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藤崎要の徒然なるままに  作者: 藤崎要
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12月10日(火)

 マーフィーの法則という一時期流行ったものがあるんだけどね。


いわゆるあるある系の話なんだけど詳しくは調べたら出てくるので割愛しますけども。


これね、アカシックレコード的にはちょっと解釈にズレがある話で(笑)


物事の事象というのは、良くも悪くも【行動の積み重ねによって結果へと導かれるよう収束する】ってことなんだよね。これが第1の法則なわけ。


ま、どういう事かと言うとマーフィーの法則ではパンにバターを塗った面が床に落ちるということなんだけども。

そこに至るまでに、その日の朝食にパンを選んだことから始まり、バターを塗り、そしてパンを落としやすいような状況を招いてるわけ。これら無意識かつ導かれるかのごとくそこへと至る行動を積み重ねてるということ。誰も自らパンを食べようと思ってるわけだから落とすことは想定すらしてないわけだけども、まず落ち着いた状況下でそれらを行っていないという事実が存在することから全ては始まっているわけですワラ


それは寝坊したとか、これから何処かに出かけ無ければならないとか、出先で今日はこんな事をしようとか【他事で頭が働いてる】ってことですよ。


物事をより正確に遂行するとしたら、細心の注意を払って真剣にソレのみを成し遂げるということが何よりも重要で、例えばパンに集中することで【落としかけたけども咄嗟的に手が動き危うく拾えた】という結果に繋がるように、逆に意識が他に向く事で失敗の方向に向かう可能性が飛躍的に向上してしまうということを念頭に置いて未然に防がなければならないわけです。


何事も余裕を持って行動するという子供の頃に言われる当たり前のことなんですけどねワラ


ただそれも社会人となると学生さんのように夜ふかしで寝坊したとか言い訳にもならないわけだし、病欠も自己管理が問われる事になるわけで。なぜか小中高とソレが出来ていたにも関わらず、大学に行って飲み会やら徹夜で麻雀して全て忘れてしまう人もいるわけですワラ


そこで時間的なロスであったり金銭的に追い込まれてたり人間関係的な不安だったりと情緒というものは常に何かによって揺さぶられているものであって、それは生きている以上は避けて通ることは不可能なんだけども、最終的にもたらされるであろう結果がパンを落としただけのことで済むのか、はたまた事故を起こして自分や他人に多大な被害を与えることになるのか結果も大きな違いで応えてくれるわけですよ。


これら無意識下で起こることであっても、事象にはそれ相応の繋がりというものが必ず何処かに存在しているというわけですね。


では全てが無意識下で起こることなのか?といえばそうではなく第二の法則として、意識することで生じる影響もまた存在しているということなんですよ。


悪いように思えばもちろん悪いことが積み重なったと思うだろうし、恋愛で浮かれてるようなときはなんでもよく捉えるバカモードに入るでしょう。


ただ世の中の人間が全て同じ物事を同じ意識として認識しているわけではない。これもまた事実だろうと思います。


ブサイクカップルがイチャ付いてるからといって羨まれてるなんてこた当然無く、見せつけるようにしてても発情してんのかなって感じじゃないですか。お前ソレ逃したら最後かもしれへんなって思ってる私みたいなのもおるわけだし(笑)


人にはこう見えたとか、こう思えたとかそれもその人によっては事実には違いないわけだから(笑)私が頭ごなしに他人を否定しないのはそこであって、お前がそう思うならそうなんだろうお前の中ではながまさにそういうことですよ。


私も自分が思ってる事と全然違うことを相手が受け止めていて驚くことも多々ありますよ。何を言うとんねんと(笑)私は圧倒的強者だから下手な小細工はしないです。どちらかと言えば私の中で正義というのは弱い者の味方であって、単に正しいとか正しくないで片付けるものではないというか。お姉さんなんだから我慢しなさいみたいな理不尽なものではないけども、そこに力関係の強弱があるなら配慮しないわけにはいかないこともあるじゃないですか?むしろソレを【正義】というのであって、立場的なものによる理論上の正しさはあくまで正論に過ぎないわけです。


その上で私のことを信じるも信じないもその人のキャパシティによるものだからこちらから強要するものでもないし、かといって信じられないのをこちらもなんとかしようとは思わないように、私は私が信じるものに対してどうそれが自分に応えてくれるかそれだけだと思います。


 まず前置きしておくと世の中のありとあらゆる情報というものは確定的ではございません。なぜなら、そこに形容的な範囲や視点というものは定まってないからで。例えば砂糖入れたほうが確かに美味しいということであってもどれくらい入れるかもあれば甘いものが元々苦手という人もいるわけで、これら人間の数の多さを考えると一括りに定義出来るものではないことは言うまでもなく。


これをまた聞きかじり程度の情報でそうなんかと試した所で、お互い全然別物を作っていたのでは話が噛み合うわけがないでしょうしね(笑)


 私の話が好きな方は、あーそういう考えも確かにあるかもという柔軟な受け止め方ができる人に限るとは思うけども。世の中でまことしやかに言われてることでも、実際経験には至らず下手すれば死ぬまで気づかなかったわということなんて意外とありふれてるわけですよ。


今の御時世、動画なんかでさもそうであるかのような演出であってもそうなんだと視聴者が思い込む事をプロデュース的にやってるものもあるじゃないですか。それをまたカッコいいと勘違いして自分らもやって炎上したりとか。あくまで演出だと謝罪を迫られる事もあるわけですよ(笑)


それだけ創作においても全てが作者の実体験によるものではなく漫画で読んだ知識を漫画で描いたりドラマで得た知識でドラマを描くなんてことが普通にあるわけです。監修はあくまでも部分的な監修であって全体的なものを指してるわけじゃないからね。


私もドクターXとか医療物やらリーガルハイみたいな法律物もけっこう好きですよ。でもあれがリアルかというとリアルじゃないから物語として面白く見れることもあるわけじゃないですか。


裁判官なんて忙し過ぎてそこまで時間かけようなんて思ってる人のほうが稀なんじゃないですかね。でも当事者同士はそういうわけにはいかないから時間だけがいたずらに過ぎたり和解せざるをえないということのほうが実際の裁判では多いかと思います。アメリカのような劇場型も無い分、話し合いの余地もないみたいな無機質的な感覚を裁判で覚える人も多いかと思われますよ。


もちろん、裁判を通して世の中を広く知っている裁判官も中にはいらっしゃいますが、逆にそういう人間模様の中で揉まれたことにより人間不信に陥り固定観念や先入観だけで事務的に終わらせようとするような方も当然おられますから、そこに言い分の食い違いや嘘を見抜けるかなんてことは心理に精通してるわけでもない裁判官には土台無理な話で。前述したように、それぞれの見解で異なるから裁判までいくわけであってソレを日常茶飯事的に業務として取り扱ってる裁判官にしてみたら、たとえそれが真実ではなくてもむしろ大事なのは真実の追求よりも裁判を終わらせることに終始するような結果であってもそういう仕事として割り切ってるフシはあるかと思います。てか日本の司法制度的に法的な解釈からあまりに外れた意見は述べられないというのが、必ずしもとか考えるには無理があるといった歯切れの悪い個人の感想レベルの表現にも繋がっているのではないかと私は思いますけどね。


医療においても必ずしも全てがそうであるとは言わないけども、ドラマではこうしないと脚本として番組的に成立しないからという点は否めない所があって。取材や監修を受けられるような時間的に余裕のあるお医者さんも少ないわけだし、そこが現場とまたズレが生じることにもなってるわけで。でも実際それを真に受けた視聴者がそういうものだと思い込むことには、私は作家としてそうでもない部分というのをこうした徒然なんかでお伝えするわけですよ(笑)


例えば救急なんかもね、それで助かる命も確実にあります。救急車を始めとして日本全国津々浦々、高齢化社会において救急を要する患者の発生率から考えれば携わる医療スタッフの数が圧倒的に足らないことは言うまでもなく。それでもただちの機能不全に陥ってないのは日本の医療システムがどれだけ優れているかというのと現場スタッフの懸命な努力や、日頃から健康に気づかう国民の精神の賜物であって。


医療スタッフをされてる方のほとんどといってよいくらい大半の方が人の命は何よりも重いという意識の高さを持たれてる方が実際多いと私は感じます。ただ病院に行けば確実に助かるかどうかはその人の運命もあるというか、身体の状況にもよることなんでドラマみたいなわけにはいかないわけで。


誰しもがいついかなる時にそうなるとも限らないし、やがては誰もがお世話になる機会は必ずあるとは思うけども、できるだけ日頃からなるべくそうはならないよう気をつけることにこしたことはないと私は思います。


心肺蘇生は後遺症も含めて、基本助かったら奇跡くらいに思ったほうが良い話なんですよ。もちろん場所にもよるし、発症してからの時間や患者の体力にもよるけども救急車を呼んで助かるケースはあくまで助かる場合であって、私の思う所ですけども命に関わるようなケースではその派生から処置と最善を尽くせる限界というのは相当限られた話で運に恵まれてる場合に限られると感じます。


特にお年寄りなんかは骨がもう弱ってるわけだから、どこの病院にいこうが心肺停止時の蘇生に対する家族の判断は当然委ねられるし、そうなった場合のリスクを医師は説明せざるをえないわけです。まず普通は止めるだろうと。でもそれは作動させた時に骨が折れるどころか砕けたり肺が潰される可能性が非常に高いからで。やらなきゃ確実に死ぬということがわかってやるわけだけども、やればそこで終わるわけだから。


年を取れば血管の老化に伴って脳梗塞や心筋梗塞のリスクは誰もが抱えることになるわけです。脳梗塞を起こしたときなど、当人の意識の有無もあるだろうけども家族が本人に代わってそれらの判断を迫られるわけで、それが年齢的なものも相まったり延命処置の費用的負担の事も考えると答えが簡単に出せるようなものではないのが安楽死という話でもありますよね。


 作家というのはエンターテインメントとして物語を創造する一方で、けして安易な発想で描いてるわけではないという事をこうして読者に伝える必要があると私は思います。

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