06●“海なる母”の謎……内なる海からの誕生
06●“海なる母”の謎……内なる海からの誕生
『ポニョ』には、人智を超えた巨大スケールの神様が堂々と姿を現します。
世界の自然の摂理を代表するかのような、女神グランマンマーレ。
彼女は、どんな女神様なのでしょうか。
過去のアニメ作品を振り返ってみましょう。
『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)、『未来少年コナン』(1978)、『風の谷のナウシカ』(1984)、『もののけ姫』(1997)では、文明を建設するために大自然の摂理を破壊する人類と、それに抵抗する悪魔や、あるいは人類の環境保全勢力との対立や相克が描かれていました。
人類は、悪魔も神も恐れることなく、“地上の凡てを従える傲慢な征服者”の側面を見せています。人類と神は対立し対峙する関係にあります。
一方、『となりのトトロ』(1988)では、大自然は人類を包み込む神秘的な空間であり、人類を否定しない好意的な存在となります。その象徴として登場した未確認生物トトロは、道祖神を思わせる、素朴な自然神とも言えるでしょう。
次に『千と千尋の神隠し』(2001)。
湯屋に集うどこか世俗的な神様たちからみて、人類は穢れた存在であり、無力でひ弱な、のけものにすぎません。しかし現世でなした善行の結果、主人公を守り助けてくれる神様も現れます。
この二作はいずれも、主人公が十歳前後の少女。
少女の目からみて、神様との関係はこうありたい……という願いが具現化されていると見ることもできるでしょう。
人類と大自然、その上位にあってみそなわす神様、この三者の関係が、さまざまな視点でとらえ直されてきたことに気付かされますね。
そして『ポニョ』では……
これまでの作品の未解決の葛藤を一挙に打開するかのような、究極的な神様……女神グランマンマーレが登場することになります。
彼女は“海なる母”。
すべての海洋を統べる女神。
彼女はおそらく、過去・現在・未来を問わずあらゆる海という海そのものなのでしょう。
それは、慈悲深い神です。
人類の愚行に怒り、激しい怒りもて罰する大魔神のような、“荒ぶる神”ではありません。
グランマンマーレは、人間になりたいと願うポニョ……本名はブリュンヒルデ(DVD字幕ではヴリュンヒルデ)……と、ポニョが大好きになった少年・宗介君に最終的な解決をもたらします。
しかし、そこには“ポニョと宗介の合意、そして魔法の時間が終わること”のほかに、これといって将来拘束的な条件も取引も契約も強制されません。
人類に命令も処罰もしない、“無邪気な自然神”なのです。
宗介とポニョも、一切の疑問も不和もなく、無邪気なほど素直に、神様の解決を受け入れます。
人類と神様の関係とは、本来、そういうものなのだ……と、作品が語っているのではないでしょうか。
グランマンマーレは慈悲の女神でもあります。
その証拠に……
ポニョが魔法力の暴走でもたらした、月が近づき、海が盛り上がる大異変。
未曽有の大災厄であるにもかかわらず、なぜか、人類の犠牲者は皆無のように見えるのです。
怪我人は出たかもしれませんが、死者は出ていないようです。
まるで船祭りのように、意気軒高に避難する人々。(FC4巻51-61)
人の死を悲しむ様子は見受けられません。
“子供向け”作品なので、人の死があっても画面から隠す演出方針かもしれませんが……
ここはひとつ、グランマンマーレがその偉大な魔法力で奇蹟をもたらした……と考えたいものです。
グランマンマーレが、災害で死に瀕した人々を救ってくれたのです。
ここで“都市伝説的な解釈”として、“津波で登場人物は全員死亡。それ以降の物語は死後の世界の出来事だ”とする解釈があると聞きます。
それも否定はしません。あり得る展開です。
しかし、“みんな死んじゃった”という結論はいわば“夢落ち”と同様ですし、その時点でポニョの“人間になりたい”願いは、悲しみの中に閉ざされたことになります。
“あの世”で人間になれても、それは幸せな結末と言えるかどうか?
“子供向け”作品として、そこまで“救いのない”終わり方はいかがなものか……
ということで、“みんな死んじゃった”説は、いちおうここでは、横に置いておくことにさせていただきます。
決して、否定はいたしませんが……
本稿では逆に、“みんな生きています!”説に準拠して、論を進めてまいります。
ではなぜ、グランマンマーレは、今回の災厄で人間を死なせなかったのでしょうか?
まずは、災厄のそもそもの原因が、愛娘のポニョことブリュンヒルデの衝動的で無謀な行動にあったということ。親としての責任ですね。
人類の側に落ち度はなく、死ぬべき理由がないからには、死なせないようにしよう……という判断だと思われます。
グランマンマーレの配慮で、人々は死を免れました。
そう考えてよいのではないでしょうか。
そしてもうひとつ、グランマンマーレが、やみくもに人を死なせたくない理由があります。
彼女は愛する夫フジモトに、こう語っています。
「あら、わたしたちはもともと泡から生まれたのよ」(FC3巻142)
グランマンマーレ自身、海の泡から生まれた。
そして夫のフジモトも、人間たちも、そのほかこの地球のありとあらゆる生き物たち、動物も植物も、魚も虫も細菌類でさえも……
みんな、はるかなはるかな太古の昔に海の泡から生まれたグランマンマーレの子孫。
そういうことです。
グランマンマーレは生きとし生けるもの全ての母。
生きとし生けるもの全てはグランマンマーレの愛すべき末裔たち。
だからいかに人類が愚かであったとしても……神罰を加えるのは忍びないのです。
なにもかもが、母である自分の子供たちの子供たちの子供たち……の子供たち、なのですから。
だれもが、泡から生まれた。
どういうことでしょうか。
地球の誕生は今から46憶年昔のこと。
生命が誕生したのは38億年昔の海であるとされています。
原始の海に出現したのは、単細胞生物。
この細胞は、海中の泡を母体に形成されたようです。
海水の中に、泡ができて、泡がその内側と外側を隔てることで、内部に遺伝子を格納することができたわけです。
しかし、まったく一様で静まり返った海だとしたら、泡は発生しにくいものです。
海洋に様々なエネルギーが加えられて、海水がゆらぎ、攪拌されることで、泡ができては消え、またできていきました。
そのエネルギーとは、気圧の変化や風による波立ち、さらには海底火山の爆発や隕石落下による熱量と衝撃、そして……
潮汐力です。
月の引力、地球の自転による遠心力、そして太陽の引力があいまって、海洋に潮の満ち引きをつくりだし、無数の泡を生み出すきっかけの一助となったはずです。
だから、海洋神グランマンマーレは、潮汐力を操る神でもあるのでしょう。
万物に働く、天体の引力と遠心力、それを利用して、彼女はこれまでにも、無数の生命をこの地球にもたらしてきたはずです。
みんなが、いわばグランマンマーレの愛すべき赤子。
人類も、ありがたいことに、その一部に加えてもらっているようです。
にしても、海を泳ぐ魚ならともかく、なぜ陸上生物の人類までも、グランマンマーレの母性愛の対象に含まれるのでしょうか?
なぜならば……
人もまた、海の一部。
人間の体内にも、海があるからです。
内なる海が。
人体の成分は六割以上が水で、その血液を含む体液には、人類の遠い祖先が海から陸に揚がって生活を始めたときの海水の塩分濃度が、今も保持されているといいます。
それが本当かどうか、私(筆者)に科学的な証明能力はありませんが……
人は体内に、今も太古の海をたたえている……という考えには、とても共感します。
としますと……
太古の海で、あるとき必要に迫られて、一部の魚が陸に上がって生活を始めました。
3憶6千万年ほど昔のことといいます。
思えばとんでもない年月ですが、それだけの時を経て、私たち人類の今があることも確かです。
3憶6千万年の歴史が、細胞の中に秘められている。
私たち人類の祖先が、火を使い始めたのは、わずか50万年ほど昔といわれていますから、ざっくりと纏めれば、とにかく三億数千万年かけて、“魚が人になれた”ということですね。
そんな、私たちの体内に、まだ、太古の記憶を宿した海が波打っているというのです。
さて人間は、母親の胎内から、“十月十日”の出産期間で生まれてくると申します。
お母さんのお腹の中にも、羊水というものに満たされた“太古の海”があるのですから、いわば、三億数千万年前の記憶をたたえた“母の中の海”で、細胞が育つことになります。
そのさい、ひとつの細胞から赤ちゃんの姿に成長する間、その肉体は、太古の海の魚から人類に至るまでの、三億数千万年の進化を、ひととおりなぞるように、変身しているのだ……とも言います。
まるで、録画した映像の早送りのように。
三億数千万年の進化を十月十日に圧縮して、私たちは生まれてくる。
体内に、太古の海をたたえたまま……
『ポニョ』の物語の中で、ボートに乗った母親が赤ちゃんを抱え、母乳を与えようとする場面があります。(FC4巻45-59)
前後の説明がなく、唐突で違和感のある場面に見えますが……
周囲に広がる太古の海、その中で、太古の海を体内にたたえた母が、やはり太古の海を体内に宿らせた赤ちゃんにお乳を上げる……と考えれば、すんなりと理解できます。
赤ん坊が母親のお乳を飲む行為は、免疫機能だけでなく、太古の海を母から子へ引き継ぐ意味もあるんですね。
そしてこのお母さんを、そのまたお母さんのお母さんへ……と、はるかにさかのぼれば……
行き着くのは、海なる母、グランマンマーレ。
人はそもそも海の一部であり、同時にグランマンマーレの一部でもあるということが、これで納得できますね。
魚のポニョが“人間になりたい”という願いも……
人が、“内なる海”を自覚して、“外なる海”と真摯に語るならば、答えはおのずと出てきますよ……と作品は語っています。
悩むような問題じゃないよ。人間も魚も、もとは同じなんだからさ……と、ポニョことブリュンヒルデは教えてくれるのです。
さて、ポニョは結局、魚のままでいるか、人間になるのか……
アンデルセンの原作童話ですと、魚と人間の狭間に引き裂かれて苦しみますが、ポニョはそうではありません。
『崖の上のポニョ』の結末に、自然界と人類文明の相克はなく、神様と人間の対立もないからです。
ポニョ自身の心にも、人間になるか魚のままでいるべきか、それが問題だ……式の苦悩はみられません。
人類と魚類、この異種間結婚は重大なタブーであり、その禁忌を破るためには罪深い魔法を使い、それゆえの罰が課せられる…という、西欧型人魚姫と、『崖の上のポニョ』は根本的に世界観が異なるのではないかと思います。
だから、ためらうことなく……
ポニョは一瞬で、人間になれます。
三億数千万年の歴史を、一瞬に圧縮し、一足で飛び越えて……
人間の子供として、この世に誕生します。
見事なほど無邪気で明瞭な解決が、ここに提示されています。
素直に考えよう。悩むことはないじゃないか。
三億数千万年を背負って、一瞬で誕生した新しい命、この誕生を祝福しよう。
作品のラストシーンから伝わるメッセージは、ものすごくシンプルでハッピーです。
“誕生を寿ぐ我らは、幸いなるかな”
これは、神の声に近い……と思います。
1968年の『太陽の王子ホルスの大冒険』以来、日本のアニメの歴史の一脈を形作ってきた“人類と大自然と、神様の対立関係”の課題に対して、“無邪気な自然神”であるグランマンマーレがもたらした、かなり決定的な答えが、これなのだと思います。
自分自身の中にも、太古の自然が宿っていることを知り、その“内なる自然の声”を聴く耳を持ちさえすれば、最も良い生き方が見えてくるはずだ……と。
それが正しい道であるか否かを計るバロメータは、とてもシンプル。
“新しい命の誕生を、心から祝えるかどうか”……なのです。
以上が、“海と、月と、誕生”をかぎりない美しさで描き上げた『崖の上のポニョ』が、ラストシーンで私たち観客に残したメッセージであると思うのですが、いかがでしょうか?
人類と大自然が対立する方程式に、“神様”の項を導入することで、『崖の上のポニョ』は見事な解を見出したのです。