01●“子供向け”の謎……悩むのは大人ばかり
※本稿は必ず、劇場アニメ作品『崖の上のポニョ』の本編を、
DVD等で先にご覧になってから、お読み下さい。
01●“子供向け”の謎……悩むのは大人ばかり
『崖の上のポニョ』。(以下『ポニョ』)スタジオジブリ制作作品。
2008年夏、“生まれてきてよかった。”のキャッチコピーを掲げて全国公開。
興行収入は155億円に達したとか。
もう、言わずと知れた、国民的名作アニメですね。
この作品、一連の宮崎駿監督作品の中で、とりわけユニークな逸品です。
なぜなら、『ポニョ』の主人公はわずか五歳の子供。
すなわち、五歳の子供が観て楽しめるように設計された作品。
それまでのジブリ作品とは一線を画した……
明らかに“子供向け”に特化した内容なのです。
これはいわば、究極の絵本。
背景画はパステル画調にデフォルメされ、対象物は可能な限り丸みを帯びて表現され、まさに子供用の玩具の世界です。
超良質のメルヘン世界。
それゆえ、魔法はアリです。
超常現象、アリです。
未確認生物、アリです。
神様も、アリですね。
子供向けの童話が、徹底的に視覚化されたともいえるでしょう。
オープニングの“はじまり”の文字が出たとき、私たちは以上のことを了解して、鑑賞に入っていったはずです。
そして、作品末尾のエンドロール。役職抜きの全員五十音順、それぞれにキャラクターのアイコンを冠した登場は、何事につけ序列と権威によりかかる大人の価値観を綺麗さっぱりと排除しています。
“本作は子供向けですよ、大人向けではありませんよ。お間違え無く”と、簡潔明瞭に告示しているのです。
その意味で『ポニョ』は、大成功作です。
とくに小学校低学年の子供たちは、素直に楽しんで観たようです。
「子供には退屈すぎる」なんて批判は聞いたことがありません。
登場キャラクターの、生き生きとしてまろやかな動き。
悪意なき世界観。無邪気な冒険心。夢あふれるファンタジー。
ストーリーを気にせず、画面だけ観ていても、あまりの心地よさに吸い込まれる魅力。
だというのに……
『ポニョ』は意外と曲者だったようです。
大人の観客を悩ませるのです。
いちばん最初に観たときの印象を、思い返してください。
絵は綺麗だ。動きも素晴らしい。でも。
あの、もやもやとした、五里霧中な感覚というか……
わかりそうで、わからないストーリー。
大人が熱心に食い入るように観れば観るほど、難解なのです。
大人の感覚では、どこか腑に落ちない。
けれど、それが何なのかわからない。
何が何だかわからないシュールな謎が、もやもやと立ち込めます。
つまり、大人にとっては、“謎めいた不可思議な作品”なのです。
気が付いたら、あの“ぽんぽこ”の狸集団に化かされたかのような……
あの朗らかなハッピーエンドは、何なのだろう?
あれでいいはずだけど、でも、あれでいいのだろうか?
“大人にとってわかりにくい”のは、至極当然。
だって“子供向け”なのですから。
大人の観客に媚びる演出サービスは一切カット。
物語の背景や複線など、“大人の事情”の説明は完全省略されているのです。
わかりそうで、わからない『ポニョ』。
『ポニョ』の正体は、いったい、何なのでしょう?
まずはこの、シュールな不可思議感覚の正体を探ってみましょう。
もしもあなたが、『ポニョ』を観たあとも、奇妙なもやもや感に包まれて、謎めく何かがずっと気にかかっていたとしたら……
その感覚の正体は、たぶん“違和感”と呼ばれるものです。
何故、違和感が生じるのか。
この作品は“子供向け”と了解して観たのに、自分が思っている普通の“子供向け”とは、じつは、かなり、違うから、なのです。
期待外れ、という意味ではなく、どこか本質的に異なるものがある……という感覚です。
では、世の中一般の“子供向け”作品と『ポニョ』は、どのように異なるのでしょうか?
第一に……
“商店化していない”ことです。
こう言っては身も蓋もありませんが、最初から“子供向け”に企画されたTVアニメや特撮ドラマ、およびその劇場化作品は、その多くが、スポンサーの“関連グッズを販売する”ことを大きな目的にしています。
主人公が変身する時に使う“変身アイテム”がその代表例ですね。
そのほか、装身具や玩具類、ゲームやフィギュアやプラモデルを子供たちとその親に売り込むことが大きな目的として、作品の裏に隠されているケースがままあります。
資本主義社会ですから、そのことを悪いと決めつけるつもりはありません。
しかし、たまたまそうした“商売っ気”から綺麗に解脱した作品に出会うと、かえって新鮮で、現代の私たち大人は、違和感を覚えるほどに戸惑ってしまうのかもしれません。
『ポニョ』は、まず、子供たちの購買欲に対するあからさまな下心を感じさせない点で、優れてユニークな“子供向け”作品と言えるでしょう。
そして第二に、これが本命ですが……
『ポニョ』は、主人公たちの“欠乏感を埋める作品ではない”……ということです。
これは肝心なことです。
アニメに限らず、古くからのティピカルな“子供向け”作品の多くは、主人公かその周辺の人々の“欠乏感をいかにして埋めるか”が、物語の主軸となってきました。
いわゆる、世界名作劇場とされるジャンルでは、どうでしょうか?
経済的にはもちろん、何よりも“親の愛情”に飢えた少年少女たちが、その切ないまでの欠乏感を満たすために、放浪し彷徨し、苦難の末に、ついに自分なりの幸せをつかむ……というパターンが果てしなく繰り返されてきたのではありませんか。
小公女、家なき少女、アルプスの少女、その他もろもろの“〇〇の少女”と称してあげたくなる様々な名作群がそうですね。
この“欠乏充足パターン”の物語手法にケチをつけるつもりは一切ありません。
子供にとって“親の愛”こそ“生きる糧”であり、それこそが“子供向け”物語の王道です。
むしろ、この殺伐たる21世紀にこそ再評価されるべきと思います。
それに“大人向け”のアニメやドラマはなおさら、主人公たちの金銭欲、権力欲、支配欲、名誉欲、性欲、嫉妬心や復讐心と、その充足方法を延々と飽きることなく描き続けているのですから、とても誉められたものではありません。
夜な夜な流血と殺戮とお仕置きのバトルを観て育った私たち大人こそ、たまには世界名作路線の爪の垢でも煎じて観てはいかがかと思うのですが……
ただし、『ポニョ』は、従来の世界名作路線とは、目的も性格も異なる作品だと考えられます。
どう異なるのか。
いわゆる“宮崎アニメ”の過去作品と比較してみましょう。
ひとつは『パンダコパンダ 二部作』(1972-73)です。
ヒロインのミミ子に両親はおらず、同居する祖母が遠方に出かけて、しばらく寂しい独り暮らしをすることになります。
そこへ現れたのが、父パンダと息子パンダ。
ミミ子は嬉々として二頭のパンダを迎え、「私、ママになってあげる!」と宣言します。
人語を話す不可思議な二頭のパンダは、ミミ子が欠乏感を抱いていた、父親ときょうだいの愛情を埋め合わせる存在となったわけです。
70年代当時、“カギっ子”という言葉が流行りました。核家族化して団地住まい、両親が共働きなので、学校から帰ったら自宅に誰もいない。なので、自分で家の鍵を持ち歩いている子供のことです。
人間と対等につきあうパンダ親子は、ミミ子嬢の心の欠落を埋める、新しい家族となりました。
高度経済成長のもと、親を職場に奪われた子供たちの欠乏感に応えた佳作と言えるでしょう。
もうひとつは『となりのトトロ』(1988)です。
ヒロインのサツキとメイ。二人の少女には両親がいますが、父は仕事、母は病院で療養中の身です。
両親はいるけれどコミュニケーション不足になりがち。
特に、母親とは滅多に会えません。
そこに不安と寂しさが忍び寄るのですが、その欠乏感を埋めるのが、未確認生物のトトロ。
これは作品中の時代設定が昭和30年代なので、大人の観客が子供のころの自分を思い出して、あのころにあって、今は失った懐かしいものを、心の中で取り戻すお話でもありました。
ポスター等に冠されたキャッチフレーズは“忘れものを、届けにきました。”。
80年代当時、社会はバブル経済へ突き進み、“二十四時間戦えますか”と叱咤され続けた大人たちの、心の飢餓感にも応えた傑作ということになるでしょう。
このように、観客の心の欠乏感を癒すプロセスが、従来の“子供向け”アニメ作品のおもな要素となっていました。
それは私たち観客が、ごく普通に、作品に対して期待していることでもあります。
しかし『ポニョ』は、その期待を裏切りました。
ただし、悪い意味での裏切りではありません。
過去の定型を覆す、ユニークなキャラ設定の登場です。