2.忘れ去られた小道
さて、ラズが踏み込んだ〈夕やみの森〉についてお話ししましょう。
ここは先にお話した通り、しゃべるヒグマのテリトリーです。不用意に立ち入ろうものなら、いつどこで襲われてもおかしくはありません。
けれど、ラズの生きるこの時代より遥か昔には、この国に暮らす多くの人々がここを訪れていた時代もありました。
その頃の名残はラズが今まさに歩んでいるこの時にもあって、その一つが壊れかけた外灯とボロボロの小道でした。
忘れ去られて長く経ちますが、それでも時々、ワタリガラスの一族がここを利用しているため、炎がともることもあるようです。けれど、今は真っ暗でした。少なくとも今だけは、ラズの手に下がるベリーランタンの明かりだけが頼りだったのです。
ランタンの中で輝いているのは、蛍火ベリーと呼ばれる光源です。
半永久的に輝くのが特徴で、その光の強さを、中に仕組まれた鏡を用いて調整するのがこのベリーランタンという照明です。この輝きのお陰で、ラズは小道を迷わず進むことが出来ました。
「……〈スピリットベアの玉座〉はこちら」
古ぼけた看板に、古ぼけた字。
それらをラズに教えてくれたのも、ベリーランタンの明かりでした。看板の示す先は確かに道が続いています。いずれも暗く、光の届かない先は何があるかも分かりません。それでも、ちゃんと誰かが歩くことを考慮して続く小道があると分かったので、ラズも少しだけホッとしました。
ですが、だからと言って安心してばかりはいられません。
いつ、何が起こってもいいように、ベリー鉄砲に手をかけておかねばなりませんでした。何故なら、ヒグマがいつ飛び出してくるのかが分からないのですから。
そう、それは、ラズが看板の横を通り、小道へ入ってしばらく経っての事でした。
奇妙な気配がする。
その存在に、ラズはふと気付きました。
しゃべるヒグマかもしれません。あるいは、この夕やみの森のどこかに集落があるとされる、ホラアナグマの一族という全身を金色の毛で覆われたヒト族の生き残りかもしれません。
いずれにしたって、ラズにとっては鉢合わせていい相手とは思えません。ホラアナグマの一族であれば、怯えさせてしまうでしょうし、しゃべるヒグマだったらこちらが大変です。
けれど、ラズは慌てず騒がず、まずはその気配を探りました。襲ってくるのか、来ないのか。近づいてきているのか、そうでないのか。
探りながら先へ進んでいると、ふと、その気配に動きがありました。
──来る。
ラズは警戒心を高め、マントの下に隠しているベリー鉄砲に手をかけました。
そして、その何かが飛び出してきたと同時に身を翻したのです。思っていたよりも素早いその何かに驚きつつ、ラズは引き金をひきました。
途端に、パンッと空気を貫く音が暗すぎる森の中に響き渡りました。すると──。
「わぁっ!」
と、その何かは少年のような悲鳴をあげました。ラズはすぐにベリーランタンでその姿を照らしました。そして、その意外な正体に目を丸くしました。
「オオカミ……」
そう、そこにいたのはしゃべるヒグマではなく、しゃべるオオカミだったのです。
けれど、ラズはすぐに警戒し直しました。オオカミ族ではなく、しゃべるオオカミです。結局のところ、しゃべるヒグマと同じように人間たちとは全く違う価値観で生きていることには変わりません。
だから、ラズは再びベリー鉄砲を向けたのです。ところが、しゃべるオオカミの反応はさらに意外なものでした。
「わっ、わぁっ! あ、あの、ごめんなさい、ボク……そういうつもりじゃなくて!」
誇り高い、カッコいい、恐ろしい、獰猛な……あらゆるイメージがオオカミという種族にはつきまといますが、この度、ラズの目の前に現れたオオカミは、そのいずれの言葉も当てはまりませんでした。
しまいには目を潤ませて、しゅんとした様子でラズを見つめたのです。
「あの……ごめんなさい……」
弱々しいその言葉に嘘はないように見えました。
けれど、ラズもこれまで旅をして回ったベリー売りです。〈ベリーロード〉の旅路では、さまざまな出会いがありました。
そのために、ラズは知っていたのです。この世の誰もが善良な心を持っているわけではないという事を。
けれど、その一方で、幼子の頃のような純粋な心も失うまいという願いもありました。そこで、ベリー鉄砲を構えたまま、まずは冷静に訊ねたのです。
「教えて。どうして襲い掛かってきたの?」
すると、オオカミはスンスン鼻を鳴らしながらその場に伏せをして答えました。
「あのね、ボク、お姉さんのこと、遭難者だと思ったの。きっと、〈ハニーレンガの道〉が何処にあるのか分からなくなっちゃって、困っているんだって。だから、元の道まで追い返してあげようってそう思ったの。もしかして……ありがた迷惑だった?」
「そうかもね」
ラズは短く頷くと、大きく溜息を吐きました。ベリー鉄砲はまだ下げませんでしたが、このオオカミに敵意がない事を完全に理解したのです。
「遭難者じゃないよ。私はね、スピリットベアにお参りしたかっただけなの」
「そうだったんだ……ごめんなさい」
オオカミは申し訳なさそうにそう言うと、耳を伏せて上目遣いでラズを窺いました。
「あの……ボク、どうしたらいい? どうしたらちゃんと謝れる?」
そこで、ラズはようやくベリー鉄砲を下しました。このオオカミがきっと撃たれるのだと怯えていることに気づいたからです。
「誤解だというなら撃ったりしない。怒っていないから、もう行って」
溜息交じりにそう言ったものの、オオカミは動きませんでした。その場に伏せをしたまま、ラズを窺い続けたのです。
「それじゃ、ボクの気が済まないよ。もしよかったら、道案内とかどう? このあたり、しゃべるヒグマたちのテリトリーで、ちょっと危ないからさ。あのひとたち、どうやら嫌いみたいなんだ……その……えっと……」
「私みたいなコヨーテの客人の事を?」
ラズの問いに、オオカミは気まずそうに頷きました。
コヨーテの客人。それは、単にヒト族の身体的特徴を指しているわけではありません。その昔、魔神コヨーテというこの地の神様の一種が、海の向こうに暮らす別の国のヒト族たちを招き入れました。
彼らは色とりどりの肌に髪や目の色を持っていて、その血は今やラズたちのようなヒト族の多くに広まっています。
だから、ラズのようにワタリガラスの一族の祖先がいても、そちらの血が濃く出ることもあるのです。
コヨーテの客人たちは、この国を豊かにしました。
彼らが異国よりもたらした新しい風により、それまで神聖視され、乱用は控えられていたベリーたちが積極的に研究され、活用され、豊かな暮らしも実現させるための様々な発明を生み出したのです。
けれども、それを快く思っていない者たちからは、睨まれることにも繋がってしまったのです。
しゃべるヒグマたちはコヨーテの客人を特に嫌っていました。
二百年近く前に、この〈夕やみの森〉を便利にするために切り開くかどうかで対立して以来ずっと……です。
ヒグマたちが信じるのは今やワタリガラスの一族と、古き時代を忘れる人々を厭い、この森の奥へと逃れたという先住ヒト族の一派であるホアアナグマの一族だけでした。
そして、コヨーテの客人たちの一派が、事もあろうに同じヒト族であるはずのホラアナグマの一族にも銃口を向けた事件があって以来、しゃべるヒグマたちはより一層、コヨーテの客人を軽蔑するようになったのです。
「それでもボクが一緒なら、少しは誤魔化せるかもしれない。これでも、ボク、しゃべるヒグマさんたちとはそれなりに仲がいいから」
そう言って、オオカミは犬のように尻尾を振りました。
人懐こそうなそんな姿に、ラズは悩みました。会ったばかりのオオカミを信用しすぎるのもいかがなものかと。
けれど、彼の言う事も一理あります。このまま一人で歩くよりも、オオカミが一緒の方が頼もしいかもしれない。それに、何かあったらベリー鉄砲があることだし、と。
「分かった。それじゃあ、お願い」
ラズがそう言うと、オオカミは目を輝かせました。