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凍りついた空気の中、医師と思われる男性が静かに説明してくれる。
「貴女の名はオフェリア・リディウス。リディウス侯爵家のご令嬢です。」
オフェリア・リディウス。
それが、私の名前。
「貴女は1ヶ月前に王宮の階段から落ちて頭を打ったようで、左側頭部に裂傷が出来ておりました。宮廷医である私が、王宮内のこの客室で処置をさせていただきましたので、傷はもう塞がっております。」
医師の言葉を聞き、頷く。
「頭を強く打つと稀に記憶を喪失してしまうことがあります。オフェリア様はご自身に関しての記憶を忘れてしまっている状態と見受けられます。」
「記憶は戻るのか?」
私を支えてくれている男性が医師に訊ねる。
「………わかりません。戻ったという症例もありますが、何故戻ったのかわからないような例ばかりですので………神のみぞ知る所です。」
医師の言葉に、私の隣に座る彼は落胆の表情を浮かべる。いたたまれなくなり私は頭を下げる。
「申し訳ありません。」
名前もわからないので謝ることしか出来ない。『オフェリア』が彼にとってどういった存在だったのかはわからないが、落胆と共に肩に置かれた彼の手に力が籠ったことは感じ取れた。大切な相手だったのかもしれない。
申し訳なく思っていると、私の母であるという女性が私の手を握りしめてきた。
「オフェリア、帰りましょう?屋敷に帰れば記憶が戻るかもしれないわ。」
優しい声音で話す彼女に触れられた私の身体はまた強ばり、息が詰まるような感覚がした。
………怖い………怖い、怖い………
頭の中で誰かが怯え、泣いているようだ。優しく語りかけられているというのに、鼓動が警鐘のように頭に響く。
微かに震えていることに気付いたのだろうか。隣に座る彼が私の手を握る女性に言った。
「リディウス侯爵夫人。オフェリアは目覚めたばかりだ。一月も眠っていたのだから、まだ体を動かすことも辛いはずだ。侯爵邸に戻るのはもう少し体が回復してからの方が良いだろう。」
「しかし、殿下…」
母である人がそう彼を呼んだ。
「でんか…?」
私の呟きに殿下と呼ばれた彼が答えてくれる。
「あぁ、そうか。名乗っていなかったな。私はエリオス・ヴァルテッラ。この国の第一王子だ。君の婚約者でもある。」
「だいいち…おうじ…でんか………
あっ、大変失礼いたしました!」
ずっともたれかかったままだったことに気付き、離れようとする私を、エリオス殿下は引き留める。
「君の婚約者でもあると言っただろう?嫌でなければ、このままでいてくれないか?」
そんな風に言われてしまえば断れるはずもなく………
私が再びもたれかかるような体勢になったのを確認したエリオス殿下は、私の父母、リディウス侯爵夫妻に向けて言う。
「侯爵、夫人。もう少しここで回復するまでオフェリアは帰せない。それに、今すぐにというのは医師の診察も不十分だと思う。」
その言葉に宮廷医も賛同する。
「そうですね。他にも体調の変化がないか気になりますし、人間関係の記憶はなくとも会話が出来ているということは学習記憶はあるということですから、どういった記憶がどの程度残っているのかも調べないとオフェリア様の今後の治療方針も定まりません。」
その言葉にリディウス侯爵が答えた。
「承知致しました。それでは、もうしばらくの間、娘をよろしくおねがい致します。」
殿下に頭を下げる侯爵。そんな夫を見て一瞬何か言いたげな表情をしつつも、夫人も夫に倣い頭を下げた。
その後、リディウス侯爵夫妻は帰っていった。
両親の背中を見送り、客室のドアがしまった瞬間、緊張が溜め息と共に体から抜けた。
何故、母に触られてあんなにも恐怖を感じたのかわからない…失った記憶に何かあるのだろうか…?
考え込む私にエリオス殿下が言った。
「オフェリア。疲れただろう?もう少ししたら食事の用意も出来る。それまで横になっていると良い。」
そうして、私をベッドに寝かせてくれた。
ベッドの横に用意された椅子に腰掛け、私の手を握ってくれる。何故だか泣きたくなった。




