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百足

 人の創造の終焉は人の英知の成熟と共に訪れた。新しい映画、新しい芸術、新しい音楽。そういう創造の芽吹きは各方面にあったにせよ、人々はそのようにして放られた新芽を、我も我もと群がって縦横無尽に平らげてしまうのだった。そして今度は数行の独自解釈を重ねた仮想現実と共に反芻するのだ。この時代、創造主とは隣人のことを言う。

 既に反芻さえされ尽くした古本屋に一人の男が入って行く。男は小説を好物とする奇人の類だった。夜の限られた時間の中、中古の、それもコピー品のVRプレーヤーで仮想現実を再生しながら眠りにつく。朝起きると紙面でもそれを読んだ。男はひたすら読んだ。出勤の電車の中で、レストランの中で、蛍光灯が照らす駅の待合室で。外でのVRプレーヤーの使用はその没入感の危険性から禁止されている。日中、周囲の人間がスマホと向き合う中、男は活字を一行ずつ辿りながら、夜のひとときに再生したその世界を思い出していた。

 また、男はぶくぶくと太った金魚を一匹飼っていた。金魚鉢の中の金魚は何も考えていないような顔をして泳いでいる。毎日毎晩、男はその金魚に餌をやった。餌が水を落ちていくのを見るやいなや、金魚はひょいと体をくねらせ餌を丸呑みする。男はそれを面白がって見ていた。男は金魚の飼い方に明るいという訳ではないが、自分の金魚がどのくらい餌を食うのかということだけは知っていた。ある日の夜、男はふと思い立った。いつもより餌を多めにくれてやろう、と。翌日の朝、男はいつもやる餌の三倍の量を水槽に入れてみた。すると、金魚はものの五分でその餌のすべてを鯨飲するがごとく丸呑みにしてしまった。男はそれを面白がって見ていた。


 ある土曜の朝、祈りの後のことだった。部屋中の本棚が満杯になったのを見て、男は初めて反芻することを決心した。今までやらなかった、独自解釈の領域に足を踏み出した。男はゴーグルを装着し、キーボードに文字を入力する準備を進める。

光あれ!いざ世界を創造せん!……しかし、男は一文たりとも書くことができなかった。男は悲しんだ。男は何故かを自らに問うた。人より多くの活字に触れ、人より良いものを書ける自信が男にはあった。

何故書けない!俺は本の虫なのだ!俺には書く権利があるのだ!しかし、やはり手は動かなかった。

 男は不貞腐れ、ベッドへと倒れこんだ。天井を見つめながら、ある小説のことを思い出していた。フランツ・カフカの「変身」。いざ再生し始めると、虫になっている感覚と共に目が覚めて、寝返りさえ打てず、気味が悪くて再生を止めたあの小説。棚に連なっている数多の本の中で、唯一再生したことも、読んだこともない小説だった。男は「変身」の顛末を知らなかったが、今の自分はその時の感覚に似ていると感じた。結局、あの小説に出てくる虫は何だったのだろう。背中が硬い鎧のようだったから、甲虫だろうか。気になった男は、起き上がってその未読本を手に取り読み始めていた。長くはかからなかった。そして、男はまたベッドへ寝転び、天井をみていた。

 長い間仰向けで寝たまま、数十分が経過した。突然何かが浮かんだのか、男は「あ」と声を上げた。俺は百足だ、と男は思った。男は長い間本を読み続けた。誰よりも読み続けた。しかし、鯨飲し貪っているのは、他の誰とも違わなかったのだ。甲虫のように飛ぶこともできぬ、地を這いつくばっていた百足なのだと男は気付いた。

 ああ、イカロスよ。私の翼は、ついに飛ぶことさえ許されず溶けてしまった。


 いつもと変わらない朝の電車。周りの人はスマホばかり見ている。かくいう私も、流行りのK-POPを聞きながら、今夜はどういう独占ライブを楽しもうかと考えているに過ぎない。あれ、いつものあの人、今日は本を読むのはお休みの日なのかしら。それがどうって訳でもないけれど、彼は彼の降車駅で降りて行った。いつもと変わらない朝の電車から少しだけ色が消えたような気がした。


 男の部屋には空っぽの本棚と純正のVRプレーヤー。そしてやはり金魚だけが変わらず泳いでいる。


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