07●“大正時代の夫婦”の謎……時をかける老女
07●“大正時代の夫婦”の謎……時をかける老女
ポニョの魔法力の暴走が引き起こした大津波と、家の玄関すれすれまでの満ち潮。
宗介君の家の周りは膨張した海水に囲まれ、孤立状態。
宗介君とポニョは、魔法でスケールアップしたポンポン船に乗って、リサの捜索に出航します。
デボン紀の魚を愛でつつ進むと、そこに一艘の川船。
川船には若い夫婦。妻は赤ん坊を抱いています。(FC4巻40-59)
これが巷で“大正時代の夫婦”とされる、作品中で最も謎めいた人物です。
物語の前後の脈絡なく、唐突な登場。
尖った舳先が突き出した、クラシックなデザインの、木製の川船。
そして、作品世界の西暦2007年のものとは思えない、二人のレトロファッション。
正体不明です。
何故、この場所にいるのか、なにひとつ説明がありません。
かといって、全くの通りすがりの扱いではなく、母親が赤ん坊に与えるお乳の助けになるようにと、ポニョが川船の母親にスープやサンドイッチをプレゼントするなど、意味ありげなエピソードが展開します。
しかしそれだけで、のちにこの夫婦が再登場することはありません。
気になりますね。
できる範囲で、“大正時代の夫婦”の正体を推理してみましょう。
まず、噂の“大正時代”が正しいかどうかです。
この夫婦が大正時代の人物であることは、劇場公開時のパンフレットに表記されていたということですから、それで正しいと考えられます。
戦前から使われていた古式ゆかしい川船。
夫婦のいでたちのレトロファッションぶり。
見た目は、大正時代の人たちということで、おかしくありません。
目の前の海面を進んでゆく避難船団を見て、母親が「よかったわ、みんな無事かしら」(FC4巻53)と囁くことから、夫婦の二人はピクニックなどではなく、何らかの災害から避難するために、ここで川船に乗っていると推測されます。
そしてもうひとつ、夫婦の時代を推定する手掛かりは……
母親が、粉ミルクを用意していないことです。
通常、乳飲み子の赤ん坊を連れて外出する時は、粉ミルク……最近は液体の育児用ミルクもありますが……を用意して、哺乳瓶に入れて持ち歩くものです。
乳児を持つ母親は、避難時にまずこれを最優先で携帯するでしょう。
しかしこの母親はそれが念頭にないようで、ポニョが差し出したスープを飲んで「わたしが飲むとおっぱいになって、赤ちゃんが飲めるのよ」(FC4巻50)と、母乳オンリーの授乳を前提として語ります。
普通この時、“粉ミルクを切らしちゃったから”とか、一言触れてもよさそうなものです。
急な災害で、川船に乗った際に慌てて忘れたのかもしれませんが、それにしては、日傘を持ち、バスケットや大きな風呂敷包みもあります(FC4巻42)ので、用意周到です。
粉ミルクがあったら、たとえ粉のままでも持ってきたと思われます。
なにしろ、母乳か粉ミルクしか摂取できない赤ん坊にとっては、死活問題です。
しかし母親は、粉ミルクを話題にもしません。
そういうことです。
和光堂が開発した、国産第一号の育児用粉ミルクが市販されたのは、西暦1917年のことでした。
川船に乗った“大正時代の夫婦”は、おそらく、このことを知らないのです。
ともすれば、粉ミルクの存在そのものを知らないのかも。
とすれば、この夫婦が実在する年代は、大正元年の1912年から、粉ミルクが発売される大正六年、西暦1917年までの範囲であろうと思われます。
さて、川船に大きな風呂敷包みまで積み込んでいることから、夫婦の二人は、災害からの避難中であろうと思われます。
住宅が浸水したので、安全な陸地を求めて移動中なのでしょう。
ならば、前述した1912年から1917年の間に、そのような津波災害が実際にあったのでしょうか?
ありました。
“大正六年の高潮災害”もしくは“大正六年の大津波”と呼ばれるものです。
東京湾の満潮時に台風が襲来、高潮に豪雨が加わって、東京府の沿岸区域や隅田川周辺、千葉県の沿岸部に甚大な浸水があり、一時的に海の一部となりました。塩田が復旧不能の全滅、横浜港では三千百隻以上の船が転覆したとか。
死者・行方不明者は1301人に及んだと伝えられます。
その日付は西暦1917年9月30日。
たぶん、これではないでしょうか。
粉ミルクはまだ広く普及するには至っていないでしょうから、夫婦が粉ミルクを知らなくても矛盾しません。
二人は、“西暦1917年9月30日、東京湾の高潮災害から避難するところ”だと推定します。
とすると二人は、西暦1917年から、90年後の2007年へやってきたことになります。
まさに“時空を超えて転移してきた”ことになるのですが、それができる手段は……
やはり“魔法”しかないでしょう。
作品中で、魔法が使えるのは、グランマンマーレ、フジモト、ポニョの三者です。
グランマンマーレとフジモトはこのたびの魔法暴走事件を収めるために行動しているのですから、見知らぬ余計なものを大正時代から転移させるとは思えません。
とすれば、犯人はポニョ。
彼女がこの夫婦と赤ん坊を、西暦2007年に召喚したと考えられます。
呼んだのは、ポニョだったのです。
この夫婦の二人は、年齢が二十代と仮定しても、2007年には百十歳以上になりますから、ほぼ、すでに亡くなった人と考えていいでしょう。
とすると、2007年時点では、おそらく幽霊です。
しかし、赤ん坊は、乳飲み子の零歳児です。
西暦2007年では九十歳。
こちらは幽霊でなく、存命の可能性があります。
どこで?
“ひまわりの家”で。
赤ん坊の性別は、見ただけではわかりません。
青いベビー服ですが、白い襟に、赤いお魚の刺繍かアップリケが施してあり、女の子ということも十分に考えられます。
なお、白い襟の赤いお魚は、赤いポニョとの出会いと運命的なつながりを暗示しているのかもしれません。
この赤ん坊は、“ひまわりの家”のおばあちゃんたちの一人である可能性が、否定できなくなります。
さて、この“大正時代の夫婦”は、ポニョが、“世界に大穴を開けた”魔法で召喚したと考えられます。
数億年も昔の海を召喚したのと同じ魔法で、わずか90年前の夫婦を召喚したのですから、そのギャップは大きいですが、“時空を超えた転移”という点では、同じ種類の魔法なのです。
なぜ、この二人を呼び出したのでしょう。理由があるはずです。
憎たらしいから呼び出してボコってやろう、とか、人がよさそうだから詐欺のカモにしてやろう……とか考えるのは、邪まな大人の悪業です。
ポニョは純真な子供ですから、そんな動機はあり得ません。
お礼を言うか、お詫びを伝えるため……といったところでしょう。
ポニョがそんな関係にある人物は、どこにいるでしょうか?
ポニョが宗介君たちの世界に現れて、かかわった人間は、限られています。
宗介君とリサの他には、ポニョが口から水鉄砲をかました、クミコちゃんと……
トキさん。
1917年時点で零歳児だったのは、もちろんトキさんだと考えられます。
宗介君は、クミコちゃんに対してはわりと冷淡というか、「ポニョの悪口いうからだよね」(FC1巻115)で片付けてしまいます。
しかしトキさんに対しては、ポニョを人面魚扱いして散々けなしたのが原因とはいえ、悪いことをしたと思っています。
あとで、船の折り紙を差し上げる場面(FC2巻124-125)があり、お詫びの気持ちを表しているようです。
そういった事情を、宗介君の態度から、ポニョも感じ取っていたのでしょう。
“水をかけちゃって、ごめんね”とお詫びしようと考えて、ポニョはトキさんを魔法で呼び出したのです。
なぜ、現在のトキさんに謝らず、90年前の赤ん坊だったトキさんに謝ろうとしたのか。
ポニョなりの、お詫びの仕方だと思います。
トキさんがこれまでの人生で、最も助けを必要としていたときに助けてあげることで、お詫びをしようと考えたのではないでしょうか。
2007年現在のトキさんにお詫びしようとしても、またまた人面魚呼ばわれされて、パニックを再現するだけでしょうから。
そして、1917年の災害の時点で、粉ミルク無しで川船に揺られる状態の零歳児、トキちゃんは、このままだと命の危険に直面するはずです。
母親の母乳が出なくなったら、著しく健康を害したでしょう。
だからポニョは、母の体内で母乳に変わる食糧を、母親にプレゼントした……と考えられます。
それにしてもこの夫婦、大災害から避難しているにしては、ずいぶんと落ち着き払っているところが、不思議です。
オロオロしていません。
しかし考えてみると、生死を分ける切迫した状況から脱出したところであり、そこでふと気が付けば、不思議と穏やかなデボン紀の海にいたのですから、“ここはどこ、私はだあれ?”状態です。
狐につままれたような気分。しかし魔法のオーラに包まれた空間でもあり、危険は感じません。
ともあれ、ほっとして一息ついたはず。
だから、気分的に落ち着いていたのでしょう。
ようやく、赤ちゃんの食事の心配もできるようになります。そこで……
母親が、母乳を確保しなければならない現実に直面するところだったのです。
ポニョは自分の魔法力を使って、トキさんに対して、時空を超えた、最も効果的な“お詫び”をしたのです。
母乳を授けることは、人が代々、“体内の太古の海”を引き継いでいく営み。
それはすなわち、この地球に最初の細胞が発生してからのたゆまない“生命の輪廻”にポニョが能動的にかかわったのだ……とも言えるでしょう。
トキさんのキャラ名は“時”にかけていたのかもしれませんね。
いわば、“時をかける老女”。(なんちゃって……)
しかし、まだいくつかの謎が残ります。
トキさんがポニョを見たときに発した「人面魚が浜にあがると津波が来るんだ」(FC1巻125)の言葉の意味。
宗介君が、他のおばあちゃんたちとは違う、“船の折り紙”を渡した理由。(FC2巻124-125)
そして、“大正時代の夫婦”の母親が「だれかと思ったら、宗ちゃんね」(FC4巻43)と呼びかけて、明らかに90年前の人なのに……ただし現在は幽霊……が、宗介君のことを親しく知っていたこと。
それらを説明できる仮説は、結論から述べると、次の通りです。
“トキさんは、宗介君の父親である耕一の祖母……実のおばあちゃん……だった”のです。