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タイムマシン

 先日六十歳の誕生日を迎えた。まだ小学校に上がったばかりの孫が本をプレゼントしてくれた。きっと小遣いで買ったのだろう。表紙には「老人と海」と書かれている。アメリカ文学の傑作。同郷の偉大なる作家ヘミングウェイ。大昔の小説。ハイスクールで読んだきりだが、まさかそれをプレゼントされるとは思わなかった。内心、困惑した。

「これ、いいものだから使ってみて。VRプレーヤーっていうのよ」娘夫妻は私にVRゴーグルをプレゼントしてくれた。そうか、VRゴーグルも丁度良い。ゲームとはいえ、また、空を飛びたい。

「義父さん、使い方は分かりますか?」と言って、息子は私を気にかけてくれたが、私の世代から言わせればよく慣れ親しんだものだから何の問題もないものだ。

「ああ、これはVRゴーグルだろう」

「これはもっと凄いですよ。色んなことができるんです」

「ソニー?日本製は眉唾物だな」生まれつき目は良いほうだから、私は箱の裏に書かれたMade in Japanという文字を見逃さなかった。もちろんロゴも。

「ははは、昔のことはわかりませんが、最近の日本製は素晴らしいんですよ」

「パパ、心配することはないのよ。パパの補聴器も日本製だから」娘が冗談交じりに付け加えた。

「そうかそうか……まあ、壊れないなら大したものだ」私がジョークを飛ばすと、孫にはその意味が伝わらなかったようだが、娘たちは笑ってくれた。愛想笑いだとしても、私にとっては満足だった。

 バックトゥザフューチャーⅢ。あの作中でも、日本製は良いものだと言っていたことを思い出す。妻と若い頃に観たあの映画。二人だけのホームシアター。いつの間にか、私は老博士の方に回ってしまったらしい。


 「さて、素晴らしいプレゼントをどうもありがとう。早速使ってみようじゃないか」

逸る気持ちを抑えるなんて、そんなもったいないことはしない。娘たちは、もはやこの両の手さえろくに動かせなくなった私の代わりにゴーグルの用意をしてくれた。息子はゴーグルとテレビを無線接続して、テレビに向かってあちらこちらと指を振っている。画面を見るに、どうやら初期設定をしてくれているようだ。孫は飽きて裏庭へ出て行った。虫を捕まえようと必死なようだ。今時の子供たちは「老人と海」を小学校で扱うのだろうか。いいや、きっと「The Old Man」に見合うのは、私の祖父母がそうであったように、それくらい昔の娯楽だと信じているのだ。私も祖父母のことを太古から生き永らえている長老、あるいは猿人の毛が抜けきった存在だと勘違いしていたことがある。うら若き孫よ。お前の世界は、時間は、これからどれほど広がり、進みゆくのか。願わくば、老いさらばえたこの私に、どうか見せてはくれないか。

初期設定を終えると、娘はテレビに向かって「戦闘機に乗っていたパパへ。最高のフライトをもう一度」と言った。ロード画面は一瞬だった。テレビには、そのゴーグルの先に広がる空軍基地の景色が映っていた。笑い合い、時に殴り合ったかつての戦友たちもそこにいる気がした。

「パパ、前に空飛びたいって言ってたでしょ?だからまずはそれを叶えるのはどう?」

「それはいい……」

 かくして私はゴーグルを唯一の装備とし、この車椅子を最先端の操縦席として、パイロットとなった。

「おお、これは凄い!風さえも感じる!見ろ、足が動いている!」確かに良いものらしい。ただ見るだけのゴーグルじゃないということはサプライズだったのか。いや、きっとこの補聴器が聞き逃したのだろう。

「きっと気に入ると思いました。どうです?突然の刺激で体調を悪くしたりとかは…」息子の声は今までと聞き違えるほどはっきりと聞こえてくる。鼓膜が震えているというより、頭の中で響いているような感覚だった。私がいるのはコックピットの中で、それも一人でいるのに、隣から娘たちの声が聞こえるのがとても不思議だった。

「まったく問題ない、絶好調だ。それより早く飛ぼう!」ステップを上って、コックピットに搭乗する。

 ベルトを締める。頭では忘れていたスイッチの手順も、嫌というほどこの両手が覚えている。管制塔との通信は良好だ。ヘルメットに表示される各方向の死角モニターには三六〇度の視界がしっかりと確保されている。動翼、ヨー、ロール、ピッチ……動作確認。レーダー、良好。キャノピー密閉よし。この二十ミリ足らずのポリカーボネート製キャノピーにより、これから空に立ち入ることを許される。あるいは、高く飛びたいと願うほど無慈悲に遠のいていく極限の空間において私を守るものがこのキャノピーだ。外から聞こえる甲高いエンジン音は小さく、しかし力強く唸っている。はっきりと聞こえる。こりゃ想定外だ。私の知らぬ間に時代は進んだのだ。きっと、これからももっと良くなるに違いない。テレビには、私が見ているものが映し出されているのだろうか。愛しき家族たちよ、私は今、未来にいるぞ!


 ブレーキを解除し、スロットルレバーをゆっくりと押し倒していく。機体が揺れ、タイヤが徐々に転がり始めたのを感じる。操縦桿を傾け、左へ旋回。向かうは目の前を横一文字に地平線の向かって伸びている滑走路だ。そうだ、この感覚だ。離陸まで焦ってはいけない。訓練の通り、いつもやってきた通りに、手順をなぞって。滑走路と機体を同じ方向に向け、一旦停止。計器は正常に動いている。そして、最終確認を済ませ、管制塔と通信する。私は深呼吸をした、いつもそうしていたように。思い通りに動かぬ手足のことなど、この時にはもう忘れていた。今、目の前にあるのは、愛機とそれを動かす私、そして、はるか上の目指すべき場所だけだった。離陸許可が下りたようだ。いざ、空へ。

 地平線の向こう。機首を上に向ける。全身にGが重くのしかかる。だが、その加速感の割にGが少ないと気づき、そうかこれは仮想現実なのか、と現実の車椅子に乗っていることを思い出してしまう。ええい、構うものか、ここは仮想現実。地上のことなんて知ったことか。フルスロットル。音速の壁を優に超え、衝撃波を置き去りにして、さらにその先へ。下層の雲を矢の如く射抜き、そのさらに上のシルクのように輝く雲からするすると飛行機雲を引いて昇っていく。白い太陽に照らされる雲はオレンジやイエロー、パープルなどに自在に色を変える。ああ、上に見えるあれは、空か。白い、白い、空。この美しき景色の中には、白い太陽と、見渡す限りの積層雲群と私の乗るグレーの機体だけが存在している。ダークブルーの宇宙さえすぐそこにある。空のエデン。それはゴーグルの中にある。この感覚だ。この感覚こそ、私の生涯だ。まだ、飛べる。もっと速く、もっと華麗に。私はさらにスロットルを押し倒した。機体はぐんぐんと加速していく。デジタルの速度計の針は頂点を指したあと、徐々に右へ傾いていく。


「あら、お爺ちゃんの邪魔をしないのよ。お爺ちゃんは今、飛行機に乗ってるんだから」娘の声が聞こえた。孫は、今度は何をしようとしてるのだろう。何をしたっていいさ。今の私を止めることなどできないのだ。

 程なくして、一頭のライオンが空を飛んでいるのが見えた。おかしいことを言っているのはわかる。だが、すぐ横をライオンが空を蹴って走っている。ああ、これはきっと浜辺にいたライオン、サンチャゴの夢。

「ライオンよ、今度はお前も孤独なのか」私は口に出してそう言ったようだ。

「本当だ、ライオンが空を飛んでいるね」息子が優しく言った。孫に向かって言ったのだろう。ピー、ピー、ピー、という警告音がヘルメット内でかすかに反響しているのがわかる。高度計に目をやると、いつの間にか高度限界に達していた。この機体ははるか空の上で、失速もしないで宇宙を向いている。景色が変わらないから、私はそれに気付かなかった。よく考えれば、さっきまで同じ目線の高さにあった雲たちは下の方にある。その輝きを失って、ただ白くなってそこにのっぺりと、まるでホールケーキに乗っているホイップクリームみたいに見える。地球は随分と青く、そして美しい。陳腐な語彙ばかりが脳をよぎっていく。地球は平面だと宣う馬鹿な連中に同じものを見せてやりたい。地球は平面だった。あるいは、コンタクトレンズのような形をしている。私の目にはそう見える。はっきり言って地球が丸いかどうかなんて些末な問題はこの際どうでもいいのだ。今はこの青い地球とともに盃を飲み交わそう。青は食欲を失せさせる色だが、これならきっと食べられる、それほどに美しい。

GPSを見るに、ここはメキシコ湾上空だ。随分長く飛んだらしい。そうか、そうなのか。私は老人なのか。オレンジの太陽は目線と同じ高さで眩い光を放っている。沈みゆく太陽。燃料計は変わらず「Full」を指し示している。しかし、それは仮想現実がシミュレートする世界だからか。高度を落として雲の下をゆっくりと飛ぼう。それにその方ができるだけ長く楽しめるだろう。雲の中へ入り、霧のかかった視界の代わりに高度計とGPSを頼りに滑空していく。雲を抜けるとまた太陽が現れた。穏やかな海の上を滑空していく。陸地だ。滑走路が見える。

 さあ、着陸しよう。私にはまだ、読まなければならない本があるのだから。

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