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11●おしまいに、“可逆と不可逆”の謎…そして“愛の讃歌”

11●おしまいに、“可逆と不可逆”の謎…そして“愛の讃歌”



 リサを捜して“山の上ホテル”方面へ向かう宗介君とポニョ。

 目の前にトンネルが現れます。古ぼけて謎めいたトンネルです。

 “山上隧道”(FC4巻100)というトンネルは幅が一車線で、途中で車両が擦れ違うことができません。

 このトンネルを歩く途中、ポニョに異変が現れます。

 人間の少女から半魚人に退化し、出口近くでは人面魚に戻り、しかも子宮の中の出産前の赤ちゃんみたいに、ウトウトと眠りについてしまいます。

 出口には、フジモト氏が待ち構えています。

「ポニョは寝たままにして、そっといこう」(FC4巻112)と誘うところから、このトンネルは、フジモト氏がポニョを捕まえるトラップとして利用したことが推測されます。

 リサを捜す宗介君とポニョは、必ずこのトンネルを通ると予測して、ポニョが通過すれば魔法が一時的に解除されて眠りにつくように、呪いをかけておいたのでしょう。

 そうすることでトラブルを避けて、海底の“ひまわりの家”に宗介君とポニョを連れて行く算段でした。


 もうひとつ、このトンネルの解釈として、“出産時にくぐる母親の産道”を暗喩しているという説があります。

 それも正しいと思います。

「ここ、通ったことあるよ」(FC4巻100)と宗介君がつぶやきますが、それは、以前リサに連れられてきたことがある……と解するか、あるいは自分が生まれるときに通った産道と同じだという意味か、両方にとれるからです。

 いわば、宗介君とポニョは産道を逆行したわけで、そのため、ポニョは人間から魚へと退行したと考えられます。

 子宮の中で精子を受け入れた卵子が着床し、細胞分裂を始めてから、おおむね十月十日とつきとうかの妊娠期間を経て出産に至りますが、この間、細胞は魚類から人類までの進化の過程をフルスピードで再現すると言われます。

 そのプロセスを、トンネルの中でポニョは超特急で巻き戻し再生したことになります。

 そうすると、トンネルの先は……母親の子宮です。

 羊水に満ちた、平和な世界。

 このあと、宗介君とポニョが連れていかれた海底の“ひまわりの家”がそうですね。

 半透明のドームにつつまれた中は、液体が満ちているのに呼吸できる、不思議な空間。

 おそらく、羊水と同じようなものでしょう。

 どことなく、エヴァのLCLみたいなものかもしれません。

 そこでポニョはグランマンマーレの力によって手のひら大の泡にくるまれ、今度は人間として新たに誕生する準備をしたわけです。


 トンネルは、“ポニョが人間として再誕生するための子宮へ至る、産道”。

 そう考えてもいいかと思います。


 そしてグランマンマーレからの“神聖な試練”を受ける宗介君とポニョ。

 立会人のおばあちゃんたちは、もともといた六人に、トキさんが加わって七人。

 七人の小人ならぬ、七人のおばあちゃんですね。

 当事者の姫君はポニョ、そして王子様は宗介君。

 女王様はリサ。

 魔法使いの役はグランマンマーレ。その執事はフジモトでしょうか。

 絵に描いたような、メルヘンの王宮シーンが現出したわけです。大団円ですね。

 “子供向け”にふさわしい、上出来の演出だったと思います。


 にしても、振り返ってみれば、“ひまわりの家”も“ひまわり幼稚園”も、実は異様なほど、男性の姿が見られません。

 おじいちゃんや、宗介君以外の男もいるはずなのでしょうが、背景にすら登場しません。

 不思議と言えば不思議ですが、たぶん演出上の工夫でしょう。

 『ポニョ』は本来“子供向け”のメルヘンです。

 だから、子供の視点からみて余計な“大人の事情”は説明を一切カットしています。

 同じ理由で、作品で訴えたいテーマにとって、耳障りな雑音になるような登場人物は、バッサリとカットされたのでしょう。

 普通のデイケア施設なら、爺さん連中もいて、グランマンマーレの美貌にいかれて周りを取り巻いたり、サインを求めたり、携帯で撮影して写メで送ろうとザワついてもおかしくありませんが、物語の本筋を見えにくくさせる、それら余剰物は完全カット……ということになったのでしょう。

 幼稚園の男の子にしても、登場してポニョを宗介君と取りあうことにでもなったら、これも本筋から外れた余剰な場面ができてしまいます。


 いるべきところに男性が見られないのは、考えてみれば多少不自然とはいえ、“作品”の完成度を確保するために、妥当な処置だったと思われます。


 そして物語の最後の最後の一瞬で、ポニョは五歳の女の子として誕生します。

 このとき、意味深なのは、キスしたのは宗介君でなく、ポニョの方からだった……ことですね。

 伝統的な西洋風メルヘンの世界では、キスはたいてい王子様の方からいたします。

 しかし『ポニョ』では、姫君……女性の側からのキスで、幕を閉じます。

 とはいえ『ポニョ』の場合は、女性だから……というよりも、“生まれてくる側”からのキスだと解釈したいと思います。


 赤ちゃんを授かるとき、周りの大人たちは、“これは望まれた出産なのか、望ましくない出産なのか?”などと、神様が不機嫌になりそうなことを思いめぐらすことがあります。

 実際、生まれる前に出産を止めてしまう、堕胎、という悲劇が起こりえないとはいえません。

 合法、非合法それぞれのケースがありますが、大人の勝手な事情で、望ましくない出産を回避してよいものか、倫理上の問題を完全に否定することはできません。

 可能な限り、あって欲しくないことですが、さまざまな大人の事情で、どうにもならない場合もあるというのでしょう。

 また、生まれたのちに親族から虐待を受けて命を落とす事件が、しばしば報道されています。

 “お前は生まれるべきではなかった”と、周囲の大人が宣告したようなものです。


 しかし、“生まれる”とは、本来は、そういうものではない……と、物語の最後に誕生するポニョは告げています。

 生まれるかどうかは、周りの他人が決めることじゃない。

 生まれる子は、生まれたいから生まれてくるんだよ……。

 そして生まれてしまったら、もう、後戻りはできないんだ……と。


 『ポニョ』の物語の大半の部分で、ヒロインのポニョは、魚と半魚人と人間の少女の姿を、自由に行き来してくれます。魔法の力です。

 魔法の力が効いているうちは、ポニョは魚のままでいるか、人間になってしまうのか、最終決定をしなくても構いません。

 魔法の力さえあれば、ポニョの魚から人への“進化”は“可逆的”なのです。

 いつでも、後戻りができます。

 しかし、最後にキスをして、人間になった瞬間……

 魔法の力は消え、ポニョの少女としての“誕生”は、後戻りが一切効かなくなります。


 魔法は“可逆”を可能にしますが、現実は“不可逆”なのです。


 そして“誕生”とは、“不可逆”の現実なのです。


 リサとグランマンマーレは、“ひまわりの家”の庭で、何を語り合ったのでしょうか。(FC4巻97-98)。

 ポニョが五歳の女の子として誕生したら、人間の大人のだれかが、育ての親とならなくてはなりません。

 グランマンマーレはそのことをリサに依頼し、今後の対応……例えば、かぐや姫みたいに、生みの親から仕送りすることなど……を打ち合わせし、そして確認したのでしょう。

 “人間のポニョが誕生したら、あともどりはできませんよ”……と。

 リサは心から、その現実を承諾したのでしよう。


 生まれる、とは、そういうこと。

 必要、不必要ではなく、自分の意志で生まれてくるのです、運命の力によって。

 それは不可逆。

 その状態を喜べるか否か、それが私たちの幸福と不幸を分けるのでしょう。

 “誕生を寿ぐ我らは、幸いなるかな”……。


 人の身体の六割は液体です。

 人はみな体内に“内なる海”をたたえ、天体の潮汐力の影響を受け続けています。

 それはまた、大自然のエネルギーを、潮汐力という形で、受け入れることでもあります。

 恐縮ですが、女性の生理に関わる“月経”や“初潮”といった言葉は、出産というものが人為的な作業ではなく、月、そして海という大自然の摂理の現れであることを示しているのでしょう。


 ヒトが生物の一種として子孫を残していくことは、天の定めなのだと。

 だから……


 生まれた以上、リセットはできない。

 リセットすることは、生まれた子を殺すことになる。

 私たちにできるのは、生まれた子を愛することだけだ。

 後悔せず、喜びをもって、ただ前に進もう。


  “誕生は不可逆である”……これは神の言葉なのだから。


 それがおそらく、『ポニョ』が観客に伝えるラストメッセージです。

 かなり重たいメッセージですが、『ポニョ』が最終的に大人の観客に伝えたかったのは、そういうことではないでしょうか。


 しかし、ただ伝えっぱなしではなく……

 『ポニョ』は大人の観客に対して、明るい救いの場面を用意してくれました。(FC4巻149)

「リサ、ありがとう」

「あなたも、グランマンマーレ!」

 神と人、それぞれの“母親”としての、爽やかな共感。


 そして作品のキャッチコピーは“生まれてきてよかった”……


 本当に、素晴らしい作品だと思います。


       *


 本稿は、『崖の上のポニョ』の本編および映画パンフレットを素材にしました。

 映画を観た、一観客としての感想を記述したものです。

 したがいまして、その他、宮崎駿監督のインタビュー記事や関連動画等は参照しておりません。

 その旨ご了承下さい。


       *


 『崖の上のポニョ』の作品制作にかかわった方々に対しまして、

 本稿の中に失礼な点がありましたら、心よりお詫び申し上げます。

 何卒お許し下さいますよう……


       *


 蛇足、かもしれませんが、ひとつ古い映画をご紹介します。

 『愛の讃歌』。

 1967年公開、山田洋次監督作品。

 舞台は、瀬戸内らしき海に浮かぶ小さな架空の島、日永島。

 たぶん“ひながじま”と読むのでしょうか。

 のどかな海を行き交う内航貨物船は、『ポニョ』の小金井丸にそっくりです。

 そして島の高台に、ぽつんと白い柵に囲まれた診療所。

 そこに住む、ひとりものの中年医師。

 医師は、船着き場の店で働く、ある娘を気にかけています。

 親は無く、二人の妹をかいがいしく育てる彼女。

 愛する青年はいるものの、ブラジル移民で一旗揚げる夢に憑りつかれています。

 青年が海の彼方へ旅立った日、彼女は身ごもるのですが……


 『ポニョ』の舞台を実写化したかのような映画です。

 ヒロインを演じる倍賞千恵子さんの、内面からにじむ美しさが光ります。

 小さな島のちいさな港町で、新たな命の誕生と、それにまつわる人間模様。

 世俗的で、どこかおかしく、人情味あふれる、ほほえましい傑作コメディです。

 DVDで観られます。

 どことなく、『ポニョ』と世界観のムードが通じているようで……

 21世紀の映画では味わえない、不思議な、ほのぼの気分にひたれるお話です。


 原作はフランスの国民的作家マルセル・パニョルの戯曲『ファニー』。

 港町に暮らす娘ファニーは、船乗りの青年を愛しています。

 青年が長い船旅に出てから、彼の子を身ごもったことを知るのですが……

 その後生まれる男の子と、母親ファニーの愛、町の人々との人情噺にんじょうばなしが語られます。

 この設定、リサと耕一との関係に似ているような……


 ところで原作者の名前、パニョルの語感が、何だか気になります。

 パニョル……パニョ……ポニョ?

 まあ、私の勝手な、気のせいなのでしょうが。


                                (了)



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