5.ホラアナグマの一族
「コヨーテの客人としゃべるヒグマたちの関係は、日に日に悪化していきました」
ブルーは語り続けました。
「その間に立つスピリットベアは、両方の代表を招き、取り決めを行いました。町を築く場所と、森のままで残す場所をきちんと決めておいたのです。どちらも納得しましたが、それでもすぐに不安が消えるわけではありませんでした。どちらかが約束を破ったら? 工事をする人をいきなり襲ったら? 切り開いてはいけない場所を切り開いたりしたら? 時間と共にひとびとの疑心暗鬼が深まることをスピリットベアが察した時、彼の夢に現れたのが竜の女神でした。スピリットベアは竜の女神のお告げを受けると、さっそく町の人々に最後の演説を行いました。そして、個々が生まれ持つ良心を尊ぶよう告げると、森へと姿を消したのです。しゃべるヒグマやホラアナグマの一族に見守られながら、スピリットベアは夕やみの森で眠りに就きました。そして、彼らに告げたのです。いつかまたこの地が危機を迎えるとき、再び自分は目覚めるだろう。それまでどうか、この場所を守って欲しい、と。そして、彼は長い眠りに就き、ベリーの大結晶へと変わっていきました。そのため、この場所は、〈スピリットベアの棺〉と呼ばれるのです」
ブルーは語り終えると、そっとラズの表情を窺いました。
ラズはしばらく黙ったまま、ブルーの話してくれた聞きなれない神話の余韻に浸っていました。
そして、ふとスピリットベアの輝きを見上げてから、口を開きました。
「……確かに、その話だと棺の方が合っているのかもしれないね」
「ラズはこのお話、知っていた?」
「いいえ。でも、学校で習ったここの歴史と同じ部分がいくつもある」
ラズが習ったのは、いかにして〈夕焼け村〉と〈図書の町〉が出来たのかという話でした。
その過程でどうしても避けて通れないのがしゃべるヒグマたちのことでした。ホラアナグマの一族について知ったのもその時で、ラズと同じくコヨーテの客人である先生による説明の、その歯切れの悪さに疑問を覚えたものでした。
その理由を知ったのは、それから少し後のことでした。そうです。しゃべるヒグマたちがコヨーテの客人たちを恐れるのには明確な理由があるのです。今でもホラアナグマの一族は、人前に姿を現しません。かつてはワタリガラスの一族のように、この地域を取り仕切っていたと言われているのですが、どのくらい暮らしているのかさえも分からないのです。
知っているのはしゃべるヒグマと、この〈夕やみの森〉に暮らす生き物たちだけ。そう言われていました。
「……ブルーはホラアナグマの一族を見たことはあるの?」
ふと気になってラズは訊ねました。沈黙が少し怖くなったのかもしれません。幸い、ブルーは会話を待ち望んでいたといわんばかりに、すぐに答えました。
「一度だけね」
そして、ふと周囲を見渡してから、そっと小声で付け加えました。
「ボクが初めてこの森に来た時にね、ちょうどこの場所でたたずんでいる人がいたんだ。二本足のヒト族だったから、猟師なんじゃないかってちょっぴり怖かったんだけど、よくよく見れば、ただのヒト族にしては全身が金色の毛で覆われていて、見た目もちょっとだけ故郷でよく話したダイアオオカミの一族に似ていてね。それでぴんと来たの。ああ、この人は話に聞くホラアナグマの一族なんだって」
ブルーの言うダイアオオカミの一族とは、〈氷橋〉の麓にある〈雪花の町〉に暮らしているヒト族の一派です。ヒト族といってもラズや私たちのようなあらゆる国、種族の人間とはやはりちょっと違っていて、コヨーテの一族やワタリガラスの一族とは混血しません。それに見た目も、強いて言えば私たちの世界におけるゴリラによく似ていました。全身を白い毛で覆われていることから、ゴリラというよりも雪人とたとえた方が想像しやすいかもしれません。
ラズもまたダイアオオカミの一族とは話をした事が何度かあります。何しろ、彼らはヒト族の一派として〈雪花の町〉で普通に現代的な生活をしているため、町を訪れれば何かと話す機会も生まれるのです。
そんなダイアオオカミの一族とは対照的な暮らしをしているのがホラアナグマの一族ですが、ブルーの言う通り、どこか似た雰囲気があります。
というのも、ホラアナグマの一族もまたヒト族の一派ではあるのですが、ラズや私たちのような人間とは少し違うためです。
皆さんは、ボノボという生き物をご存じでしょうか。チンパンジーによく似た霊長類なのですが、ホラアナグマの一族はこのボノボに少し似ています。ボノボの全身の毛を金髪にしたような姿と説明すれば、想像しやすいかもしれません。
「どんな人だった?」
ラズが訊ねると、ブルーは無邪気に答えました。
「とても優しいお婆さんだったよ。お洒落な装飾がいっぱいついた杖を持っていてね、服も……ラズが着ている服よりもだいぶ軽装だったけれど、すごく手の込んだ装飾がついていた」
「……そうなんだ」
懐かしそうに語るブルーの話に、ラズはそっと耳を傾けました。
そういった話を躊躇いもなくしてくれるのは、それだけブルーが人懐こいからなのだとラズも理解していました。
それだけに、静かに誓ったのです。ここで聞く話は、胸の中にそっとしまっておかないと。
世の中にはどんな人がいるか分かりません。しゃべるオオカミにさまざまな性格のものがいるように、コヨーテの客人は勿論、ワタリガラスの一族やダイアオオカミの一族にだって、色んな人がいるのです。
伝統的な暮らしや先祖の守ってきた世界、そしてそこで暮らす様々な種族のひとびとを大事にしようと考えている者もいれば、そうではなく、目先の利益や自分だけ得をすることを考える者もやっぱりいるのです。
そういった人たちが、この森のことに興味を抱けば悪いことが起こるかもしれない。しばらく〈ハニーレンガの道〉を歩いてきたからこそ、ラズはそう思ったのです。
「ボクが会ったのはその一回限りだったな。でも、この森の何処かに集落があって、今も暮らしているって聞いているよ。時々、この辺りでお祭りをするみたいだし」
「お祭り?」
ラズが問いかけると、ブルーはすっと立ち上がりました。
とことこと歩いていくのはスピリットベアの輝きが辛うじて届く隅っこでした。ベリーランタンを手について行ってみれば、そこには石で出来た腰かけと、火を起こせる簡素なかまどらしきものがありました。
「これって……」
ラズが首を傾げると、ブルーは何処か得意げに頷きました。
「ここは二本足の人達のための場所。ここでワタリガラスの一族や、ホラアナグマの一族の人達が、火をおこしたり、寝床をつくったりするの」
ブルーはそう言うと、空を見上げました。
「ねえ、ラズ。今日はもう遅いから、ここで泊まっていきなよ。ボク、何にも予定ないから付き添えるし、万が一、しゃべるヒグマやホラアナグマの一族の人がきちゃっても、ボクが何とかするからさ」
その言葉に、ラズもまた空を見上げました。
しかし、鬱蒼と茂る森の木々のため、空の明るさは確認できません。代わりに、ラズはマントの中に忍ばせていた懐中時計を取り出しました。ベリーランタンの明かりで確認してみれば、確かにブルーの言う通り、もうだいぶ遅いことが分かりました。
「……そうしようかな。せっかくだし」
ラズがそう言うと、ブルーは嬉しそうに尻尾を振りました。