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91. 小さな望み

 風が気持ちの良い午後だった。オリバーは自らマリーにお茶を淹れ、マリーが好みそうな菓子をティースタンドから選びマリーの前に置いた。


 オリバーとマリーはティースタンドが並ぶテーブルを囲んで向かい合った。


「マリー、私はあなたに一度改めて謝罪したかったのです。あなただけでなくアリエル様にも。私は身分や容姿等で私という人間を判断されることが嫌で、できるだけ自分自身を公正に判断してもらえるようにと努めてきました。しかし、結局私も上部でしか人を見ていなかったことを、あなた方に出会って思い知りました」


 オリバーは申し訳なさそうに言った。


「……私はオリバーのことをそんな風に思ったことなど、一度もありません。とても柔軟で、慈悲深い方だと存じています。とても有能な方です。そして、並ならぬ努力の上に、今のあなたがおられるとも思っています」


 マリーはそう言うと微笑んだ。


「ありがとうございます。お世辞でもあなたにそう言われると、本当にそんな気がしてきます」


 オリバーは嬉しそうに笑った。


「嘘ではありません……オリバー、昨夜のことが気になったから、私と話す機会を設けてくださったのですよね」


「……はい。おそらく過去に何かあったからのことではないかと推測しました。あなたが、話したくないことを無理に聞くつもりはありません。気分を害されたのであれば謝罪します」


「いえ、私は諜報員です。ですから、あなたのことについて大体のことなら知っています。それなのに、オリバーが私のことを何も知らないのは公正ではありませんね。これからの関係性のためにも、私のことを知っていただきたいと思います」


 マリーはニコリと笑うと話しはじめた。


「……私はアルメリアのアイデール公爵家で、側室の子として生まれました。側室である母が亡くなるまでは、それなりに幸せな子供時代を送っていました。


 しかし、母が亡くなった屋敷に私の居場所はなく、継母と義姉、使用人から辛くあたられるようになり、アリエル様に仕えるまで、教育という名目で公爵家から虐待を受けて育ちました。


 十六歳になった時、私の状況をご存知だったアリエル様に救われ、家を出ました。そこから諜報員として今に至ります。アリエル様に仕えると決めた時、感情と共に一切の過去は捨てようと決めました。


 それでも、時々ふと油断すると、あのような形で封じたはずの感情が出てしまうことがあるのです。


 ……しかし、任務に支障をきたすようなことは絶対にありませんので、ご安心ください」


 マリーは強い眼差しでオリバーの瞳を見つめた。


「……マリー……辛い経験をされていたのですね」


「人は誰にでも、多少の過去はあるものです」


 そう言って笑顔を作ろうとするマリーの顔には、悲しみが浮かんでいた。


 オリバーは席を立ってマリーの隣まで行くと、跪いてマリーの手を取った。


「弱者への暴力は、決して許されるものではありません。そのようなことを容認しないでください。それに、あなたは尊ばれて大切にされるべき存在です。


 私から見えるあなたは、聡明で強く、そして美しい。


 それなのに、あなたを見ているとひどく胸が痛む時があります。私にとってマリーは、尊敬や敬意を抱くに値する方です。だからどうか、自分の価値を低く見積もらないで下さい」


 オリバーはもう片方の手もマリーの両手に添えた。


「……ありがとうございます……」


 マリーはどんな顔をすれば良いのか分からず、表情を作ることができなかった。そしてオリバーのその言葉を額面通りに受け取って良いのかもわからなかった。


「自分のことになると、途端に不器用になるのですね」


 オリバーはそう言うと優しく笑った。オリバーの指摘に、マリーは顔を赤らめた。


「マリー。この任務の間、私はあなたとの恋に溺れる恋人ということになっていますよね? ですので、その間はあなたの望みを叶える権利をいただけませんか? あなたの望むことを、叶えて差し上げたいのです。贈り物もその一環です。受け取っていただけますね?」


「……わかりました」


 マリーは困惑しながら小さく頷いた。


(断らなければいけない)


 マリーは咄嗟にそう思った。これまで、マリーは自分の意思を持たないようにしてきた。


 意思を持つと、そこには必ず希望と期待が生まれる。それは同時に失望と喪失感を生むからだ。何かに期待して、失望するような思いはしたくなかった。


 だからマリーはそのような機会を、意図的に避け続けていた。そんなマリーの気持ちを察してか、アリエルはいつも『報酬』という形でマリーに気持ちを伝えている。


 しかし、なぜかオリバーの申し出を断ることができず、承諾している自分がいる。自分でもこの矛盾が何なのかわからなかった。


「今すぐに思い付かなくてもいいのです。私はいつでもあなたのそばにいますから」


 オリバーは相変わらず優しい視線でマリーを見つめていた。


「少し、歩きませんか? 屋敷を案内します」


 オリバーはマリーの手を取ると歩き出した。庭には花が咲き乱れ、庭園の隅々まで手入れが行き届いる。


 庭園の端まで歩くと、マリーはほんのりと干し草と獣の匂いがするのを感じた。


「……公爵邸にも馬がいるのですね」


 マリーはポツリと聞いた。


「ええ。屋敷の外れに厩舎があり、私たちが乗る馬は何頭かそこで管理しています。主となる厩舎は公爵家の訓練場にあります」


 マリーは何かが溢れ出してしまいそうになる時、よく馬に乗っていた。任務の合間を縫って森を駆けた。そうすることで自分を保つことができた。この国に来てからは、一度も馬に乗っていない。


 オリバーはじっとマリーの方を見つめて何かを考えていた。


「……もしかして、私に叶えてもらいたい望みができましたか?」


 オリバーはそう言うと、意地悪そうにマリーの顔を覗き込んだ。


「……馬に乗らせていただくことはできますか?」


 マリーは俯き、消えいりそうな声で尋ねた。


「もちろんです」


 オリバーは嬉しそうに頭を下げて、マリーの手の甲にキスをした。


「明日は訓練場に行く日でしたよね。その時に馬で行くというのはいかがですか? 少し距離はありますが、訓練場の向こうに早駆けにちょうどいい草原があります」


「よろしいのですか? ありがとうございます!」


 マリーは頭を上げると、少女のような顔で微笑んだ。


 オリバーは、幼い頃の傷を胸の奥にしまい、強くあろうとするマリーのことがいじらしく、同時に可愛くもあった。だから、何でも望むことを叶えてあげたいという気持ちが湧いたのだ。


「それでは、今日中に両殿下にシェリー男爵家の賭博場についての報告書を提出する必要があります。少し、お手伝いいただけますか?」


「もちろんです」


 マリーはにっこりと笑ってそう言うとオリバーの腕に手を絡めた。オリバーはマリーの手に自分の手を重ねると、ゆっくりと執務室に向かって歩き始めた。


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