取り残された人々
その古いアパートは、長い間、私の住む賃貸マンションのすぐ隣に建っていたと記憶している。ふたつの建物の大家は同一人物だったが、その姿を見たことは一度もなかった。住所の地名もよく似ていたから、向こうのアパートに送られるべき荷物が、こちらのマンションの住民のポストに届けられるということもよく起きていた。その古いアパートに住む人々は皆おしなべて老人ばかりで、当時は知らなかったが、後で判明したところによると、その当時は八世帯が生活していたようだ。今考えてみると、彼らはとても奇妙な存在であった。今夜は時間があるので、彼らについての話をしたいと思う。
私が暮らしているマンションの住民は、昼間は職場に出かけている勤め人が多数であったから、近隣の人々と交渉を持とうとはしなかった。休日も引き籠っている住民が多く、わざわざ出かけて行って、隣のアパートの老人たちのことを調べたり、挨拶をしに行く人間は、ひとりもいなかったと思われる。私が見聞きした限りにおいては、その奇妙なアパートを用事があって訪れる人は誰もいなかった。そのアパートは言わばこの住宅地域でも孤立した存在だったのである。この私も自分のマンションに十数年も住んでいるが、隣のアパートにどのような人々がいて、どのように暮らしているのか、その時点まで、まったく知らないでいた。
ある時、私の部屋のポストに役所からの便箋が届けられていた。しかし、それは配達人の誤りであり、本当は隣のアパートの一階に住む、女性に対しての郵便物であった。私の落ち度ではないわけだから、その配達物をそのまま捨て置いても良かったのだが、偶然に湧いてきた正義感と隣の住民に対する好奇心とが重なって、本来の受取人のところへ届けてやることにした。
自分の部屋のドアを開けると、隣のアパートまではわずか十数歩という近さであった。その建物の外見には変わったところはまったくなかった。その女性の部屋のチャイムを鳴らすと、程なくして、外見は七十歳ほどに見える老女が姿を現した。彼女は私がわざわざ郵便物を届けに来てくれたことにいたく感謝していた。事情を話して郵便物を手渡し、すぐに立ち去るのも悪い気がしたので、私たちは天気や職場のことなど、何気ないことでニ三の話を交わした。その中で、私は彼女の年齢について自然な態度で尋ねてみることにした。
「働いていた職場を定年退職になったとき、会社の寮から出なくてはならなくなり、このアパートに移って来たんです。その時はね、この木造のアパートはまだ新築でした」
この返事は真実ではないように思われた。築六十年は経っていそうなこの建物と半生を共にしてきたのなら、彼女の年齢はゆうに百二十を超えてしまうことになる。
「私はね、今年で百三十二歳になるんです」
堂々とした態度で、そう述べる彼女の言葉には真実味があった。
「八十や九十になる頃には、葬儀のことや遺言のことを準備していたのは、いつになっても迎えが来なかったんだよねえ」
しかし、彼女の容貌は、百歳を超えた老人にはとても見えなかった。
「天に召される年齢を過ぎても、身体に衰えが来なかったということですか?」
「そういうことね、なかなか死ねないでいるうちに、息子や娘の方が先に天国に旅立ってしまったのよねえ」
彼女はまたこんなことも言っていた。
「世の人は、私の長寿について不思議がりますが、こちらとしては、一般の人々がなぜ早死にしてしまうのかが分からないわけです」
老女はそう言うと、屈託のない笑みを浮かべた。
「実はね、このアパートには、そうして死にきれなかった人たちが集められて住んでいるのよ。住民の中にはね、百五十を超えている人もいるんですよ」
戸惑う私を尻目に、彼女は少し楽しそうにそう付け加えた。
「あなた方のような特別な存在を、この古いアパートに隔離しておく理由は?」
「具体的なところは分からないけれど、人間が百二十を過ぎても平然と生きていられるという事実を、世間の人々に知られたくないみたいね」
「常軌を逸した年齢の高齢者がいるのがバレると、社会の空気が乱れるということでしょうか?」
「どうやら、そうみたいね。貴方も今日ここで聴いたことは誰にも話さない方がいいわよ」
その台詞を付け加えると、老婆は自室の中へと引き下がっていった。彼女が口にした言葉は、その多くが不思議な印象を残したが、それ以降、私はついに彼女と話す機会を見出せなかった。
この世の中には、齢百二十を超えても、介護や病院の助けを借りることなく、平然と生きていられる人たちが存在していて、政府や行政の方でも、それを認知しているという新しい事実は、私を少なからず驚かせた。しかし、そもそも彼女は狂人であり、私に話した内容のすべてが、でまかせであるということも可能性のひとつとして捨てきれなかった。彼らのような不思議な存在が、国家から疎まれているという事実も、この私の微力な力では確かめようがなかった。そういうわけで、私としては、この奇怪な出会いのことを、他人に伝えることに躊躇することになった。彼女の純朴そうな眼差しは、嘘を述べているようにはとても見えなかったが……。
老女との出会いがあったその数日後、自室のポストの中に、役所からの速達が届けられた。その封筒の表面には重要文書の真っ赤な判が押されていた。中には、ワープロ打ちの無記名の手紙が入っていた。その内容は、件のアパートの住民たちと接触を持ってはならないということと、彼らが私に対して口にしたどのような情報も、完全なる虚偽であり、それを信用して行動したり、他言してはならないと記されていた。私が何気なくあの老婆と話していたことが、すでに行政に知られていたことに、うすら寒さを覚えた。
この私が、それらの出来事の真偽を確かめることは、ついに叶わなかった。今から三年前のひどく寒いある夜、アパートは突如として業火に包まれた。あっという間に燃え広がった炎は、生存者の存在を許さなかった。私が仕事を終えて帰宅したとき、隣にあったはずの木造アパートは、完全なる炭と化していた。私は自分の身の回りで火災を体験するのが初めてだったので、しばし、呆然として立ち尽くしていたのを覚えている。消防の発表では、焼け跡から八つの身元不明の遺体が運び出されたという。
その翌日の新聞各紙には、その火事の情報が社会面の一角に小さな記事として掲載されていた。住民八人が焼死したことと、警察の捜査によって、放火の可能性もあることが記載されていた。死者たちの年齢は不詳で、全員の身元は不明となっていた。彼らの年齢や素性について、もう少し取材すべきではないかと問い合わせてみたが、『調査の必要はなし』という冷たい返事であった。
その後、アパートが建っていたはずの場所は更地となり、現在では、月極の駐車場になっている。あの夜の火事が事故であったのか、何者かの陰謀なのか、それとも、放火事件なのか。あの百二十を超えた老人は本当のことを話していたのか、については、今となっては誰にも分からない。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございます。他にも多くの短編小説がありますので、良かったらご覧ください。よろしくお願いします。