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文明開化の音がした

 後にも先にも小説を読むのはそれで最後だったが、初めて読んだ小説は教科書に出てきた「走れメロス」だった。メロスという男が親友を助けるために走る物語だ。なぜ走らなければならなくなったのかという理由は知らない。教科書に載るのだから良い作品なのだろうが、とにかく、読んだって教訓なんてものは何一つなかったことだけは覚えている。その時、私は太宰を、あるいは小説というものを読むこと自体が無駄だと確信した。今日、ふと立ち寄った中古屋の端の方、古本コーナーの一角に太宰のそれが一冊、他の雑多とともに並んでいた。

 そしてそれは今、部屋の机の上にある。なぜ買ったのだろう。カバーの角の所が擦れて、表紙も斜めに破れている。日に焼け、カビのような匂いもする。その本と向かい合っていると、パピルスを解読する歴史学者のような気分になった。裏返すと短編集と書かれているが、今は「走れメロス」以外は、別に読まなくてもいい。昔読んだ一編をまた読んでみようと思って買ったに過ぎない、というのが、私にとってこの本が現在自室にあることへの最も納得のいく理由だった。そして、これはきっと買う前から分かっていたのだろうが、税込みたった数十円の古典と後悔とを手にする必要など全くなかった。読むだけなのだから、ネット上で検索して読めば事足りるというのに。そして、AIの要約さえあれば自ら読む必要さえない。というより、その必要すらもない。今やあらゆる映像を学習したAIが仮想現実上で小説、漫画などの物語の世界をシミュレートし、我々はその物語を追体験することができる。VRプレーヤーと言う。私の手元にもそれがある。ゆくゆくは個人個人が数行の文章を書くことで、自動で物語の世界を作り出すこともできるようアップデートするという。ソニーも捨てたものじゃない。人は全ての物語の源泉を掘り出し尽くし、AIが一人ひとりに合わせて毎日数十、数百億のコンテンツを生産する時代が来る。

 目の前にある本は引き出しに入れておくことにした。活字は長らく読んでいなかった。私はパソコンを起動して、走れメロスの概要について調べることにした。ああ、親友の名はセリヌンティウスというのか。暴君ディオニスに捕らえられた親友を助けるために走ったのか。なるほど、やはりたったそれだけの話ではないか。しかし、ふと引き出しの中にある数十円を惜しく思った。今日はこの物語を再生しようと思った。ゴーグルを付け、データ生成を待つ。ニュースや他愛のない動画を二、三分見ていれば、すぐ準備が整う。ボタンを押し、いざ再生を始めた。


 私は村らしき場所にいることを確認した。穏やかな草原と羊とを前にしている。雲一つない晴天を全身に浴び、この両足で踏みしめる大地は青々と輝いている。私はメロスらしい。程なくして何やら街へ行かなければならない気がしてくる。距離にして十里、四十キロメートル弱の道。これから妹の結婚式のために街へ買い物へ向かわなければ。そうか、これは石工セリヌンティウスの下へ、王ディオニスの下へと向かうのか。

 暗転。すると、長い時間かごを背負って歩いたような気がする。王城を前にして、その王に対する怒りがこみ上げてくる。街の老婆の話を聞いたのだ。人を信じられないがために人を処刑する王の話を。私は激怒した。とはいえ、この激昂や足に溜まった疲労感はゴーグルから送られる特殊な信号による思い込みに過ぎない。私はこれ以上ネガティブなものを感じないように、傍観者として物語を再生するよう設定を変えた。物語を進めていくと、メロスは感情の昂るまま、普段その腰に身に着けた短剣のことさえ忘れて王城に侵入した。メロスは衛兵に捕えられ、王の下へ連行される。このようにしてメロスと王は対峙した。人の信ずる心と人を信じられぬ王の対峙。劇的だ。そして二人の男の会話が始まった。メロスは自らの処刑の前に、妹の結婚式には参列したいと宣言する。だから三日待ってくれと。王の心は決まっている。小さな村の牧人のことなど、到底王は信じない。登場人物としてこれほど単純で、残酷で平等な王がいるだろうか。だからメロスは親友を身代わりとした。三日後、自分が戻らなければその竹馬の友を処刑されよと。どうやら親友はメロスの失態によって替わりに捕らえられたことが判明した。何と身勝手な人間だろう。二人は抱擁を一つ交わす。見上げれば満天の星空。セリヌンティウスは牢へ入れられた。

 翌早朝、メロスは村へたどり着く。一日の長旅を終えたメロスは死んだように眠っていた。夜に起き上がると、今度は花婿の家へ行き一晩かけて妹の結婚式を前倒しにするよう頼み込み、二日目にそれを執り行った。この男は何と身勝手な人間なのだろう。結婚式を終えて三日目の早朝。今日の日没、セリヌンティウスは絞首台に召される。メロスは走り出す。豪雨翌日の激流を突破し、山賊の襲撃を躱し、峠を駆け下り、しかし疲れ果て一度挫折し、それでも屈さず十里を走り抜け、日の落ちる寸前、絞首台の親友の下へたどり着いた。ああ、間に合った。そして王と和解し、民衆の面前、友と友はひしと抱擁を交わした。信ずる心の勝利。信ずる心の何と美しきこと。ゴーグルを外し時計に目をやる。ほんの五分足らずの再生時間。ハッピーエンド、いい話だった。数十円で買ったとは思えない、美しき友情が織り成した世界。


 小説の全盛、明治大正、昭和初期。人々は娯楽として小説を読み、紡がれる言葉を自らの脳内に構築した。しかし今や、その作業はAIが代わりにやってくれる。人々はそれを見るだけ、感じるだけでいい。なんと楽で、良き時代。小説を再生するのは私にとって初めてのことだった。普段はサブスクライブの映画や漫画、音楽などのデータから仮想世界を生成し再生している。値段の割にいい経験になったではないか。小説も、悪くない。

 良い時代になったものだ。VRプレイヤーを装着し座って待っていれば、コース料理のように絶品が運ばれてくる。……ああ、いつも行列ができるあのラーメン屋。それに似ている。ラーメン鉢には山のように積まれたもやしがカウンターに並ぶ。動かざること何とやら。一杯のもやしの量はいくら分なのだろう。一列に並ぶ鉢は傍から見れば堤防のように見える。客たちは一心不乱に掘り起こし、食べ、せっせと啜っていた。

 フー、フー、フー……ズルズルズル。フー、フー、フー……ズルズルズル。

決壊、前夜。


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