29.前にここへ来たお客さんの話
待ちに待ったマスターの手料理が運ばれてきました。
ラズ、クラン、そしてウルシーのもとにはナイフとフォークといった食器も用意されてきて、ブルーのところにはあらかじめ食べやすいサイズに切り分けた料理が運ばれてきました。
「温かいうちに召し上がれ」
マスターの穏やかな声に応じるように、ラズたちは、
「いただきます」
と口々に言い合いながら食べ始めました。
ブルーもまたすぐに口を付けようとしましたが、一瞬だけ恥じらってしまいました。というのも、ラズたちが器用にナイフやフォークを使って切り分ける姿が羨ましく思ってしまったからです。
ですが、ブルーの前足では、どうしても食器はつかめません。
仕方なく彼は、ほくほくのサーモンをせめてお行儀よくぱくりと食べ始めました。幸いなことに、ブルーのちょっとした疎外感も、お料理の味が口の中で広がると、あっという間にかき消えました。それだけ、マスターの料理がおいしかったためです。
おいしい料理に皆が笑顔になる中、マスターは満足そうに微笑みました。
「いやあ、よかった。久々の新しいお客さんだったからね。私も緊張しちゃいました」
「前に新しい人が来たのはいつでしたかね」
ウルシーがたずねると、マスターは「あれはたしか……」と、少しだけ考えて、生まれながらのキツネ族と見まがう肉球のついた指を一本立てました。
「ああ、そうそう。一か月ほど前だったね。君もちょうど夕飯を食べていたはずだよ。今日みたいにこのカウンター席に並んで座っていたんだ。ワタリガラスの一族のお役人さんが三人と、首都大学の先生が一人だったね。お役人さんたちがうちの系列店の常連さんで、大学の先生をお連れになったんでした」
「ああ、あの方々以来でしたか」
ウルシーは思い出したように笑うと、はっと気づいたように付け加えました。
「そういえば、あの時、この店には初めていらしたという若いお役人さんは、〈夕焼け村〉の出身でしたね。もしかしたら、お二人と知り合いかもしれませんね」
「〈夕焼け村〉出身のワタリガラスの一族?」
嫌な予感を覚えたのか、クランの手が止まりました。ラズもまた同じく手が止まります。けれど、クランのように嫌な顔は浮かびませんでした。むしろ、食いつくようにウルシーの顔を見つめ、思わず声をあげてしまいました。
「まあ、ウルシーさん。その人ってどんな名前でした?」
さっそく食いつくラズの姿に、クランはやれやれといった様子で頭を抱えました。
そんなクランの様子に気づかず、ウルシーはきょとんとした顔で答えました。
「えっと、たしか……」
「ブラックさんですね」
マスターが助け舟を出すと、ラズは途端に溜息を吐いてしまいました。クランも同じです。けれど、ラズの溜息とはだいぶ様子が違いました。
「やっぱり知り合いですか?」
ウルシーの問いに、ラズはうなずきます。
「〈夕焼け村〉出身のワタリガラスの一族……ブラックという名前の男性であれば、間違いないでしょう。私たちの兄です」
ラズの答えに、クランはふてくされた様に料理を口に運びました。そんな二人を見比べて、ウルシーは目を丸くしました。
「お兄さん? いやでも彼は……」
意外そうなその反応に対し、マスターの方はどこか納得したように頷きました。
「なるほど、お二人のご先祖様にもワタリガラスの一族がいるのですね」
元ヒト族のマスターだからこそ、理解できたのでしょう。それを聞いて、ウルシーもまた遅れて納得したようでした。
「ブラックは兄弟姉妹の中で唯一、ワタリガラスの一族として生まれてきたんです」
「死んだようなもんだけどね」
吐き捨てるように付け加えたクランを、ラズは小声で咎めました。しかし、クランは反省する様子もなく料理にのみ向き合い続けます。そんな二人の姿を前に、ウルシーは長い爪で頭をかき始めました。
「すみません、何か余計なことを言ってしまったようで」
「いえ、むしろ、有難いことです。兄さんがこの店に来ていたなんて。……大学の先生と一緒だったんですか?」
ラズがたずねると、マスターとウルシーは顔を見合わせ、そして同時にうなずきました。
「普段は〈砂塵の町〉の遺跡の調査をしているお方のようでしてね」
マスターが言いました。
「そちらで有名な風土病──ネコ化症候群の研究をされているようでした。ご自身も先天性のネコ化症候群の患者さんだったようで、私としても、色々と貴重なお話を聞けました」
「ネコ化症候群?」
と、そこで興味を示したのが隅っこでお料理に夢中になっていたブルーでした。
生まれ故郷の〈氷橋〉と、〈夕やみの森〉しか知らない彼にとって、南東の果てに位置する〈砂塵の町〉はあまりに遠く、知らない世界だったのです。
マスターはそんな彼に優しく答えました。
「ネコ化症候群っていうのはね、この私もかかってしまったキツネ化症候群に似た病気のことだよ。やはり主にコヨーテの客人がかかる病でね、そこではキツネではなく、イエネコ族とでも言うべき姿になってしまうんだよ」
「イエネコ族、かあ」
ブルーは納得したように言いました。けれど、実際のところ、半分程度しか理解できませんでした。というのも、この世界にはイエネコ族というものがいなかったからです。
イエネコはみな、しゃべるネコというものしかおらず、ブルーのように服を着ず、四本足の仲間として暮らしているものだったからです。
そこで、ラズが補足するようにささやきました。
「ヤマネコ族に近い姿っていえば分かりやすいかもね」
そこで、ようやくブルーは納得しました。ヤマネコ族ならば、少数ですが、サンダーバードの玉座にお参りしていた観光客を見たことがあったからです。
「なるほど、ヒト族なのにそんな感じの姿になっちゃうことがあるんだね」
ブルーの言葉にマスターはうなずきました。
「ストロベリー先生という方でしてね。お若い女性に見えましたが、もう長く研究なさっているようでしたね。恐らく本来は麦色の髪とエメラルドのような目を持っていたのでしょうが、見事にそのような特徴のネコの姿をしていました」
「ネコ化症候群か……オレたちも気を付けないとな」
クランがぽつりと呟くと、マスターも同意するように頷きました。
「キツネ化症候群は、私のような真似をしなければ避けられますが、ネコ化症候群の場合、そうはいきませんからね。お二人とも、私と同じくコヨーテの客人のようですし、〈砂塵の町〉を訪れる際はくれぐれもお気をつけて」
マスターの言葉に、ラズはしっかりとうなずきました。
正直に言えば、キツネ化症候群と違って、どう気を付ければいいか分からない病気ではあります。けれど、ここは素直に受け止めたのでした。




