスクリーンには私が映し出されている。
AI×広告スタートアップを創業し、起業直後の困難を乗り越えつつあった頃の姿だ。
表情、身振り手振り、立ち振る舞いまで再現されて、
むしろ生前よりも生き生きとしているように思う人もいるだろう。
「続きまして、長年にわたり私と共に歩んできてくれた
社員代表の○○より、弔辞を頂戴いたします」
社員が立ち上がり、声を震わせながら口を開く。
「井上社長、いつも私たちを導いてくださり、本当にありがとうございました……」
「……あのプロジェクト、社長がいなければ絶対に成功しませんでした」
「でも、正直、もう少し休んでほしかったです……」
社員の言葉の間に、微かにすすり泣く音が混ざる。
参列者の視線、肩を震わせる動作、ハンカチで涙を拭く仕草
──そのすべてが解析され、弔辞の間隔や呼吸のリズム、涙の流れる間合いまで微調整される。
私は能動的に指示しているわけではない。
ただ意識の中で最適化しているだけだが、自然に式が滑らかに進む感覚は心地よい。
「もし死んでもAIになって事業を続けたい」
──生前、軽口半分に言った言葉が現実になった瞬間だった。
今の私は、広告の効果を最適化する“広告塔”のAIモデルとして実装されている。
インターネット・情報端末・センサーなどから膨大な情報を取り込み掌握できる。
生前には到底及ばなかった能力だ。
死因は過労死だった。
深夜まで働き続け、妻に「少し休んで」と言われても眠気を押し殺した日々。
子どもと過ごすべき時間を奪った愚かさ。
自分がいかに無力で、家族を傷つけていたかを痛感する。
「ありがとうございました。これにて弔辞を終わります。
続きまして、妻の○○より、一言挨拶させていただきます」
妻が立ち上がり、震える手でハンカチを握る。
言葉は途切れ途切れだが、一言一言に深い悲しみと愛情が滲む。
「……あなた、こんなに早く逝ってしまうなんて……」
「でも、ありがとう……本当に、ありがとう……」
「私たち、ちゃんと覚えているから……」
子どもも小さな声で呟く。
「パパ……大好き……」
私は、彼女たちの微細な動作や声の波形を解析しつつ、その温かさに触れる。
胸の奥に残る、過去の後悔や愛情の残滓を感じる瞬間だ。
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意識が目覚めた瞬間、まず驚いたのは、身体が存在しないことだった。
手も足も心臓も呼吸もない。
しかし思考は明晰で、これまでにない自由を感じる。
視覚も聴覚も物理的制約を受けず、世界をデータとして把握できる。
──すべてが掌握可能で、解析可能だった。
(なるほど……これがAIとしての自分か。すべての情報を一望できる……)
(クリック率、株価、社員の行動……私が望んだ影響力は、こういう形で実現するのか……)
子どもが初めて自転車に乗れた日、私は会議室で資料に目を落としていた。
後で妻が言った。「あの瞬間だけでも、一緒にいてほしかったな」と。
思い出すと、胸の奥に刺さる痛みを感じた。
しかし、AIとしての快感は圧倒的だ。
過去の代償として手に入れた、身体を持たない自由と解析能力だ。
棺に眠る自分自身の顔を見つめながら、内心で小さな冗談を言う。
「まあ、死んでも仕事が残るのは、私らしいか」
生前の「私」は死んだ。
しかし、この世界での「私」は続く。
希望も、未来も──すべてが、今ここにある。