小説家の彼女と情けない僕
「で、どう思う?」
僕が顔を上げると、すぐ目の前に彼女の顔があった。
彼女の顔は化粧っ気が全くなく、背中の中ほどにまで伸ばしてある髪も寝ぐせによってあちこち飛び跳ねている。
おまけに眼鏡の向こう側にある瞳は―――徹夜明けなのだろう―――寝不足で赤く充血しているとなれば、今年二十三歳となる花の乙女としては、少々(?)問題ありであろう。
僕は彼女が綺麗に髪をとかし、目にコンタクトを入れて化粧を完璧にした様子―――僅か二年前まではそれが普通だった―――を思い起こした。
思い出の中の彼女の美人ぶりに満足すると同時に「今の彼女もこれはこれで味がある」などと考えてしまうあたり、僕も色々と末期なのであろう。
僕がそんな事を考えているとは思いもよらないであろう彼女は
「・・・『どう思う』って聞いているんだけど?」
と、さっきよりも幾分か低くなった声で再び問いかけてきた。
僕は慌てて
「相変わらず登場人物の心理描写が秀逸だね。特にこの、主人公とヒロインが喧嘩したシーンは、僕まで心が痛くなったよ。ただ・・・主人公が、ヒロインに会うために新幹線を止めるシーンは、ちょっとやりすぎじゃないかって思うね」
と、彼女の書いた小説に対する感想を述べた。
―――彼女が「小説家になる」と言い出したのは、大学二年生の時だった。
その言葉を聞いた周囲は、そろって彼女に反対した。彼らが言うセリフはいつも決まって
「小説家なんかで食っていけるわけがない」
だった。
僕自身も、初めは彼女の言葉に驚き、彼女に考え直すように言った。しかし彼女の決心が堅くて、反対してもムダである事を知ると、彼女の夢を応援することに決めた。
彼女は周囲の反対の中、名のある文学賞に応募し―――見事に落選した。
周囲は「それ見たことか」と冷ややかな視線を向けたが、彼女は気にした様子もなく黙々と小説を書き続けた。
彼女は現在、実家を飛び出しアパートで小説を書く傍ら、コンビニのバイトで食いつないでいる。
彼女の今の暮らしは決して楽ではない。それでも、彼女が小説を書くときの集中した顔を見ていると、僕は彼女が無性に羨ましくなる。
―――僕の方は去年公務員試験を受けて江戸川区の区役所に合格し、今年の春から社会人一年生として、毎日あくせく働いている。
「遅い!」
「間違ってるぞ!」
「もう一回出直してこい!」
―――ある程度覚悟していたものの、社会人一年生というのはまさしく怒られることが仕事である。
僕が公務員になった最大の理由は安定しているから、といった夢も希望も無いものであるため、夢や希望に向かって一心不乱に進んでいる彼女を見ていると、僕の毎日が余計に味気なく感じてしまうのだ。
「じゃあここは―――って聞いてる?」
彼女の声が思考を中断させ、僕は我に帰った。
「大丈夫?仕事で疲れてるんじゃない?」
その瞳に心配の色を浮かべて、彼女が僕を気遣ってくれている―――その事実さえも、僕が情けない人間である事をより一層強く感じさせる。
「・・・ハァ」
「本当にどうしたのよ?どこか具合でも悪いんじゃない?」
「いや・・・君は強いな、と思ってね」
「はぁ?」
心底驚いているのだろう。整った彼女の顔は、めったに見られない驚きの表情を浮かべていた。
そんな彼女の表情を堪能しつつ、僕は苦笑まじりに説明した。
「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど・・・君が今目指している『小説家』という職業は、世間的に見て安定しているとは言い難いものだよね。しかも、君はまだプロとしてデビューした訳でもなくて、いわば『小説家』になるためのスタートラインに立ったばかりという状態だ」
ここで僕がチラリと彼女の顔を伺ってみると、彼女は小説を書くときと同じくらい集中した顔つきをしており、僕の話をこれ以上ないほど真剣に聞いてくれているのが分かった。
そうと認識した僕は、自分の感じていることを少しでも彼女に理解して欲しくて、慎重に言葉を選びながら説明を続けた。
「・・・だけど君は、夢が叶わないと腐ることも、夢を諦めることも、僕に対して八つ当たりすることすらしなかった。
僕には到底、真似できないよ・・・」
僕の説明を聞き終えた彼女は、何かをじっと考えている様子だったが、やがてポツリと話し始めた。
「―――私はあなたが思っているほど立派な人間ではないわ。
私が余裕があるように見えているのだとすれば、それは私が『小説家にとって一番怖いこと』を経験していないからよ」
「『小説家にとって一番怖いこと』?」
「えぇ、そうよ。あなたは何だと思う?」
そう聞かれた僕は『小説家にとって一番怖いこと』は何か、じっくりと考えてみた。
「・・・『自分の書いた作品を、ボロクソにけなされること』かな?怖くて、二度と小説なんか書きたくない、と思わされるような」
僕がそう答えると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「確かに、それが一番怖いという人もいるかも知れないけれど、私の意見は違うわ」
「・・・降参。一体何なんだい?『小説家にとって一番怖いこと』っていうのは」
彼女は僕の方をじっと見つめつつ、まるで何者かに挑むかのような力強い決意をこめて、その言葉を紡ぎ出した。
「―――それは『誰からも反応をもらえないこと』よ」
「え・・・?」
「『小説家』っていうのは突きつめて考えてみると、読者に対して一方的に自分の言葉を語りかけるだけの存在なの。読者が自分の作品から何かを感じてくれたとしても、目に見えない限り、自分には関係のないことだわ。『小説家』っていうのは、そういう意味では非常に孤独なのよ」
そう語る彼女の横顔は、綺麗だけど、どこか冷たくて・・・まるで氷で造られた彫像みたいに―――世界に誰も味方がいないかの様な―――儚さと脆さを感じさせた。
「―――でも、感想や批評といった何らかの反応を貰えれば、それがどんなに辛辣なものであれ、読者が自分と同じ『世界』を共有しているんだと確認することが出来るのよ。
自分の生み出した『世界』を、読者はどう感じているのか
読者はどんなメッセージを自分の作品から受け取ってくれたのか
感想や批評を通じてそれらを知ることで、初めて『小説家』は読者と―――つまりは他人とつながる事が出来るの」
そう言った後、彼女は少々恥ずかしそうに僕から視線を外すと
「その点、私は恵まれているわよね。私が作品を書き上げれば、すぐにあなた―――自分の作品を世界で一番読んで欲しい人、自分の『世界』を世界で一番共有して欲しい人―――が、私に感想をくれるんだもの」
あまりに突然の告白に、僕がそれこそ何の反応も出来ずにいると
「つまり、一言で言ってしまえば
『私が強く見えるのだとすれば、それは、支えてくれるあなたのおかげ』
ってこと」
そう言って彼女は僕に笑いかけた。
―――それはまるで、スズランの花が咲き誇るような満開の笑顔であり、思わず僕の口からこぼれたのは
「・・・君はずるいなぁ」
という一言だった。
「そんな事言われたら、僕はもう泣き言なんか言えないじゃないか」
「あら、そんな事はないわ。だって、私があなたに支えて貰っているように、私だってあなたを支えたいもの。だからあなたが辛いと感じているときは、引け目なんか感じずに、もっと私に相談しなさい」
「・・・了解」
『敵わない』とは、まさにこの事だろう。しかもたちの悪いことに、僕にはこの何とも言えない満足感から逃れようという気が、さらさら起きないのだ。
「そろそろ夕飯にしようか。何が食べたい?」
「・・・そうね。今日は寒いから、鍋にしましょう」
「了解」
僕が鍋の材料を買いに行くために外出の準備をし、玄関で靴を履いていると、背後から
「待って。スーパーに行くなら私もついて行くわ」
と言う彼女の声が聞こえた。僕が驚いて振り向くと、そこには自分のコートを探す彼女の姿があった。
「君は化粧もしていないし、買うものもそんなに多くないから僕一人で大丈夫だよ」
「あなた以外にどう思われようと気にしないわ。それに最近家にこもりっきりだったし、久しぶりに外の空気を吸いたいのよ」
僕は彼女の言葉に頬が緩みそうになるのを感じたが、あえて呆れたような口調で
「だとしても、せめて最低限の化粧はしてきてくれないか?君自身が良くても、僕は君がだらしないと思われるのは嫌なんだよ」
「・・・分かったわよ」
しばらく彼女は僕の言うことに従うべきか悩むような様子を見せていたが、やがて、しぶしぶといった様子で洗面所へと足を向けた。彼女の後ろ姿が洗面所へと消えたのを確認すると、僕は頬が緩んで行くのを抑えきれなかった。そして、そんな何気ない幸せに浸りつつ、思わず僕は祈っていた。
―――彼女の書く小説のようにドラマチックでなくて良いから、どうかこの平凡で幸せな日々がいつまでも続きますように
と