108. 前夜祭前、王女の部屋にて
前夜祭当日、アリエルは寝不足のまま朝を迎えていた。拘束するべき貴族の名前とその家系に連なるものの名前を頭に入れ、何となく顔の特徴を把握し、それから社交界と議会での力関係までなぞっていたら、いつのまにか空が明るくなり始めていた。
ようやくベッドで目を閉じた時だった。
「アリエル様、アリエル様」
耳元でエミリーの声が聞こえた。
「アリエル様、そろそろ起きて準備を始めましょう」
アリエルはその声で、重たい目を開け、嫌そうに言った。
「まだ朝よ? 前夜祭は夜から始まるのでしょ? 準備は夕方からでいいじゃない。それに、今日は明日の公判に使う資料も見ておきたいのに……」
「……アリエル様、ルイ殿下のお言葉をお忘れですか? 今日は帝国中の貴族の前で、皇太子の婚約者、いえ皇太子妃として正式にお披露目されるのですよ」
エミリーは語尾を強めた。
「……お披露目って言ったって、どうせ大半が捕まる人達でしょ」
「……」
エミリーは鬼の様な形相でアリエルを睨んだ。
「……わかったわよ……」
アリエルはそう言うと、のっそりとベッドから起き出し、テーブルに並べられた果物カゴの中のいちごを手で摘むと、そのまま浴室に消えていった。
*
いつも身なりにこだわらないアリエルに、この日ばかりは、4人の侍女が集まり、前夜祭の準備が整えられていた。アリエルに用意されたドレスは、白い光沢のある生地に、金糸で繊細な刺繍が施された美しく洗練されたドレスだった。胸元には多数の小さなダイヤモンドが施されている。ルイがアリエルのために作らせたものだ。
気が遠くなるような時間を要して行われたアリエルの支度は、夕焼けが空を染め始める頃にようやくは終わった。
「とんでもなく長丁場だったわね……」
準備を終えたアリエルはため息混じりに言った。
「今日という晴れ舞台のためです。誰よりも完璧に仕上げる必要がありますから」
エミリーは満足そうに答えた。
「……それより、私が頼んだものも、ドレスにしっかり仕込んでくれたのよね?」
「はい。抜かりなく、仕込み、準備は万全です」
アリエルが小声で言うと、エミリーはそっと頷いた。
「ありがとう。じゃあ、私は今から公判の資料に目を通すわ」
「……ほどほどになさってくださいませ」
「わかってるわよ。エミリー、あなたは今夜、皇室の近衛兵に扮して私の側から絶対に離れないで。私は、常にルイ殿下の左側にいるわ」
「承知しました」
「ハラスはサイモンと共に舞踏会場に貴族として参加する予定よ。少しでも異変を感じたらあったら、いつでも二人に合図を送って」
「御意」
「オリバーとマリーはできるだけ私たちのいる高砂付近に待機させておくわ。マリーはまだ、それほど動けない。でもその変わりにオリバーが動いてくれるはずだわ。そして万が一、両陛下や両殿下に危険が及んだ場合は、彼らの命を最優先にしてちょうだい」
アリエルが言うと、エミリーは黙って頷いた。
一通りの準備が終わると、エミリーはアリエルの前で膝付いて言った。
「私も準備がありますのでこの辺で失礼します。アリエル様、ご武運をお祈りいたします。どうかご無理はなさらずに」
「私もエミリーの武運を祈るわ。あなたこそ、くれぐれも危険なことはしないでちょうだい。もう、これ以上大事な人が傷つくのは嫌よ」
アリエルはエミリーの手を取りぎゅっと握った。エミリーはアリエルの言葉にそっと頷き、お茶を淹れると、静かに部屋を出た。
*
アリエルは侍女達が出て行った自室で一人きりになり、再び書類に目を通し始めた。
参加する貴族達に加え、前夜祭に駆り出されている使用人全ての顔と名前を何度も見返した。そしてそれ以上に、前夜祭のために配備される近衛兵である皇室騎士団の名簿を繰り返し頭に入れた。
そして今朝方新たに配置が変わった近衛兵達と伝えられた者達の書類も加わったことにより全てを暗記するためにさらに時間を要した。
いつの間にかエミリーが入れたお茶は冷たくなり、窓の外には月が登っていた。
もうすぐ、前夜祭が始まろうとしていた。
アリエルはもう一度左足のガーターベルトに仕込んである短剣を確認し、大きく息を吐くとようやく会場に向かう気持ちになったのだった。
お読みいただきましてあ理がとうございます。随分と間が開きましたが、なんとか完結まで書き切りたい!と思い再び書き始めました。よろしかったらお付き合いいただけますと幸いです。 いいね!やここまでの感想やご意見等、お聞かせいただけますとすごく嬉しいです。よろしくお願いします。