12月6日(金)
母の一周忌を無事に終え、また色々なことを思い出すことにもなるわけですが。最近ようやく寂しさからも少し立ち直れてきたというか、いつもそばにいてくれてるんだと感じることがありまして。
頭を抱えるようなことでも不思議と解決することもあったり、これまで苦手だった春菊とかが食べられるようになったりと年々、母に似てくる所に絆を感じる今日このごろですワラ
一周忌は我が家で執り行い、お坊さんの段取りから諸々の準備などほぼ一人でしました。お菓子を買いに行って店内の試食をつまんだあと、車の中に財布を忘れたことに気づき、このまま外へ出ると、お菓子を食べに来ただけのヤバいヤツと思われないかヒヤヒヤしたけども(笑)
私には姉が一応いるんだけど、母の姉と同じようにウチの家系の何処から湧いて生まれてきたのかわからないくらい性格が私や母とは似ておらず(笑)
準備を整えたあとにようやく連絡があって、それでも手伝いに来ようというつもりはあったのかと少し安堵はしたものの、尋ねて来て早々にしょうもないことを言われたり線香の灰が飛んだような塵ひとつをみて、ここも拭いとかないととか気づいたなら自分で拾えば良いだけの話に【お前の両手はなんのために付いてるんや?】と内心思うものの、この人は何処まで行っても、お客様のつもりで人生を生きてるんやろなと残念におもいましたわ。
そもそも、姉のところが人様を迎えられるような家では無いからウチでという事もあるのに生活をしているような所でホコリひとつ気になると言われるのも理解に苦しむわけですが。
ただ、そんな姉でも私が死んだ際には親と一緒のところに埋葬を頼まないといけないので、死んだあとの事はわからないにしても、さすがにそれだけは家族以外に頼むわけにもいかないから余計なことは言わずにハイハイという感じですけどもね。
もちろん人生は最期までわからないものだし、その機会がいつ訪れるかもわからないものだけど。生きてる間にしか親孝行というものは出来ないものだし、家族仲良く災いが無いにこしたことは無いけれど、家族として生まれた理由というのもいつかはわかる日がくるだろうと。この世の出会いはこの世での別れも意味するものであると私は悟りましたワラよ
世の中、恋愛だの婚活だので身長がとかお金がとか、わりとしょうもない条件を相手に求めてるような人も中にはいますけど。私は別にそんなことよりも、そういう人として当たり前のことがごく自然にできるような人との縁を望みます。
テーブルが少し汚れているからといってわざわざ店員さんを呼びつけて物申さねばみたいなタイプは特に苦手ですワラ
そんなもん別に自分でサッと拭けば済むだけのことじゃないですか?神経質なら自分で綺麗にしたほうが間違いないだろうし早いしね。他に仕事をされてるような方の手をわざわざ止めたり煩わせることもないわけだから。
ネットで議論に明け暮れてるような人らも気づくだけなら誰でも出来るわけで、気づいたら率先して自ずと動けるか?どうかがその人の器を現してると私は思います。
他人からどう思われるかなど所詮本人の自己満足や肯定感に過ぎず、店員さんに感謝の意を伝えるだけのことにいちいちくだらない理屈を捏ねるよりも、ありがとうやご馳走様が自然と口から出てくるほうが人として当たり前のことかと思います。
そういう感覚というか性格といったものを身につけるには日頃から他人に対して注意深く献身的に自分の立場というものを置くことで咄嗟にとれるような判断力や行動力を養わないと、何処にいこうが自分は常にお客様のつもりで世の中を渡り歩かないといけなくなるわけです。
自分の与えられた人生をお客様気分でのうのうと送るつもりでいたならば、おそらく次の機会というものは与えられんと思いますワラ
無能というのは実力うんぬんを指すわけではなく、そうして口先だけで行動が伴わずに議論だけで賢くなっているつもりの人のことであって。まず他人の役にたとうともしないような人は論外なのではないかと思うわけですよ。
余計なお世話に過ぎないような理屈を日々タラタラと考えてはその発言機会を伺ってるような寂しい方は、まず相手から求められてるかどうか?求められるような人物たるかが抜けており、そういう人の小言ほどつまらんものは無いと思います。
なので自分ではよくやっているつもりであってもそれが報われないと感じることが多いような方などはその典型で、因果応報というのも悪いことをすればその報いを受けることだけではなく、報われるだけの善意や配慮、他人に対する感謝の気持ちを惜しんでるのではないのかと。
私は向き合う相手のそういう所を見て、その方がこれまで歩まれてきた人生なりを察するわけです。そしてこれから訪れるであろう道も見えてくるもので。ただ言うには及ばず、黙っていても理解出来る者同士ならお互い自然と察するものですから。
この人に物を頼むべきかどうかや、今後も関わっていくべきかどうかも含めて沙汰はいずれ訪れるものだと思います。
人生を伴にするような方ならなおさらのこと、人として当たり前の事が自然に出来る相手が理想であって。身内にまた【そんなんがいる】から優先順位がソコに絞られてるんだろうけど、逆にどれだけ見た目が好みだろうが、お金を積まれたとしても肝心な所がかけている方はご遠慮願うと思いますワラ
物事には器量というものは確かにあって、自分の器量を超えた事をやろうとすると失敗するのがオチというのもあるとは思います。かえって周りの仕事を増やしたり迷惑をかけたりする場合もあるだろうし。私が最初から姉に役割を振らなかったのもそのためで、別にそれで苦労したとは思わないし、そこは私の都合ですけども。今回、損得勘定とその場の感情のみで生きてるような姉がお布施を半分出しただけでも驚いたくらいで(笑)
ただ己の中に限界や罪悪感というものを持っていると、それは時として言い訳となり後々も後悔することにもなるから私は己の限界を超えていくのは当たり前だとおもうし、罪悪感を持つくらいなら精一杯の努力はしようと考えます。結果やってみたら意外と出来たというのが今日へと繋がってることもあるわけだしね。それは同じく限界を超えて生きてきた人にしかわからない話だと思う。
憧れや羨望だけで壁を乗り超えることは難しく、それしか他に道がないと腹をくくれるような人じゃないと自分の限界を超えることはまず難しいでしょう。それは方向性が違うと感じて変えた場合でも、今度はそこでどれだけ腹をくくれるかになるわけじゃないですか?
人生を終えたとき、自分の限界を超えた結果に充実というものは付いてくるものであって、創作もこれが自分の限界なんだと甘えるか、自分や読者の遥か想像を超えた話を作れるかで最終的に名作か駄作かに判断が分かれるところではないかと思います。




