4.スピリットベアの玉座
──スピリットベア。
その足元へとたどり着いたラズは、そのまま凍り付いてしまったかのように動かなくなりました。
ブルーがやや心配そうに見守る中、ラズはただただ言葉を忘れ、息を飲みながらスピリットベアの輝きを見つめ続けていたのです。
ラズはこれまでだって大結晶を見たことがあります。
先程のラズとブルーの会話を覚えている方はお分かりかもしれませんが、ラズは北の地のサンダーバードの他にも、南の地のクイーンサーモンという大結晶や、東の地のマザーフロッグという大結晶も見たことがありました。
しかし、このスピリットベアだけは、初めて目にしたのです。
そのためでしょう。光の届かない真っ暗な森の中で自ら七色に輝くこのスピリットベアが、ラズの目にはあまりに神々しく見えたのです。
美しく光る七色。この輝きこそが、地底の奥深くで眠っている竜の女神の夢であるというのが、この国に古くから伝わる信仰です。
その夢見加減で、地上に生えるベリーの種類が変わるという話でした。それが本当なのか、迷信なのか、それはラズには分かりません。けれど、今だけは信じてみてもいいかな、と思ってしまうくらい、スピリットベアにすっかり見惚れてしまいました。
ブルーはというと、そんなラズの足元にしゃがみこみながら、静かにじっと待っていました。
ふと、ラズはここまで連れてきてくれたこの頼もしい案内役の存在を思い出し、感謝の意味も込めて微笑みかけました。
すると、ようやくブルーは立ち上がり、まるで犬のように無邪気に尻尾を振りながら、やっと話しかけたのでした。
「どう? 綺麗だよね?」
「ええ、とっても。参拝者がめっきり減ってしまっても、ここの輝きだけは変わっていないんだね。本に書かれていた通り、立派な姿……」
しみじみとしながらラズはそう言いました。
ラズがスピリットベアの存在を初めて知ったのは、〈夕焼け村〉でお勉強をしていた頃の事です。
月に一度、〈図書の町〉という都会から移動図書館の馬車がやってくるのですが、ラズはいつもそれを楽しみにしていました。
今でこそ、ラズにとって〈図書の町〉は村からすぐに行ける距離ですが、まだまだ大人たちの庇護を受ける年齢だった当時のラズにはあまりに遠く、そこから運ばれてくる物珍しい本が輝いて見えたのです。
その中に、この国の各地にあるベリーのことが書かれた図鑑があり、スピリットベアの歴史についても書かれていたのです。
挿絵と当時の参拝者たちが残した記録、そして現代も管理を続けているワタリガラスの一族の証言が書かれていたそのページを目にしたラズは衝撃を受けました。
こんなに近い場所に、知らない世界があったなんて。その時初めて、自身の父の命を奪った恐ろしいヒグマたちの領域について、興味が向いたのでした。
スピリットベアのことを学校で習ったのは、それからだいぶ後──〈図書の町〉の少し大きな学校に通うようになってからの事でした。
けれど、授業で教わる内容は、ラズがすでに読んでいた書籍の情報と比べて、真新しい内容はほぼありませんでした。それ以降、ラズにとってスピリットベアという存在は、神秘のベールに包まれ続けていたのです。
まさか本当に目にすることが出来るなんて。
ラズは感動しながら七色の輝きを目に焼き付けました。今のうちに好きなだけ拝んでおかないと。またここへ来られる日が来るとは限らないのだから。
そう思っていると、ブルーもまた溜息交じりに共感を示しました。
「立派だよね。サンダーバードとはまた違って。あ、ねえねえ、ラズは知っている? スピリットベアは昔、この地域に暮らしていた偉い人なんだよ」
無邪気に見上げてくるブルーの視線を受け、ラズはその場にそっとしゃがみこんでから答えました。
「うん、知っているよ。その時代、スピリットベアはこの地に暮らすひとびとに尊敬されていた。彼はたくさんの言葉を残して、ひとびとが争わずに生きていけるような教えを説いた。やがて、彼はこの地を長く見守るお役目を竜の女神からおおせつかり、ベリーの大結晶に身を転じた。だから、ここは〈スピリットベアの玉座〉っていわれている」
かつて聞いた通りの神話を諳んじると、ブルーもまたラズの隣でスピリットベアを見上げながら、うんうん、と頷きました。けれど、ふとラズの横顔を見つめたのでした。
「あれ、ボクの知っている神話とちょっと違うね?」
「そうなの?」
「うん。途中まではだいたい一緒だったんだけど結末がちょっと違ったかも?」
「ブルーが知っているのはどんな結末なの?」
「えっとね……スピリットベアは、この地のひとびとが争わないように願って、道徳を広めました。それを生きとし生けるものすべてが守るのはとても大変なことでしたが、彼が現れる前の時代と後の時代では、明らかに平和になりました。ところが、です。そこへやってきたのが──」
と、ブルーは気持ちよく語っていたのですが、ふと目を丸くして口を噤んでしまいました。そしてラズの顔を見ると気まずそうに目を逸らしたのです。
ラズは不思議に思い、訊ねました。
「そこへやってきたのが?」
ブルーの視線が泳ぎました。ですが、知りたがっているラズの眼差しに根負けすると、両耳を倒し、気まずそうに続けたのでした。
「そこへやってきたのが……コヨーテの客人たち……でした」
窺うような彼の眼差しの意味を理解し、ラズは微笑みました。
「続けて」
ラズに優しくそう言われ、ブルーは戸惑いつつも続けました。
「……スピリットベアは、コヨーテの客人たちにも教えを説きました。けれど、困ったことに、彼らにはすでに彼らの信仰がありました。そのため、スピリットベアは彼らの信じる教えを参考にして、伝わりやすい言葉や彼らの教えに登場するエピソードなども絡ませて、交流を図りました。彼の工夫は実を結び、コヨーテの客人たちとも仲良くなることはできたのです。けれど、コヨーテの客人たちとしゃべるヒグマたちが仲良くなることは難しかったのです。何故なら彼らはこの地に便利な町を築こうとしていたからです」
ブルーの話に耳を傾けながら、ラズが思い出していたのは、かつて学んだこの国の歴史でした。
この国の歴史はある視点で見ればとても古いものですが、ある視点で見ればとても新しいものに変わります。
その鍵を握るのが、ラズの祖先でもあるコヨーテの客人と呼ばれる、異国から流れてきたヒト族の開拓民でした。
色とりどりの髪や肌、目を持つ彼らは新しい技術や思想をたくさん持ち込み、ワタリガラスの一族とも良好な関係を結び、今や、ラズたちのようなこの国のヒト族──つまり、私たちの想像する人間たちの中で、その両方の血を継がない者は殆どいません。
だからこそ、ラズも学んでいたのです。劇的な変化があった時代の混乱と、分断のことを。