86. 二人の距離
しばらくすると、オリバーの部屋にお茶と酒が届けられ、気を利かせた使用人がマリーの夜着も置いていった。
二人はソファに向かい合って腰を下ろした。
「では、これからの計画について、お話しますね」
「ええ、お願いします」
「今回の宝石密輸の黒幕は、リチャード家です。賭博の会場になっているのも、闇承認のアジトとなっているのも、全てに闇社会を取り仕切っているリチャード家が絡んでいます。
警備に配属されている者も、私兵ですが精鋭揃いです。武力だけで突入しても、おそらく闇宝石商はリチャード家の兵に最初に始末されることが予測されます。闇宝石商を生かした状態で捉える必要があります。そのための潜入捜査です」
「なるほど、状況はわかりました」
「今回の家宅捜査が最初で最後の機会です。もし、私たちが捕まれば、殺されるだけでは済まないでしょう。我々は、なぶり殺されるまで拷問を受けることになることは確実です。正直なところ、私自身もそのような拷問を受けると、最後まで耐きれるかどうか自信がありません。ですから、オリバー閣下もそのことを念頭において動いていただけますか?」
「……承知いたしました」
オリバーは、自分の考えが甘かったことを痛感させられていた。今回の件が失敗すれば、単に自分の命の危険だけではなく、これまで皇帝やルイ達が積み上げてきたものが全て水泡に帰すということまで考え及んでいなかった。
「では、まず、ここにいる時間はできるだけ護身術の稽古の時間に当てたいと思います。稽古はこの部屋で行います。恋人とベッドの上にいる、というちょうど良い言い訳もできますね。
次に、週に何度か、私と一緒に賭博会場になっているシェリー男爵の屋敷に出入りしていただき、オリバー閣下にも実際に現場を見ておいていただきます。賭博のやり方は私がお教えしますので、こちらにも時間を割いていただきます。
最後に、オリバー閣下の騎士隊と連携するため、訓練場に私が同伴することをお許しください。現場の見取り図を元に、兵の配置と隊列を決めます。
それから、恋人として、常に近い距離感を保つように意識してください。お互いの動き、目配せから意図を読み取れるようになる必要があります。連帯感と呼吸を合わせることがとても重要なのです。今からは全てが実践訓練となりますが、よろしいでしょうか?」
「あいわかりました」
オリバーが答えると、マリーはソファから立ち上がり、向かいに座っていたオリバーの隣に体を寄せて座り直した。
「これから、私たちは常にこの距離感で動きます。どこに行く時も、可能な限り私を隣に置いてください。ベッドで眠る時もこの距離です。私的な感情は必要ありません。隣にいるだけで、お互いの頭の中が見えるようになるための訓練だと思ってください」
「わかりました」
「それから、できるだけ自分の視界に入る全ての人間の行動をよく観察し、相手の三歩先の行動まで予測して動く癖をつけてください。特に私の行動には細心の注意を払ってください。私が何を考え、何をしようとしているのかを眠る時以外は常に考え続けてください。私も同じように、オリバーの頭の中を読むようにします」
「承知しました」
マリーの指示はどれも的確で、理にかなったものばかりだった。そして、オリバーが考えている恋人として動くという意味と全く異なっていた。
「任務を遂行する間、私がオリバー閣下のことを愛称で呼ぶことをお許しいただけますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます。私のことはこれまで通りマリーとお呼びください。では、オリバー。今夜から護身術の稽古を始めます。ひとまず私に触れることができるようになれば、第一段階の技術が身についたと思ってください」
そう言うとマリーはオリバーの手を取ってソファから立ち上がり、二人は向かい合って立った。
オリバーは、マリーに触れることがそれほど難しいことだと思っていなかった。しかし、夜が明ける頃になっても、結局マリーの体に触れることはおろか、動くこともできず、間合いに入ることすら許してもらえなかった。
「オリバー、今夜はこのくらいにしておきましょう」
あまり動いていないのに、全身にびっしょりと汗をかき、肩で息をしているオリバーに向かってマリーは言った。
「最初にしては、とても優秀です。きっとすぐに私に触れることができるようになります。私は先に休ませてもらいます。オリバーも一度風呂で汗を流してください。一旦休んだ方が良いでしょう」
マリーはニコリと笑って言った。
オリバーは汗だくになったタキシードを脱いで使用人を呼び、自室に備え付けられた浴室の風呂を準備させた。そして、湯浴みをするため浴室へと消えた。
オリバーが夜着に着替えて居室に戻ると、マリーはドレスを着たまま、寝室のベッドで横になっていた。
オリバーはマリーに声をかけようかと思ったけれど、ベッドに横たわった時には、疲労で全身が動かなくなっていた。
女性と同じベッドで眠るのは久しぶりだった。
(マリーはもう眠ったのだろうか?)
そんなことを考えていると、急激な睡魔に襲われ、そのまま深い眠りに落ちたのだった。




