環境の変化に耐えられないのは魚も私も同じ
昔調べたことがあるのだけど、アクアリウムの熱帯魚は環境が少し変わっただけで死んでしまうものも多いらしい。
温度、塩分濃度、pH、酸素濃度。
それらがほんの少し変わっただけで死んでしまう。環境の変化に敏感なのだ。
だからそれらを飼うときは細心の注意が必要で、それを欠くと大変なことになると聞く。
当時、それを知った私はこう思った。
熱帯魚って繊細な生き物なんだなあ、と。
そして今、私は思う。
コミュ障も人のこと言えなかった、と。
◆
ほんの数日前のことを想う。
一人ぼっち――まともに会話することなく一日が過ぎていたころのことを。
あの時、私はこう考えた。
何か変わらないかなあ、なんて。
……私は確かにぼっちを脱出したかった。
何も変わらない毎日が辛かった。
しかし、しかしだ。
変わりすぎるのもそれはそれで困るのだ。
いきなり奴隷ができるなんて、色々と変わりすぎている。
しかもこの間一日や二日。
たったそれだけだ。急激な変化に私の貧弱な環境適応能力は悲鳴を上げている。
気になる女の子ができて、仲良くしたいな……と思っていたら、気付いた時には結婚式を挙げていたような気分だ。
半年前にこの世界に来た時も混乱したが、あの時は半分以上夢だと思っていたし、現実だと確信したときにはこの世界で生きる基盤が出来ていた。
でも今回は違う。
突然、それも半強制的に苦手分野が必要となった。
奴隷なんて……どうすればいいのか訳が分からない。
日本にいた時読んだ小説的には喜べばいいのかもしれないが、現実的にはそう簡単にはいかないだろう。
無邪気に奴隷という名の友達や恋人が出来ました!
……なんて言うには私は人生を重ねすぎている。
無条件で部下から慕われるのは主人公だけの特権だ。
他でもない私でさえ、すでに社交辞令と上司に対する愛想笑いを覚えているのだから。
「……はあ」
そんなことを考えながらため息を吐いた。
白く染まる息が視界の端に見える。窓から空を見ると朝日がまぶしく輝いていた。
今は早朝。
あれからすでに一日明け、主生活二日目になる。彼――ルートからすると奴隷生活二日目だ。
「……」
どうして時間というものは困っているときに限って早く過ぎるのか。
そんなことを考えたり一人反省会をしているうちに夜が明けてしまった。
彼の準備も進んでいて、昨日一日で彼の住む場所や着る物も昨日のうちに用意されている。とは言ってもお金を渡して必要なものを用意するように指示を出しただけなんだけど。あとは彼が一人で何とかした。
「おはようございます、ユース様」
「あ、お、おはようございます」
後ろから突然かけられた声に驚く。
振り返ると彼が立っていた。その顔は昨日と同じ柔和な笑顔を浮かべている。
「待たせてしまったようで申し訳ありません」
「い、いや、いいんです。私が早く来ただけですから」
時間的にはまだ予定の時間になっていない。
というか一時間ぐらい余裕がある。お腹の中がぐるぐるして落ち着かなくて、気が付いたら待ち合わせ場所に来ていた。
「き、気にしなくていいですから。その、それより昨日はよく眠れましたか?」
「はい、おかげさまで。奴隷である僕に良くしてくださり、ありがとうございます」
彼にはこの宿の別の部屋が用意されている。
馬小屋という手もあったそうだが、それはさすがに可哀想だ。それに馬糞臭くなりそうで一緒に歩きたくない。
「……しかし、ユース様。昨日も申し上げましたが奴隷に敬語を使うのは止めたほうがよろしいかと……」
「……あ、そうでし……えっと、そうだ、ね」
言われて思い出す。そういえば奴隷に敬語を使うのはトラブルを呼ぶので止めたほうがいい――昨日、そうルートに言われたんだった。
よく分からないがこのあたりではそういう文化があるらしい。
文化は大事だ。郷に入っては郷に従わなければならない。無視すれば村八分になったりそれ相応のしっぺ返しがあると相場は決まっている。学校や職場でハブられていた私が言うんだから間違いない。
それで昨日から意識して敬語を使わないようにしているのだけど……正直あんまり上手くいってなかった。
「準備はいいで……いい?」
「はい、大丈夫です。いつでもいけます」
つかえながらもルートに確認する。
今日はこれから迷宮に入ることになっていた。
準備は昨日だけで済んだし、他にすることもない。色々物を買いなおしてお財布も薄くなったので早速だ。
……それに仕事中なら余計なことを考えないで済むし。
現実逃避とも言えるかもしれない。
「……じゃ、じゃあこれから迷宮に行きま……行くことにしま……行く……行くの!」
「はい。よろしくお願いします、ユース様」
無理やり口調を変えたせいで変な語尾になってしまったが、意味は通じているのでいいことにする。
ため口を使うのは私にはなかなか難しかった。
なにせこれまでの人生でずっと敬語を使っていたのだ。
それこそ高校を卒業して家から追い出されるように出てからずっと。
上司や同僚はもちろん、部下にも敬語を使って話していた。
もう癖になってしまっている敬語をいきなり変えようとするのは大変だ。
口調が変なことになってしまうのも仕方ないだろう。
食堂の扉を開き、彼を引き連れて玄関へと移動する。
カウンター前にはもう看板娘が立っていて、箒を手に掃除をしていた。
「行ってらっしゃーい」
「はい、行ってきます」
笑顔で手を振ってくれた看板娘さんに返事をしたのはルートだ。
昨日知って驚いたのだが、この男、コミュニケーション能力がとても高い。
穏やかな笑顔を浮かべていて、優しい感じの声で話す。
当たり前のように看板娘――人と親しい関係を築いていた。
普通、ほんの二日前に自分の職場に大穴をあけた男に笑顔で挨拶できるだろうか?たとえ賠償されることが決まっていても、である。
実際、彼が昨日このホテルに来たときは彼女も眉をひそめてルートのことを見ていたのだ。何故かその日の晩にはこんな感じになっていたけど。
私なんかとは格が違うコミュニケーション能力。
挨拶されてもぼそぼそと返すだけの私とは違う。
笑顔ではっきり挨拶をするのは社会人の基本だ。
彼はどう見ても立派な大人だった。私より年下っぽいのに。
「……」
本当にうまくやっていけるのかなあ。
疎外感を感じ、思わずそんなことを考えてしまう。
生きる世界が違うのだ。人種が違う。
具体的に言えば陽キャと陰キャの差。
そうそう交じり合うことのない二つの世界。
空を飛ぶ鳥と水底に住む虫。
「……はあ」
先行きが不安で仕方なくて。
何度目かのため息を私は吐いた。
待ち合わせの一時間と十分前
ユース(不安だなあ)うろうろ
看板娘(ルートさんにもう待ってるよって伝えたほうがいいかな)




