10●“二つの試練”の謎……アンデルセンとワーグナーの克服
10●“二つの試練”の謎……アンデルセンとワーグナーの克服
『崖の上のポニョ』は、見事なハッピーエンドで幕を閉じます。
五歳の観客にも対応した“子供向け”作品ですから、これは運命的なお約束です。
ポニョと宗介君が互いに相手を想う「好き」の感情は成就され、ポニョは晴れて人間の女の子として誕生します。
そして筆者の勝手な妄想かもしれませんが、トキさんが宗介君の“ひいおばあちゃん”であるとしたら、宗介君とリサは、家族を忘れかけていたトキを、老化による忘却、すなわち“近寄る死”から取り戻せたことになります。
トキさんは推定90歳ですので、人生の最後のステージに、忘れかけていた家族の記憶をよみがえらせ、愛を抱いて共に過ごせることになったわけです。
完璧なまでに、幸せな結末です。
さて、その前に、宗介君とポニョに、フジモト氏が言うところの「神聖な試練」(FC4巻94)が課せられたことを思い出してみましょう。
この“試練”とは何でしょうか?
物語にハッピーエンドを招くための、重要な通過点です。
ただぼんやりと観ていると、さらさらと事態が進んでしまい、“試練”というほど大袈裟なものはないように思えてしまいます。
“ラスボス倒してウィーアー!”式の、闘いと勝利を描く、従来型の“子供向け”アニメなら、わかりやすいけれどリスキーな試練が課せられますね。
“ドラゴンの目玉を抜いてこい”とか“怪鳥の卵を取ってこい”とか“金塊をごっそり奪ってしまおう”といった類です。もちろん主人公は闘って勝つのですが……
やっていることは“試練”というよりは“強奪”と呼ぶべきで、主人公や仲間たちの人格形成にプラスになるかどうか、首をかしげる課題も多いように思うのですが……
『ポニョ』の“試練”は、そういった力業とは、本質的に異なります。
宗介とポニョ、それぞれの“覚悟”を問うだけなのですが……
これが、意外と奥が深いのです。
一般来な作品によくある“戦って勝つ”ことでは達成できません。
しかし、“人間性の本質を衝いた”課題であるのです。
というのは……
宗介君とポニョに課せられる“試練”は、それぞれが……
アンデルセンの『人魚姫』と、
ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の、
“悲劇的な結末を克服する”ことにあるからです。
すなわち……
二つの偉大な古典に対するアンチテーゼであり、新たな解答を付与することなのです。
単純ながら、壮大な“試練”なのですね。
それぞれを具体的に見ていきましょう。
グランマンマーレは、問いかけます。
第一に、宗介君に対して……
あなたは「ポニョの本当の姿(魚であり半魚人)を知りながら、それでもいい」ですか?……(FC4巻135)
第二に、ポニョに対して……
「人間になるには、魔法を捨てなければなりませんよ」(FC4巻141)“”
それぞれの“試練”を、掘り下げてみましょう。
まず第一の試練。
“相手の本当の姿を知って、それでも好きでいられるか”です。
これは『人魚姫』に対するアンチテーゼです。
禁じられた魔法に身を染めてまで、耐えがたい苦痛と業苦に耐えて、マーメイドは人間になります。
憧れの王子様は、美しいマーメイドに心惹かれます。
しかし、マーメイドは自分の正体を明かすことはできません。
「あたし、半魚人だったの」と告りでもしたら、ジ・エンド。
相手は王子様です。得体のしれない魔法を使って人間に変身しているバケモノと結婚するなど、考えられません。
苦悩の末、マーメイドは海に身を投げて泡となり……
結局、王子様は最後の最後まで、マーメイドの正体を知ることなく、物語は終わります。
このままではいけない。
そこがアンデルセンの偉大なところですね。
『人魚姫』の物語は明らかに、“このままでいいはずがない”という終わり方をしています。
課題を、後世に残したともとらえられます。
『ポニョ』は、だからこそ宗介君に“ポニョの正体が何であっても、好きでいられるか”を真正面から問うことで、『人魚姫』の悲劇を克服したのです。
これは決して、アニメの世界のファンタジーではありません。
人と人、二人が好きあったとしても、人種・宗教・家柄・貧富の差などを互いに知ったとたん、たちまち愛が崩壊するケースは、枚挙のいとまもないでしょう。
大人にとって、日常の課題なのです。
“トキさんはリサの義理のおばあちゃんだった”という、筆者の妄想的仮説にも当てはまります。
トキは耕一とリサの結婚に猛烈に反対したかもしれませんが……
リサはすでに家族の一員となったことに変わりありません。
だから、たとえリサが“元ヤン”だとしても、家族として好きになってあげられますか?
グランマンマーレの最初の試練の問いは、宗介君に対してだけでなく、トキさんの心にも、ジンと響いたはずなのです。
あくまで“子供向け”の『ポニョ』ですが、しっかりと、大人に対する問いかけを用意していたのですね。
そして第二の試練。
“人間になったら、魔法は使えませんよ”です。
ポニョ自身が魔法力を失う。それだけのことではありません。
宗介君も含めた周りの人たちが、ポニョの魔法力に助けてもらうことは、もうできませんよ、期待しちゃいけませんよ……という意味も含まれています。
これはワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』に対するアンチテーゼです。
『ニーベルングの指輪』には、戦乙女ワルキューレの年長のお姉さまであるブリュンヒルデが登場し、物語後半のヒロインを務めています。
ポニョの本名も同じブリュンヒルデ(DVD字幕ではヴリュンヒルデ)とされており、フジモトからの二回目の脱走と荒波の上を駆けるシーン(FC3巻94-109)などでは、『ワルキューレの騎行』をモチーフにした音楽が盛大に鳴り響きます。
ポニョのキャライメージがワルキューレのブリュンヒルデに重ねられていることは明らかでしょう。
さて『ニーベルングの指輪』では、戦乙女のブリュンヒルデが神罰を受けて眠りにつき、人類の英雄ジークフリートが訪れてキスをすることで目覚め、二人はもちろん恋に落ちて結ばれます。
しかしこのときブリュンヒルデは戦乙女としての魔法力と戦闘力を失い、ただの、人間の女性になってしまう……という展開になります。
それゆえ、悲劇的な事件が二人を襲います。
二人は魔法を使えない、ただの人間。
愛するジークフリートは敵の姦計に落ちて惚れ薬を飲まされ、浮気してしまいます。そして油断した隙に、敵の槍に刺されて絶命するのです。
最後にブリュンヒルデは、愛するジークフリートの亡骸と共に炎の中へ身を投じます。
魔法力をなくしたブリュンヒルデに、この悲劇を阻止するすべはありませんでした。
ポニョと宗介君に対する第二の“試練”は、この『ニーベルングの指輪』の筋書きをなぞっています。
英雄ジークフリートのキスによって、戦乙女から、ひとりの人間となって目覚めるブリュンヒルデ。
これと同じ儀式です。
ポニョを閉じ込めた泡に宗介君がキスすることで、ポニョは晴れて五歳の女の子になります。
人間としての新たな誕生です。
しかしこうして“ただの人間になった以上は、人間につきものの、あやまちを犯す恐れがつきまとう。それでいいですね?”……ということです。
その過ちが原因で二人の仲が破綻するかもしれない。
それでも努力して魔法無しで解決し、状況を正すことができるか、それとも相手を赦すことができるのか……
人間という生き物の心の限界に、二人は直面しなくてはなりません。
“子供向け”の作品にしては、意外と大人向けの“試練”でもあるのですね。
宗介君もポニョも、いずれは大人になるのですから……
だから、第一の試練、第二の試練ともに、“子供向け”のようで、じつは“大人向け”でもあるわけです。
どちらの試練も、大人の“愛”の基本要件なのですから。
“好きになった人は、その正体に関わらず愛せるか”
“魔法を使えない二人の人間として、あやまちを正せるか、それとも赦せるか”
これは『ポニョ』の、大人に向けての問いかけでもあるのです。
宗介とポニョは即答でOKしていますが、私たち大人はどうなのでしょう?
『崖の上のポニョ』がラストでずっしりと提示した、大人向けの重たいメッセージです。