98. 夢と現実の間
マリーは翌朝、熱が下がらない体を引きずるように、使用人と共に公爵邸を出て帝都の屋敷に移った。
オリバーはマリーに対して責任を感じている。だからこそ、マリーはこれ以上同情されて、惨めな気持ちになりたくなかった。そのために、任務を口実にして公爵邸を出た。
オリバーとは、任務上で恋人を装っただけの関係だ。哀れな生い立ちと、背中に傷を持つマリーに向けられるオリバーの慈悲深い視線が耐えられなかった。だからオリバーから贈られたものは、全て公爵邸に置いて来たのだった。
これ以上、オリバーの優しさや同情を、愛情だと勘違いするようなことはしたくなかった。オリバーの屋敷で過ごしたことは、過ぎ去った過去だと思い定めることにした。
帝都の自室に戻り一人でベッドに横たわると、オリバーと過ごした日々が思い出された。マリーはその想い出を振り払うように、仕事のことを考えようと努めた。
「あの方には、非の打ちどころのない家柄のご令嬢との、一点の曇りもない結婚が一番お似合いなのよ……」
誰もいない部屋で、マリーは声に出してそう呟いた。ただそれだけのことなのに、なぜか不思議と涙が出そうだった。
帝都の屋敷に戻ってからもマリーの熱はなかなか下がらなかった。早く仕事に戻らなければと焦れば焦るほど、体は思い通りにはならず、どんどん熱が上がり、夢にうなされた。
その中で、昼夜限らずに様々な夢を見た。母が生きていた頃の幸せな夢、アルメリアの公爵邸で過ごした辛い日々の夢、アリエルと出会ってから仕事に没頭していた頃の夢、そしてオリバーと過ごした楽しかった夢。
高熱にうなされると、夢と現実の境目がわからなくなった。
「……マリー、マリー。大丈夫ですか?」
夢の中でマリーを呼ぶ優しい声が聞こえた。よく聞くと、それはオリバーの声だった。
マリーはオリバーの声を聞くと、理由もないのに涙が溢れた。きらびやかな世界に住む彼が、すぐ近くにいるかもしれないと思うと、自然と声が出た。
「……オリバー? オリバー! オリバー!」
マリーは泣きながら夢中でオリバーを呼んだ。すると暖かくて大きな手がマリーの右手を包んだ。
「私はここにいますよ」
目を開けると、目の前にマリーを心配そうに見つめるオリバーがいた。オリバーは優しくマリーの髪を撫でた。
マリーは自分に優しく触れるオリバーの手に、涙が止まらなくなった。マリーはオリバーに抱きつくと、自分でもおかしく感じるくらいに泣きじゃくった。オリバーはいつまでもマリーを撫でていてくれた。
泣き疲れたマリーはオリバーの手を握り締め、深い眠りに落ちようとしていた。
「……また来ますね……」
そう言ってオリバーがマリーの手を離そうとした時だった。マリーは咄嗟にその手を強く握った。
「……行かないで」
マリーは握った手に力を込めた。
「どこにも行きません。あなたが望んでくれるのなら、私はずっとそばにいます」
「……それはダメなの……オリバーは、良家のご令嬢と曇りなき結婚をするの……だから私の側じゃダメ……」
マリーは消え入りそうな声でそう言うと、意識が途絶えた。
次にマリーが目覚めた時、そこには誰もおらず、自室のベッドに一人で横たわっているのだった。マリーは、自分がオリバーのことを慕っているのだということにようやく気がついた。
そして同時に、その気持ちが決して報われることのない失望がマリーを襲ったのだった。
*
今回のシェリー男爵邸への家宅捜索は、闇宝石商の捕縛や宝石の密輸調査していることを隠すため、表向きには『闇賭博の摘発』として公表することとなった。
帝都の屋敷を兵が取り囲んでいることは帝都でも大きな噂になり、シェリー男爵家の家宅捜索は『闇賭博の摘発』のために行われたものに見せかけるにはちょうどよかった。
これまで皇室は、闇賭博について言及してこなかった。取り締まることもしなければ、肯定もしていなかった。しかし今回皇太子の命で闇賭博を摘発することで、皇室は闇賭博に対して否定的な見解であることを表明する良い機会になった。
闇賭博の摘発だけなら、ハンブルグ家、ハンプシャー家、スミス家には実害がなく怪しむこともない。リチャード家もシェリー男爵に全ての罪を着せ、知らないふりを決め込むのが関の山だろうという見解に至ったのだった。
マリーが帝都の屋敷に戻った日から、オリバーは寝る時間もないくらいに働き続けた。
闇宝石商捕縛の捕縛任務のために一ヶ月滞っていた皇太子の補佐業務から、シェリー男爵家の後処理までやることは限りなくあった。
オリバーは他のことを考える暇などないくらいに業務に没頭していた。
マリーのいない屋敷に一人で戻るのは億劫で、それに、仕事をしていなければ、マリーのことばかりが頭に浮かんでくるのだった。
マリーが屋敷を去った翌日、マリーのことがどうしても気になり、いてもたってもいられなくなり、帝都の屋敷に見舞いに行った。
帝都の屋敷にいたマリーは、高熱にうなされていた。現実と夢の区別がつかない中で、オリバーにしがみついて子供みたいに泣くマリーを抱きしめた時に、マリーへの気持ちを自覚した。
その日から毎日、マリーを見舞うために帝都の屋敷に寄った。しかし、マリーは体調が優れないことを理由に、オリバーに会おうとはしなかった。それでも仕事の合間を縫い、毎日花を渡すためだけに屋敷を訪れた。
マリーのためにできることなら何でもしたかった。少しでもマリーの負担を減らすことになればと思い、そのために率先して仕事を引き受けた。
*
宝石商を捕獲してから、十日が過ぎた頃だった。城にいるとオリバーはやけに視線を感じるようになった。
執務室でルイと向かい合っていると、ルイが言った。
「すでに今回の件は帝都でもかなり話題になっている。今回の件は、表向きには闇賭博の摘発が目的だったことになっている。
筋書きとしては、私の命を受け、お前が手柄をあげたと言うことになるだろう。このまま大々的に公表し、陛下が今回の闇賭博摘発を労うことで、宝石密輸の調査から目を逸らす目算だ。直に陛下から呼び出しがある。今回功績を挙げたお前に、何らかの褒章があるはずだ」
「……そうですか……」
オリバーにとっては体裁も手柄も、そんなことはどうでもよかった。陣頭指揮を取り、一番重要な任務を全うしたにもかかわらず、傷跡が残る怪我を負った上に、讃えられることもないマリーのことを思うと、いたたまれない気持ちになった。
「……リバー……オリバー」
「……はい……」
「……オリバー。少し休め」
「いえ、私は大丈夫です」
「鏡を見てみろ。ひどい顔をしている。寝ていないのだろう? 少し休め」
「……はい」
オリバーはしばらく考えてから口を開いた。
「……殿下」
「何だ?」
「……一度アリエル様にお会いする機会をいただけませんか?」
「……ふむ。伝えておこう。近いうちに使いをよこす。とにかく、今日のところは帰って寝ろ」
「……承知しました。ありがとうございます」
*
翌日、オリバーは皇帝から城にある謁見の間に呼び出された。ルイが言っていた通り、褒章が与えられるとのことだった。
オリバーが謁見の間に入ると、そこには父であるハミルトン公爵をはじめ、ハンプシャー侯爵、ハンブルグ侯爵など、議会の主要な要人貴族が並んでいた。
中央の高砂には皇帝が着座し、その隣にはルイが立っている。
オリバーは高砂の前まで行くと、跪いて頭を下げた。
「オリバー・ハミルトンが皇帝陛下、ルイ皇太子殿下にご挨拶申し上げます」
「表をあげよ」
オリバーはしゃがんだまま、顔をあげた。
「オリバー、そなたは此度、闇賭博の摘発において多大なる功績をあげ、わが国に貢献した。その働きを称え、中将の軍功を授ける」
「ありがたき幸せにございます」
オリバーは深く頭を下げた。
「褒美として金貨千枚、さもなくば、そなたが望むものを申してみよ」
オリバーは周囲を見渡した。今回の功績により、皇太子側近としての地位は向上するだろう。そうなるとハンブル家やスミス家をはじめ、オリバーとの政略結婚を望む貴族は増え、政治的に利用されることは容易に想像がついた。
「皇帝陛下、僭越ながら私の望みをお伝えさせていただきます。私が心より望む相手と結婚することをお認めください。その時まで、何人たりとも私の結婚に干渉しないことをお約束頂けませんか?」
オリバーのその回答に、その場にいた貴族たちはざわめいた。オリバーは、自分が政略結婚の駒にならないため、先手を打ったのだった。
「あいわかった。そなたの望み、トルアシア帝国皇帝の名においてしかと聞き届けた。下がって良いぞ」
「ありがたき幸せにございます」
オリバーは再び深く頭を下げ、謁見の間を出た。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
この小説を書き始めて一年が経過していました。もう何度かもうやめようかなと思ったこともあったのですが、ブックマークしてくださっていたり、読んでくださっている方がいて、その度にもうちょっと続けてみようと思ってここまできました。
「ちょっと、勢いで投稿をし始めてしまったけれど、あんまりニーズもなくて面白くないのかな〜」って思うことも多々ありましたが、感想やいいね!をいただき今まで続けることができました。
特にキリのいいところでは全くないのですが、読んでくださった方や、リアクションしてくださった方がいてくれたから続けて来れたことにお礼を言いたくなりました。
ちょっと宣伝してるみたいですが、もしよろしければ、ブクマ、いいね、感想、レビューをしていただけると嬉しいです。めちゃくちゃ励みになります。
では、ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。