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89. 眠れない夜

 

 オリバーと共に賭博場であるシェリー男爵の屋敷を訪れた夜、マリーは悪夢にうなされた。全身に汗をかいて飛び起きると、そこはオリバーの居室で、オリバーは隣で静かに寝息を立てていた。


 時々、幼い頃の記憶がマリーを苦しめることがある。感情の扉が開きそうになるたびにそれが起こる。マリーは昔のことを思い起こすことのないように、自分の感情の扉にしっかりと鍵をかけ、内側からも外側からも開かないようにしていた。


 しかし、今夜オリバーの思いがけない思いやりある言葉が、久々にマリーの心に触れたのだった。


 マリーはベッドに膝を立てて座り、両手で顔を覆った。


 マリーは父であるアイデール公爵と側室の間に生まれた子供だった。側室だった母はマリーが十歳になる頃に病死した。それ以降は公爵家の娘として育てられたのだった。


 だが、マリーへの風当たりはきつく、公爵家での生活は常に教育という名の体罰と隣合わせだった。マリーは幼い頃から美しく、継母と義姉達から美貌への嫉妬は凄まじいものだった。


 ドレスで隠れるところには絶えずアザがあった。骨にヒビが入ったことや、あばら骨が折れたこともあった。凍えるように寒い日に頭から水をかけられ、外に放置されたことも数えきれないほどある。


 しかし、マリーを庇ってくれる者は屋敷には誰もいなかった。何の希望も持てない中で生きていた。



 マリーが16歳になった時、病床に伏せる王女アリエルの話し相手としてマリーが王宮に呼ばれた。歳の頃も丁度良く、マリーを社交界に出す予定もない公爵家にとって都合の良い人事だったのだ。


 アリエルはマリーの置かれている状況をよく理解していた。その上で声をかけたということは後になってわかったことだった。元々マリーの存在を持て余していた公爵家は、多額の契約金を受け取る形で、マリーをアリエルの侍女として差し出したのだった。


 マリーの人生はそこから激変した。アリエルの元で諜報員として命をかけることで、ようやく生きる意味を見出せた気がした。アリエルのためならば自分の命など微塵も惜しくない。そのためにも、感情などというものに振り回されないよう、辛い記憶も母との幸せな記憶も全て胸の奥にしまい込んでここまで来たのだ。


 マリーは自分で自分を抱きしめると、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。こんなことぐらい、何でもない。これまでの苦しかったことは全て過去の話なのだ。


 それなのに、冷静になろうとすればするほど震えが止まらなくなり体は冷たく硬直していくのを感じる。感情と意識を切りなそうとしても思うようにいかず、苦しさが込み上げ、呼吸が浅くなり、意識が遠のきそうになっていく。


「……マリー? 具合が良くないのですか?」


 目を覚ましたオリバーが、マリーの背中に触れた。


「……」

 オリバーの問いかけに答えなければ、余計な詮索をされてしまう。


 そう思っても、身体がいうことを聞かず呼吸は浅くなる一方で目が渇いて涙が出た。


「マリー! 大丈夫ですか?」


 オリバーは心配そうにこちらを見つめている。マリーはオリバーの目を見て黙って頷いた。背中に触れるオリバーの手を優しく振り払った。


「……大…丈夫です……」


 マリーは真っ青な顔でも何とかオリバーに作り笑顔を見せた。


「……私は大丈夫ですので、先にお休みください……」


 マリーは搾り出すような声で言い、再びベッドに横になった。横になっても、しばらくの間震えが止まらなかった。それでもマリーは毛布にくるまってただひたすらに耐えるしかなかった。


 その時だった。再び温かい手がマリーの背中に触れた。


「……少しの間、こうしていても?」


 オリバーは優しく聞いた。


「……」


 マリーは声を出せず、ただ頷くことしかできなかった。


「無理に喋らなくてもいいです。嫌だったら跳ね除けてください」


 オリバーはそういうと、後ろからそっとマリーを抱きしめ、ゆっくりと体をさすった。


「私的な感情はありません。ただ、こうした方がいいと思ったからそうしているだけです」


 オリバーはそれ以上何も聞かなかった。ただ黙って包み込むようにマリーを抱き、肩をさすり続けていた。


 空が白む頃になって、ようやく二人は眠りについた。


 二人が目を覚ました後は何事もなかったかのようないつも通りの朝が始まっていた。


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