43. 兄弟の距離
マティスは、城にいる時は毎朝図書館で本を読むことが日課になっていた。
だから今朝、突然図書館でルイに声をかけられ、とても驚いた。急なことでどう接すれば良いのかわからずにいた。これまで、ルイとはなるべく関わりを持たないようにしていたからだ。
「お前のことを知りたい」と言われて、マティスは何と答えて良いのかわからず、曖昧な返事しかできなかった。
マティスは第二皇子として生まれた。側室から正室になった皇后である母と、この国の皇帝である父を持つ。幼い頃から、兄のルイが正式な皇帝の後継者だと教えられていた。
そしてこれまで皇后からは、皇太子である兄に関わらないようにと言い聞かされて育てられた。
それだけではない。マティスは常に母から皇帝である父、皇太子の兄、城に出入りする大臣や役人、政治に関わりがあるそれら全ての人間から遠ざけられて育っていた。幼い頃から母や乳母、使用人以外の城の人間と関わらぬように、意図的に教育されていた。
物心ついてから「どうしてなのですか?」と尋ねても、
「それがあなたのためなの」と全ての疑問は、母のその一言で片付けられた。
そして、ことあるごとに皇室領の宮殿で過ごすことを勧められた。
母は頑なにマティスがこの国の政治に絡むことを許さなかった。そして成長するにつれ、母が意図的にマティスを無知で害のない人間に育てようとしていることを知った。
母の考えに納得したわけではなかったが、それに逆らうことで母との関係が歪んでしまうことを恐れ、マティスは表面的には母の方針に従っていた。
しかし、マティス自身はこの国で起こっていること、遠い異国で起こっていること、この国の政治や経済など、この世界に対して湧き上がる好奇心を抑えきれずにいた。
なるべく母の目を盗んでは図書館に通い、暇さえあれば議会に訪れる顔ぶれや兵士の顔ぶれを見ていた。そこからこの国の情勢を想像し、仮説を立てるようになった。
兄が皇帝の座についたら、マティスは隠居するつもりでいた。辺境で暮らすことも考え、剣術も身につけようとした。しかし、あまり母親はマティスが必要以上に剣術に突出することをよしとはしないためいつもひっそりと練習していた。
そんな時だった。
図書館で会った兄がいきなり「お前のこと知りたい」と言い出したのだ。
しかしマティスはすぐに母の顔が浮かび「話すことなどない」と答えてしまった。しかしそれは本心ではなかった。
兄や父のことをマティスはずっと知りたいと思っていた。
だから兄が去ろうとした瞬間咄嗟に出た言葉が
「兄上は、ご自身のご結婚についてどう思われているのですか」
という疑問だった。
婚約式の時、ほんの少しだけ垣間見えたルイの苦しそうな表情が、マティスの頭を掠めたからだった。
マティスの問いかけに兄は困った顔をしていた。
しかし、意外だったのは、兄が結婚に対して意義がないと言い切っていたことだった。
婚約式で久しぶりに顔を合わせたルイの表情は確かに暗く沈んでいた。だが、先ほどマティスの問いに答えるルイは無理をしているようでもなかった。マティスはルイの気持ちがよく分からなかった。
翌朝も再び図書館に行くと、前日と同じ席に座った。もしかしたらまたルイと会えるかも知れないと思ったからだ。すると、同じ時間に再びルイはマティスの前に立っていた。
「今日はいないかと思った」
と言ってルイは笑った。
ルイの笑った顔は皇太子として表に出る時の作られた笑顔ではなく、ルイ本来の人柄からくる笑顔なのだろうなとマティスは思った。
「兄上が来られるかなと、思ったので」
とマティスも、ルイの笑顔につられて、気がついたらそう答えていた。
「マティスは歴史が好きなのか?」
「はい。歴史と、経済に興味があります」
「兄上は、何がお好きでしたか?」
「私は、これまで、何が好きなのか考えたことなどなかったな……」
とルイは真面目な顔で答えた。
「私の場合は、全て必要に迫られて学んだだけだ。別に学ぶことが好きだと思ったことなどない。それにお前ほど学ぶことに対して熱意は持っていなかったように思う」
「私は兄上には、できないことなどないと思っておりました」
とマティスは意外そうな顔をした。
「まさか。私にできることなど、ほとんどない」
とルイは自分を嘲笑するように言った。
「……」
「だが、私はこの国のために自分ができることは、全てやるつもりだ」
兄の言葉に嘘はないように思えた。虚勢を張るわけでもなく、ただ正直にマティスに本音を伝えている、マティスはそう感じた。
「……母上は、私がこの国について知ることを、良く思っていません。この国のことだけでなく、政治や父上や兄上にも関わることをあまりよく思っていません」
とマティスはポツリと言った。
「なぜだ?」
とルイは聞いた。
「……私にはわかりません。ただ、母上はいつも、それが私のためだとだけと言います」
とマティスの表情は沈んだ。
「そうか……」
ルイはしばらくの間、じっと考えていた。
「お前は、それについてどう思っている?」
「私は……私はただ、母上の意向に従うしか選択肢はありません……」
「マティス、そうではない。お前はそのことについてどう思っているのかと聞いているのだ。私はお前の気持ちを聞いているのだ」
「それは……」
マティスは言い淀んだ。
「私は、もっといろいろなことを知りたい。この国の議会のこと、政治のこと、民のこと、この世界で何が起こっているのかについても。それに。それに、兄上や父上のことを本当は知りたいと思っているのです……」
そう言ったマティスの声は消え入りそうだった。
しばらく黙っていたルイは、
「そうか。なら、これから知れば良い」
と何でもないことのように言った。
「良いのですか?」
マティスの澄んだ瞳がルイを見つめた。
「ああ。少なくとも私はお前を知りたいと思っている。お前もそう思ってくれているのであろう?」
とルイは嬉しそうに笑った。
「だが、なるべく皇后には私との関係について悟られない方が賢明だろう。お前の行動について、母上はどのくらい干渉しているのだ?」
「城にいる時の私の動きは、従者や使用人を通じてほぼ筒抜けかと」
「なるほど。お前も、苦労していたのだな……」
「いえ……」
「では、なるべく従者や使用人の目につかないところで接触したが良いだろう」
とルイが言うとマティスは頷いた。
「機会を見計らおう。すぐに会いに行く」
と言うとルイはそっとマティスの側を離れた。
マティスは自然に笑みがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
顔を本で覆って、笑いを噛み殺した。
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