12. 皇帝陛下からの依頼
トルアシア行きが決まってからは、時間が経つのが早かった。しばらくこちらには戻れないと聞いていたため、持参する書類をまとめていたら馬車五台では足らないくらい膨大に膨れ上がってしまった。
あまりにも量が多いため、執事にも置いていきなさいと諭され渋々置いていくことになった。
母や兄、姉達は皆アリエルとの別れを惜しんでくれた。婚約期間は何年になるかはわからないが、アリエルはこの一件が片付いたら早々に切り上げてアルメリアに戻ってくるつもりでいた。
傷物の王女になったとしても気ままに生きられる今の暮らしが心地よく、この今の暮らしを手放すつもりはない。
母と姉は別れを伝えに、アリエルの住まう離宮に揃って出向いてくれた。
「アリエルが嫁ぐ日が来るなんて、寂しいわね」
とそれぞれに別れを口にした。
「お母様、お姉さま。私、まだ結婚すると決まったわけではないですよ」
「あらいやだ、そんなの行ってみないとわからないじゃない」
「アリエルだって気が変わるかもしれないわよ。素敵な方だったじゃない、ルイ殿下」
「姉様、ルイ殿下の気持ちも考えてみてくださいませ。晩餐の時のルイの困った顔を見たでしょう?姉様たちだって笑っていたじゃないですか」
「私は笑っていないわよ。笑っていたのはお父様とお母様。それにお兄様よ」
「そうよ。アリエルったら失礼ねえ」
と三人の姉は口をそろえた。
「それに、ルイ殿下の前では私は病床の女ですから。好かれる理由がないわ」
「何を言っているの。婚約したんだから、いつまでもあんな手間をかけて病人の真似事をしなくたって、普段のあなたのままでいいじゃない」
「そうかもしれませんが。それはそれで、殿下を騙すようなことをしているのが、ばれてしまい余計に気まずいではありませんか」
「じゃあ、何? 毎日あの格好でやり過ごすつもり? 絶対に無理よ。すぐにわかることだわ。だったら早めに謝ってしまったほうが身のためよ」
と姉達はアリエルに詰め寄った。
「でもそんなことしたら、アリエルが本当にお嫁にいってしまうわね」
とポツリ母が言った。
「それはそれで寂しいわね」
三人の姉は急にしんみりとした。
「姉様たち、私にお嫁に行って欲しいのか、欲しくないのか本当にわからないわ……」
アリエルは心の中でそう呟いた。
しかし、アリエルもルイとの関係性に悩んでいた。
おそらく、彼はアリエルがユーリであることも知らなければ、諜報員であることも知らない。
第四王女としてのアリエルのことは「ただの薄気味悪い病弱な女」だと思っているに違いなかった。
だからと言って素性をあっさり明かしてしまうのも憚られる。アリエルは答えを出せないまま、旅立つ日を迎えた。
トルアシアでの滞在先としてアリエルのために用意された離宮は、現皇后が側室だったときに建てられたものだった。
アリエルの希望に沿い、王妃が以前居室として使っていた一番大きな部屋は執務室に、晩餐用の広間は会議室に変更されていた。
部下が執務をしやすいようにと、客室はほとんど部下のための部屋にあてがわれた。そのためアリエルの居室もさほど広くない客室の一室を改装しただけの簡素なものになり、唯一寛げる場所は、宮殿内に作られた温室のサロンだけとなった。
アリエルが持ち込んだ書類と、トルアシアに用意させた書類を保管する書庫が必要になったため、舞踏会のために使用していたホールは取り潰されて書庫になった。
皇帝の配慮によりアリエルが来るまでに、トルアシアにある蔵書も集められていた。
表向きは離宮の体裁だったが、内装はアリエルが望んだ通りの機能的に設計された諜報機関の施設となっていた。離宮での使用人には、アリエルの素性を知る者を呼び寄せることが許されていた。
アリエルは部下のエミリー、マリー、ハラス、シモン、エルに同行させることにした。そしてアルメリアの離宮で働いていた使用人と護衛も、アリエルと共にトルアシアの離宮にその職場を移すことになった。
アリエルがトルアシアに到着した翌日には、婚約式と皇室の顔合わせが用意されていた。
アリエルにとって、これまで調べ上げてきた人物に実際に接近できる数少ない機会となる。
トルアシアまでは、馬車で二週間ほどかかった。婚約式の当日、トルアシア城に着くと父は言った。
「しかし、いつきても豪奢な造りだなこの城は。なあ、アリエル」
「ええ。美しい城ですね」
「アリエル、無理はしなくていいぞ」
「大丈夫です。お父様」
とアリエルは笑った。
しかし、父の心配を他所にトルアシア側との謁見はあっさりとしたものだった。皇帝から紹介される親族に対して、アリエルは小さな声で挨拶するだけでよかった。
王座の間に通された時、状況を知る皇帝はアリエルの姿を見て笑いが止まらないと言った表情を浮かべていた。
しかし隣にいた皇后陛下が、この婚約に対してどう思っているのかは読み取ることは難しかった。
皇太子のルイはアリエルがユーリとして初めて会った時と同じ表情をしていた。どれだけ心に思うことがあっても、噯気にも出さず、にこやかに淡々と公務をこなしていた。
そして一番読めなかったのはルイの弟である第二皇子だった。彼が一体どんなことを考えているのか、賢いのかそうでないのか、野心があるのかないのか、測るにはあまりにも読めない顔をしていた。案外この第二皇子は曲者なのかもしれない。用心するに越したことはないと、アリエルは思った。
謁見と婚約式を同時に終えると、ルイがアリエルを離宮まで送ると申し出てくれた。ありがたい申し出だったが、アリエルとしては父と話したいこともあったため辞退することにした。
「もともと低かった私への評価は、これで地に落ちてしまうのね」とアリエルは暗い気持ちになった。
アリエルは離宮に戻り早々にその変装を解き、湯あみを終えて普段の姿に戻った。会議室で父と、アリエルの部下の諜報員と共に今日の出来事について、そしてこれからのことについて話を詰めようとしていた時だった。
「アリエル様、皇帝陛下がお見えです」
と執事として給仕していたアリエルの部下のエルが扉の外から声をかけた。
「何ですって?」
とアリエルは驚いて父の顔を見ると、父はもちろん知っていたという顔をした。
皇帝陛下は、三人の家臣と数名の従者を連れてやってきた。
「アリエル、ようやく来てくれたか。先ほどのお前の姿、なかなか面白かったぞ」
と皇帝は笑ってアリエルを抱きしめた。
そして、空席になっていたアリエルの隣の席に腰を下ろした。
「陛下とお父様がこんなに策士だとは思いませんでした」
とアリエルは二人の王を前にボヤいた。
「いやあ、何と言われても仕方あるまい。私は、どうしてもお前が欲しくてな。ずいぶんとアレクに頼み込んで、ようやく首を縦に振らせた」
アレクというのは、父の愛称だった。
「アリエル、これからは私のことも、父と呼びなさい」
と皇帝はアリエルに向かって片目をつむって合図を送った。
「陛下。娘はまだ婚約をしただけです」
と父が水を差した。
「ほう。アルメリアの王は、まだアリエルを嫁がせるつもりはないか。まあ、私が父であっても、この娘を手放すにはあまりにも惜しいだろうがな。だが今、アリエルはトルアシアの手にあるぞ」
そう言って皇帝はアリエルの肩を抱いた。
「アリエル、ルイは気に入らないか? あれはあれでなかなかいい男だぞ」
「まあ、陛下までそんなことをおっしゃられるのですね。お言葉ですが陛下、ルイ殿下のお気持ちも少しお汲みくださいませ」
アリエルは皇帝陛下の方を向いた。
「ルイ殿下はいまだ何も知らされていないのでしょう。お母様であられる皇后の政治問題についても、陛下からでなく出向いた先のアルメリアの役人から詳細を聞かされて複雑な気持ちでいらっしゃるでしょうに。それに加えて急にアルメリアの病気で薄気の味悪い王女との婚約が決まり、その婚約者がいきなりやって来て目と鼻の先にある離宮に住まうことになったのです。私は殿下を少々お気の毒に思います」
「何が気の毒なものか。あれはそなたを娶ることができる権利を得たのだぞ。何の不満があるというのだ。そうだ、ルイが嫌であれば、私のところに来ても良いぞ、アリエル」
「娶るも何も、まだ結婚をするわけではございませんし。私は先の問題の解決を図るためにこちらに呼ばれたと認識しております。それ以上のことについては今ここでは申し上げられません」
「アレク、お前の娘は身持ちが硬いのう」
皇帝は父の方を見て苦笑いをした。
「では、本題に入ることにしよう」皇帝のその一言でようやく本来の議題に入ることになった。
「今回の件を知っている家臣のものを呼んでいる。皆信頼のおける者だ。事情も大方わかっている。この三人をそなたの下に付けよう」
そう言って皇帝は壁際に立っていた三人を指差した。
「ありがとうございます。一つ、事前にお伺いしておいてもよろしいでしょうか?」
「本件を調査するにあたり、帝国側には私やアルメリアに知られて不都合になることはありますでしょうか?」
「ふむ。「ある」と言ったところで、そなたは調べ上げるのだろう?」
「はい。ですが調べたことを誰にも知られることなく、陛下のお耳にだけ入れるように配慮することは可能です」
「恐ろしい女だ。だがここにいるものには、隠す必要はない。が、そなたが必要とあらば、私のところに使いを出せ。私がこちらに出向くことにしよう」
「承知いたしました」
「必要なものは全て、この者が揃えてくれる。ここの場に連れてくる程度には信頼を置く者だ」
そう言って、皇帝は三人のうちの一人の男を指差した。
アリエルは立ち上があり、その男の前に立った。
「初めてお目にかかります、エド様。アルメリアより参りました、アリエルにございます」
アリエルが頭を下げて微笑むと、
「なんと、私のこともご存知でいらっしゃいましたか」
とエドは目を丸くした。
「お調べしましたから。陛下の腹心の皆様のことは存じております」
「そう、この娘は怖い女よ。皆、隠し事はできないものと思え」
皇帝陛下はそう言って笑った。
「陛下、意地の悪いことをおっしゃらないでくださいませ。必要とあらば、お調べするだけで、人には探られたくないものがあることは私も重々承知いたしております」
「はは。心配するでない、私には隠していることは何もない。他のものについては知らぬがな。では、後はお前たちに任せるとしよう。アレクと私は、これで城に引き上げる」
そういうと皇帝と父は立ち上がった。
父である王は別れ際にアリエルを抱きしめた。
「私の可愛いアリエル。困ったことがあればいつでも使いをよこしなさい」
「大丈夫、心配しないでお父様。今日から私にはどうやら二人目のお父様ができたみたいだから」
アリエルは父の背中に手を回し、息を吸った。父はアリエルの頬にそっと口づけし、
体を離した。
アリエルは二人の父を乗せた馬車の音が聞こえなくなるまで手を振って見送った。
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