見えないクサリ
私立三笠高等学校は、名門景成大学の付属校である。
そのためか、三笠高校も偏差値の高い有名校である。
そんな高校に私は通っている。
私は三宅早紀。
三笠高校の二年生だ。
今、私が何をしているのかと言うと、クラスメートを探している。
そのクラスメートは、別に失踪して行方不明というわけではない。
いや、ある意味そうなのか。
私が探しているクラスメート、一之宮信治は三笠高校一のワルだ。
遅刻・早退・欠席は当たり前、喫煙・飲酒に麻薬までしているとの噂まである。
それもそうだろう。
一之宮家は、関東地区一帯を占める暴力団である三条家の分家の一つで、この辺りを縄張りとしている。
一之宮信治は一之宮家の長男で、いずれはこの辺りをしめる、いわば若頭なのだから。
何故そんなのが名門の三笠高校にいるのか。
噂では裏口だ、恐喝だなどと言われているが、一之宮は頭がいいのを私は知っている。
彼の答案が見えてしまったことがあるから。
その答案からして、一之宮は二年の中で、十本の指には入るくらいの実力はあるだろうと思う。
まぁ、私は必ず三本の指に入る成績なんだけどね。
話がそれてしまった。
なんで私が一之宮を探しているのかと言うと、アイツが今日も授業にでなかったからだ。
友達が登校するところを目撃しているので、休んではいないようなのに、だ。
アイツが真剣に授業に出れば、学年一位も夢ではなかろうにサボってばかりのアイツが憎い。
なんだその余裕は!
私は階段を駆け上がって屋上へと行く。
今は五時間目と六時間目の間の休み時間で十分しかゆとりが無い。
のんびりしている時間は無いのだ。
案の定、アイツは屋上で寝ていた。
「一之宮。授業でなよ」
私は一之宮に話し掛ける。
「うるせぇ。さっさとうせろ」
一之宮の返答はいつも同じだ。
いつも、というのはコイツが登校しているのに授業に出ていない日は、いつも私がコイツを呼びに来ているからだ。
「うるさいじゃないの。私の苦労を無駄にしないで」
ことの発端は一年の時までさかのぼる。
そう、私と一之宮は一年の時もクラスメートだった。
一年で最初にコイツがサボったとき、私は担任の命令で一之宮を呼びに行かされた。
理由は簡単で、私が室長であったことと、一之宮が屋上にいるとわかったこと。
室長とは公的に決められたクラスのまとめ役のことだ。
名称が違っても、どの学校にもいる役だろう。
それからというもの、私は担任の命令がなくても一之宮が学校にいて授業に出ない日は、探し当てて呼びに行っている。
これも理由は簡単で、意地になっているだけだ。
私は一度も一之宮をクラスに連れ戻すことに成功していない。
それが気に食わない。
私はよく頑固者と言われるが、自分でもそのとおりだと思う。
結局、この日の私も一之宮の連れ戻しに失敗し、一人で六時間目を受けに教室に戻った。
教室に戻ってそうそう、友達のみっちゃんが話し掛けてきた。
「その調子だと今日も失敗したね」
「うん。アイツも私と一緒で頑固者でさ」
「でも早紀も凄いよね。一之宮っていったらミンナ怖がるのに」
「そう?同じ学生なんだから、そんなに怖がることないじゃん」
「そう思えるのは早紀だけだよ。教師だって一之宮にビビってるんだから」
なんて話していると教師が部屋に入ってきた。
みんな席に座り授業が始まる。
一之宮の席はやはり空席だった。
放課後、私は部活に向かう。
私は剣道部所属で、こう見えても部長だ。
小・中・高と剣道一本で続けてきて、今では三段の腕を持っている。
剣道を始めたきっかけは忘れたが、剣道が好きなことには変わりない。
次の日も、一之宮は登校だけしてクラスには顔を出さなかった。
私は屋上にのぼる。
一之宮は大概そこにいる。
人がお弁当を食べに来る昼休みの時間と、吹奏楽部が練習に来る放課後以外は。
今日も一之宮は屋上で寝ていた。
いつも同じことを言っているので、今日は別のことを言ってみることにした。
「一之宮ってなんで授業出ないのにわざわざ学校きてるの?」
返事ナシ。
「なんで授業出てないのにそんなに頭いいのよ?」
返事ナシ。
私はキレた。
「どうでもいいから授業でなさいよ!」
やっと一之宮はだるそうに答えた。
「うるせぇな。どうでもいいなら俺のことほっとけよ」
「そうはいかないの。私にも意地があるんだから」
「意地張ることじゃねぇだろ。さっさと教室行け。遅刻するぞ」
その言葉に私は一瞬ためらったが、今日という今日はコイツを連れて行ってみせると思った私は
「一之宮が戻るまでは私も戻らないよ!」
と言った。
言ってしまった。
その直後始業のチャイムが鳴る。
「鳴ってるぞ」
一之宮が言う。
私の良心は必死に教室に戻れと言っていたが、私の意地がそれを遮った。
「アンタと一緒じゃなきゃ戻らないって言ってるでしょ」
「あっそ」
そういって一之宮は寝る態勢に入る。
「ちょっと。聞いてるの?」
私が怒鳴る。
「うるせぇな。勝手にしろよ。俺の睡眠は妨げるな。妨げたら殺す」
さすがにヤクザの息子だ。
声にドスが聞いている。
私は次の言葉が出なかった。
私はその場に座った。
授業をサボるなんて初めてだ。
私は罪悪感でいっぱいだ。
それを知ってか知らずか、一之宮は横で寝ている。
いや、知っていてやっているに決まっている。
絶対わざとだ。
くそっ!ムカツク奴め。
私はイライラしながらその場に座っていた。
それも段々落ち着いてきて、なんだか授業なんてどうでもいいや、と思えるようになり、キモチいい風に揺られていた。
そんなときだった。
一之宮が話し掛けてきたのは。
「オマエ、マジで授業サボってんのか」
一之宮は仰向けに寝て、目を閉じたまま言った。
「誰のせいよ」
「自分の意地のせいだろ」
まぁその通りだな。
なんて納得してしまうあたりいつもの私とは違っていた。
私はいつまでもこの風に揺られていたいと思っていた。
「考えてみれば一之宮から話し掛けてきたの初めてだよね。もう二年目の付き合いなのに」
一之宮は何も言わなかったが、私は気にもせずに続ける。
「一之宮さ、ホントに勿体無いよ。頭いいのに」
「…………なんで俺の成績知ってんだよ」
一之宮が訊いてくる。
新鮮で少しおもしろい。
「成績見えちゃったことあるんだ。一之宮が一年のとき成績表落とした時、私が拾ってあげたでしょう」
「あんときか」
一之宮は納得したようだった。
「せっかく学校きてるんだから授業でなよ。成績だって絶対に伸びるよ」
「成績なんてどうでもいいんだよ」
一之宮はずっと仰向けに寝て、目を閉じたままだ。
その隣で私も座ったままだ。
「なんで学校来てるの?」
私の問いに一之宮は答えなかった。
「言いたくないならいいけどさ」
そういって私は立ち上がる。
「私の負けよ。今から教室戻って授業受けてくる」
一之宮はまったく反応を示さなかった。
ホントに寝てやがるな。
「寝るのはいいけど風邪ひくなよ。あと、今日は話してくれて嬉しかったぞ」
私は寝ている一之宮にそう言って教室に戻った。
「三宅、何していた?」
教室に戻ってそうそう先生に突っ込まれた。
「一之宮を探していました」
「あんなヤツほっとけばいいんだ。さっさと席に着け」
そう言って先生は黒板に向き直る。
私には一之宮の名に先生が恐縮したように見えた。
一之宮は教師にも恐れられているってみっちゃんが言ってたっけ。
私はそんなことを思いながら授業を過ごした。
結局、一之宮はこの日も授業に出てこなかった。
部活も終わって家に帰ると父がいた。
いつもはもっと帰ってくるのが遅いのに。
父は母と難しそうな顔をしてなにか話していた。
仕事が忙しいようだ。
ウチの父はただのサラリーマンだ。
色々と大変なんだろうな。
結局父と母は私が寝るまで難しそうな話を続けていた。
一之宮は今日も教室に姿を見せない。
今日の一時間目は自習になったからいいと言えばいいのだが。
クラスメートも半分以上は勉強なんかせずに話している。
私もみっちゃんと話していたが、途中で一之宮を連れ戻しに行こうと思った。
「早紀もよくやるね。ひょっとして一之宮のこと好きなんじゃないの?」
と、みっちゃんは笑った。
「そんなんじゃないよ。これは意地なんだ」
私はこぶしを固めて言う。
「でも一之宮がいないほうがこのクラスも平和じゃない」
「みっちゃん、それはいくらなんでも酷いんじゃないかな」
私の言葉にみっちゃんは真剣な目で言った。
「クラス中がそう思ってるよ。早紀以外はね」
私は屋上への階段を上る。
「クラス中の人が一之宮がいないほうが平和だと思ってる、か」
たしかにそうかもしれない。
しかし、私にはそれがショックだった。
たしかに一之宮はヤクザの息子で、ワルだ。
でもクラスメートじゃないか。
私は屋上のドアを開ける。
一之宮はタバコなんか咥えていやがった。
「未成年がタバコなんか吸ってるんじゃないの」
私の言葉に一之宮が答える。
「三宅はタバコが嫌いか?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「じゃあどういう問題だよ」
「未青年がタバコ吸ってるのが問題なのよ」
「なんで未成年がタバコ吸うといけないんだ」
私と一之宮が口論している。
実際、私が一人熱くなっていて、一之宮に軽くあしらわれているだけなんだけど。
「そりゃ、人体に悪影響だからでしょ。って一之宮、今日は良く喋るね」
「誰かさんが俺と話せると嬉しいらしいから付き合ってやってるだけだろ」
一之宮が切り返す。
コイツ昨日聞いてやがったな。
「アンタ寝たふりしてたの!?」
「別にいつも通りだっただろ。三宅が勝手に勘違いしただけだろ」
たしかにそうだ。
私は一人恥ずかしくなった。
しかし、それにしたって今日の一之宮は饒舌だ。
「一之宮、何かいいことあった?」
「なんでだよ」
「今日はよく喋るから」
「……別に。そういう日もあるさ」
そういって一之宮は黙ってしまった。
私も一之宮の横に座る。
この屋上はいい風が吹く。
それが身体に心地よい。
「なんで三宅がここにいるんだよ。今授業中だろ」
「今日の一時間目は自習になったのよ」
そして再びの沈黙。
終業のチャイムまで一之宮は黙っていた。
私は風の心地よさについ寝てしまっていた。
この日も一之宮が授業にでることはなかった。
しかし、最近は一之宮と距離が縮んできてるな、なんて私は呑気に思っていた。
部活の帰り、一之宮をみかけた。
舎弟を何人か連れて歩いていた。
私はそんな姿を始めて見た。
私は初めて一之宮に恐怖した。
昼間の、学生の一之宮とはまるで別人。
若頭としての一之宮は、完全に極道の人間で見るものを怯えさせる風格を持っていた。
私はその場にいるのが怖くなって逃げ出した。
昼間一之宮との距離が縮んできていると思った私が嘘のようだ。
一之宮が怖くてたまらなかった。
次の日、私は一之宮を呼びにいかなかった。
いけなかった。
若頭の一之宮――それが私の頭から離れない。
結局、この日私は一之宮と会うことはなかった。
家に帰ると、家族全員――父・母・弟が塞ぎこんでいた。
「どうしたの?」
私の問いに父が答える。
「会社が倒産したんだ」
私はショックを受けたが、ヘコタレなかった。
「次の仕事見つければいいじゃない。しばらくは貯金で生活できるし」
「それだけじゃないの」
母が口をひらく。
「会社のせいで借金が出来たのよ。貯金も家のもの全て売っても五千万円の借金があるの」
私は愕然として、その場に座り込んだ。
五千万、とても無職が返済できる額じゃない。
無職ではどこもお金を貸してくれないだろう。
それどころか明日住む場所さえない。
母が泣き崩れた。
父も弟も無言のままだ。
私たちには、なすすべなどなかった。
一睡も出来なかった翌朝、私は学校に向かった。
最後の授業と、退学届を出すために。
私の顔を見たみっちゃんが「どうしたの?」と心配そうに聞いてきてくれたが何も言えなかった。
校長に退学届を出し、最後の授業を受けるため教室に向かう。
その日はあっという間に過ぎた。
楽しい高校生活ともコレでおさらば。
私は部活を切り上げて校門を出ようとする。
そこに一之宮がいた。
「よお」
一之宮が珍しく話し掛けてくる。
この一之宮は学生の一之宮だった。
あのとき感じた恐ろしさを感じなかった。
「ん」
私は返事をして、校門から出ようとした。
それを一之宮に静止された。
「金に困ってるだろ」
一之宮が小声で私に話し掛ける。
私は驚いて、凄い勢いで一之宮の方を向いた。
「職業上そういう話には敏感なんだ」
「だから何だって言うの?笑いたいなら笑いなさいよ」
私は思わず半泣きになった。
泣いたことなんて小学生以来ないのに。
「そんなことを言いたいんじゃない。金貸してやろうかって言ってんだ」
一之宮の実家はヤクザだ。
きっと闇金融だってしているのだろう。
「闇金に手を出せってこと?言っとくけど返済なんて見込めないわよ」
私は出来るだけ厳しい声で言った。
内心には、大声で泣きじゃくっている私がいる。
「わかってるさ。承知の上で言ってるんだ。条件はあるけどな」
一之宮が言った。
住む場所をも失ったような私たちには返済出来ないことは、きっと一之宮の方がわかっているはずだ。
それなのに条件を飲めば金を貸してくれるという。
怪しいことこの上ない。
「条件ってなに?」
私が訊く。
一之宮は答えた。
「オマエ身体を売れ」
私は一之宮家の前にいる。
何故かって?
それは私が一之宮信治に身体を売ったからだ。
これで家族は家財を売ることも貯金を崩すこともせずに借金を返済できた。
父も母も私を売ることには反対した。
でも、私が押し切った。
あのまま路頭に迷っていたら一家全員死ぬだけだ。
それなら私の身体ぐらい安いものだ。
一之宮との話し合いもあり、私は一之宮に買われ一之宮家に来た。
父も母も泣いて見送ってくれたっけ。
そう思うと涙腺が潤む。
これからは極道の世界で、何をされるかもわからない。
ただ、これで家族は死なずにすんだ。
そう思うと一之宮に感謝せざるをえなかった。
家の中から一之宮が出てくる。
例の若頭の顔をして。
「早かったな。入れ」
そういって一之宮は私を屋敷の中に入れる。
一之宮家は立派な門を構えた、いかにも日本の屋敷といった感じの建物だった。
畳の部屋が似合う。
私はそんな部屋の一室に案内された。
そこにいたのは一之宮の父、一之宮家のボス。
「親父、こいつが買った奴だ」
「三宅早紀です。よろしくお願いします」
父親を前にかしこまって言う一之宮に習って、私も挨拶をした。
「うむ」
一之宮の父はそれだけ言った。
私たちはそんなボスの前から退く。
そして案内されたのは私の部屋。
これから生活するところ。
「荷物はここ置いとけ」
「わかった。それで一之宮、私は何をすればいいの?」
「一之宮はやめろ」
「じゃあなんて呼ぶの?」
「ここの奴らには若とか若頭とか兄貴とか呼ばれてるな」
「じゃあ若ね。これから私は何すればいいの?」
一之宮、もとい若は呆れ顔になっていた。
「俺はここでは親父の次に偉いんだ。俺にそんな口きいてみろ。ここの奴に殺されるぞ」
確かにそのとおりだ。
気をつけよう。
「若。私は何をすればよろしいでしょうか?」
そこに一人の男が入ってくる。
「若、お呼びでしょうか?」
その人は私たちより年上だった。
多分ハタチ前後くらいだろう。
「三宅、コイツは上田だ。下っ端だがオマエより先輩だ。仕事教えてもらえ」
「はい」
私は端的に答える。
「上田、そういうことだ。明日、一日の仕事を三宅に教えてやれ」
「わかりました」
上田さんは一之宮に礼をして答えた。
私は明日の朝から働くことになった。
その夜、私は部屋で泣いた。
明日からは泣いていることなど出来ないだろう。
何があっても、今が私の泣く最後の時だと決めて。
一之宮家での朝は早かった。
私は、辺りが暗い、日の昇る前に起こされた。
上田さんや他数人と食事の準備や掃除をする。
食事は作る量が多いし、掃除は毎日が年末の大掃除かのようだった。
皆を起こさないように静かにそれらをこなさなければならない。
新聞配達の人にも挨拶をして直接、新聞をもらった。
それが一之宮家の仕来りなのだとか。
これらのことを下っ端の構成員が交代で毎日するらしい。
私は毎日そのメンバーに入るのだそうだ。
その代わりとも取れるが、学校へはそのまま行かせてもらえた。
一之宮、もとい若の厚意だと思う。
「学校ではこれまでと変わらないように生活しろ」
というのが学校に行く前、若に言いつけられた事だった。
私は、まだ昨日の今日だったが「若」として接することに抵抗がなくなっていた。
それは恐怖によるものだった。
自分の組の若に失礼な言葉など言ったらどうなるかわからない。
そのためか、思ったより若と一之宮の区別は難しかった。
案の定、若が普段どおり授業をサボって屋上にいるのを見つけ、
「若、授業に出てください」
と、私は言ってしまった。
「三宅、いつも通りに接する約束だろう」
と、学生の顔の若に言われ、
「今は若ではなく一之宮なのだ、それを彼も私も望んでいるのだ」
と深く思い知らされ、これからはちゃんと一之宮として接しようと心に深く刻んだ。
放課後は、ついでに買出しをして帰宅した。
そして仕事に就く。
掃除の続き、食事やお風呂の準備、雑用は全てが私の仕事だった。
当然、一人でこなせる仕事量ではなく、下っ端の人たちが交代で一緒に仕事をするのだそうだ。
私の主な役割としては、若の身辺のお世話だった。
若に買われたのだから当たり前といえば当たり前だろう。
夜、仕事が終わった私は緊張して自室にいた。
「身体を売った」ということは、いわゆる夜の世話というのだろうか、そういうことをするのだと私は思っていたからだ。
それだけではなくAVやら、裸の写真を撮られるものだと思っていた。
そうでなければ私を買った元手が取れない。
若は、私をかなりの額を出して買っているのだ。
しかし、待っても待っても呼び出しは無かった。
結局その夜、呼び出されることは無かった。
次の日も、その次の日も呼び出されることはなかった。
だから私は意を決して若に訊いてみた。
「そうして欲しいならそうしてやるが」
というのが、若の答えだった。
そういうことを、若は私に求めなかったのだ。
私の身体自体、そう良いモノではないこともあるだろうけれど、「身体を売った」ということに、そういう意味合いは含まれていなかったようだ。
私はそれを聞いてホッとしたものだ。
それでも「身体を売った」には変わりなく、毎日仕事に追われた。
私はヤクザという人は皆怖いモノだと思っていた。
実際ここに来たときもそう思っていて、毎日ビクビクしながら過ごしていた。
何をされても仕方が無い、殺されたって仕方が無いと思っていた。
一般人から見れば、ヤクザは恐怖の対象であって当たり前だと思う。
しかし、彼らと共に生活するうちに、私の中の「ヤクザ像」は一変した。
私だって知識として、ヤクザの世界が仁・義を大切にするということは知っていた。
しかし、やはり外から見るのと内から見るのでは違う。
ここの人たちは一人残らず、親父さんを尊敬し、敬愛し、尽くしていた。
家の中での礼儀は、これほど厳しいところは他に無いと思うし、同じ一家としての仲間意識は、かなりのものだった。
若に買われ、一家の仲間になった私に、ここの人たちは驚くほど親切にしてくれた。
ヤクザという人たちに恐怖していた私は、なんだかそう思っていたことが恥ずかしく、大変に失礼なことをしたと思うくらいだった。
だからこそ下っ端のまとめ役でありリーダー的な存在である上田さんを始め、下っ端の構成員、いわゆる私と同格の人たちとはすぐに仲良くなれたのだろう。
「早紀ちゃんが来てから、仕事が楽になったよ」
とその人たちは言ってくれた。
今まではこの人たちが交代で全てこなしていたのが、私が毎日仕事をするようになって順番と仕事量が減ったらしい。
「料理も美味くなったしな」
と、この人たちは笑って言ってくれた。
私は料理が好きで、料理を誉められると嬉しかったが、実際にはこの人たちとは大差が無いような気がした。
さすがに、交代で料理を作っていただけあって、レパートリーも料理の腕も良いというのが私の印象だった。
いや、料理だけではなく、掃除だって私より手際がよかった。
ここに来て、料理の腕もレパートリーも、その他掃除を始めとした家事の腕も上がったと私は思う。
そんなこともあってか、私はここでの生活に苦労はなかった。
むしろ楽しいくらいだった。
一之宮家は確かに身分の差もあるし、血縁もない。
しかし、血縁の家族以上の絆を持っているのではないかと私は思った。
世間に認められない、ならず者の集まり、だからこそここでの繋がりは彼らにとって掛け替えの無いものなのだろう。
同じ一家の一員として、(というには誤りがあるかもしれない。私は買われた、いわば奴隷のようなものだから。それでも)私は彼らをいとおしくさえ思った。
ヤクザを怖がっていた自分が、である。
それは多くの時間を共に過ごしたからかもしれない。
しかし私はここに、今の日本では忘れられてしまった、大切なモノがあると感じた。
だからこそ、いとおしいと感じたのだろう。
若とも、かなりの時間を一緒に過ごした。
本当のことを言えば、私は一之宮に惚れてしまった。
あくまで一之宮に、であることを私は強調したい。
若には惚れなかったし、惚れられなかった。
身体を買われた身で、若のことを好きだなどとは言えるわけもない。
私にとって若は主人であり、尊敬する人であり、奉仕の対象だった。
一之宮は、私が一之宮家で生活するようになってから徐々に饒舌になった。
といっても元が元であるからおしゃべりになったわけではない。
ちゃんと私と会話をしてくれるようになったのだ。
今までは、一言二言の言葉が聞ければ良い方で、無視されることもしばしばあった。
それが、最近では普通に会話をしてくれるようになった。
授業にはほとんど出てくれないのだけれど。
いつのまにか休み時間は屋上で一之宮と話すのが日課になっていた。
それが、私の生活での一番の至福のときだった。
そんな生活との別れは突然にやってきた。
若の結婚が決まったのだ。
本家である三条家のお嬢さんとの結婚だった。
関東を占める三条家のボスには、男の子、つまりは世継ぎが生まれなかった。
そこで、娘のところに婿入りする相手を探した。
つまりは次期関東のボスを、である。
それに若は選ばれた。
若ほど優秀な方なら当たり前だと私は思った。
親父さんも喜んで、若を婿に出すことに決めた。
関東一帯のボスに息子がなるなら当たり前である。
一之宮家は次男が継ぐことになった。
若はまだ結婚の出来る年齢ではないが、これからのこともあり、三条家に行くことになった。
若が三条家に行くに当たって、私のような年頃の女がついていけば新婚生活にいらぬ誤解を生むことになるかもしれない。
そこで若は私を自由の身にしてくれた。
私が一之宮家にいたのはたったの2ヶ月。
たったの2ヶ月で若は私にかなりの額を払ったことになる。
そう思うと申し訳なかった。
それ以上に私は悲しかった。
良く接してくれた一之宮家の人たちとの別れになる。
それは確かに悲しいことだったけど、永遠の別れではないし、覚悟の出来ることだった。
ただ、若が結婚すると言う事が、私は悲しかった。
いくら心では若と一之宮は別人だと割り切っていても、やはり同一人物なのだ。
私の愛した人は別の女と結婚する。
その事実は、私を大きく悲しませた。
思うに、私と一之宮は見えないクサリで繋がれていたのだろう。
そう、決して赤い糸ではない、鈍く光を反射するクサリ。
そのクサリは一年生の時の担任によって結ばれた。
借金という重大事に一之宮はそのクサリをひっぱって、私が落ちていかないようにしてくれた。
代償として、そのクサリは私の首に巻きついて、私の自由を奪うことになったのだけれど。
しかし、そのおかげで、今まで私が住んでいた世界とはクサリで隔離されていた世界を、私は見ることが出来た。
そして今、そのクサリは私の首から抜け落ちた。
それは元の世界へ戻る合図。
それは私と一之宮との繋がりが無くなった合図。
そして、そのクサリは私たちの間に、進入禁止を意味する境界を作る。
私と一之宮をつないだもの。
私と一之宮の世界の隔離を表すもの。
見えないクサリ。
見えない、クサリ。
私は若が三条家に引っ越す日に家に帰ることになった。
それは明日なわけだが。
一之宮は今日、学校を辞めた。
私と一之宮が会うのも明日でおしまい。
私の恋も明日でおしまい。
そんなことを思いながら私は荷造りしていた。
午前零時。
いつもなら朝が早いのでとっくに寝ている時間。
でも、私のここでの仕事も今日で終わった。
明日、若を見送った後に私もここを出る。
涙が滲んだ。
「あの日、何があっても泣かないと決めたじゃないか」
私は涙を必死で堪える。
それでも涙がこぼれそうになった時、ドアがノックされた。
ドアの向こうに立っていたのは若だった。
「ちょっと話さないか?」
若の問いに私は「はい」と答える。
「はは。畏まらないでくれよ。今は一之宮信治として接して欲しい」
と言った。
「うん」
私も微笑を浮かべて頷く。
私たちは一之宮の部屋へ移動する。
下っ端用の私の部屋では、周りの部屋の人に迷惑だろう。
一之宮の部屋は、離れになっているのでそういう心配は必要なかった。
私は馴れた手つきで、部屋に置いてあるティーポットで紅茶を入れた。
それを一之宮に手渡す。
「サンキュ」
一之宮はそれを受け取った。
「私が一之宮にお茶入れるのもこれが最後だね」
私は感慨深げに言った。
「そうだな。こんなところで生活させて悪かった」
一之宮は私に謝った。
私はビックリしてカップを落としそうになった。
「なんで謝るのよ。むしろ私が感謝しなくちゃ。借金分の仕事なんて全然してないのに」
私の言葉に一之宮は微笑んだ。
「そか。なら良かった」
私はその笑顔を見て照れくさくなってしまった。
二人の間に沈黙が流れた。
「今回の結婚の話、三ヶ月くらい前から決まってたんだ」
一之宮が沈黙を破る。
「本決まりじゃないからごく一部しか知らなかったんだけどな」
「そうだったんだ」
私は返事を返す。
それは私がここに来る前。
私が一之宮を好きになる前の話だ。
私の恋は最初から実らないものだったんだな、と一人心の中で苦笑した。
でも引っかかることがある。
「じゃあ最初から私のことすぐに開放する気だったの?」
そうだ。結婚が決まれば私は邪魔になるだけで、開放されるのだから。そのために一之宮は多額の金を出したというのはおかしい。
「そうゆうことになるな」
と一之宮は苦笑した。
「それならなんであんなにお金を?おかしいじゃない」
私は混乱してしまった。
「それは三宅に感謝してるから」
「私感謝されるようなことしてないよ?」
「してるさ。学校という場で話し掛け続けてくれたのは三宅だけだ」
私はそれを聞いてはっとした。
学校という場で――それは小学校も中学校も含むのだろう。
「だから三宅には感謝してる。無愛想で悪かった」
「そんなことないよ。一之宮はちゃんと私と話してくれたじゃん」
私の声は思いがけず泣きそうな声だった。
そんな声を聞いて一之宮が言う。
「三宅は優しいな。だから俺は三宅のこと好きになったんだ」
沈黙。
私は耳を疑った。
「三宅のこと好きになったんだ」?
それはつまり私のことが好きってこと?
だとしたら私たちは・・・
私は泣いてしまった。
泣かないと決めていたのに。
一之宮は驚いてしまった。
「ゴメン。変なこと言った」
と謝った。
「違うの」
私はなかなか言葉が出せなかったが、それでも頑張って喋った。
「私も一之宮のこと……」
一之宮は一瞬かなり驚いた顔をしたが、すぐに私を抱きしめてくれた。
私は一之宮の胸の中で泣いた。
一之宮は私が泣き止むのを、ずっと抱きしめて待っていてくれた。
私たちはキスをして、そのままベッドに倒れこむ。
私たちは一夜だけ恋人同士になれた。
それは運命の、見えないクサリのイタズラ。
初めての私を一之宮は優しく抱いてくれた。
泣きながら、笑いながら、私たちはお互いの体温を感じ、慈しみあった。
私は何度太陽が昇らないことを祈っただろう。
それでも太陽はゆっくりと、しかし確実に空に現れる。
朝が来るまで、私たちは寝る間も惜しんで行為にふけった。
最初で最後の夜。
私たちにとって今まででもっとも儚く、脆く、そしていとおしい時間。
そんな時間はやはり瞬く間に過ぎていった。
朝を、私たちは何度目ともわからぬ絶頂で向かえた。
朝日が眩しい。
朝日をこんなにも嫌なものだと思ったのは最初で最後だろう。
私たちはまた、若と下っ端の立場に戻る。
私が部屋を出るとき、一之宮は「ごめん」と言った。
私は「謝られることなんてされてないよ」と答えた。
あれから一年、私は受験生として多忙な日々を送っていた。
第一志望の東大はC判定。
まだまだこれからだ、と自分にエールを送り励ます。
そして模試の判定と一緒に郵送されてきた一枚の葉書を見る。
一之宮家を出てから、私は一度も一之宮家を訪れてはいない。
そこは見えないクサリで分けられた世界。
所詮、カタギの世界で生きる私には相容れない場所だった。
一之宮家を出てからは、まるで一之宮家にいたときが夢だったかのように、今まで通りの生活が待っていた。
一之宮を呼びに行く、という私の仕事がひとつ減った世界だったが。
私はあの夜以来泣いていない。
一之宮と別れる際も泣かなかった。
泣いてはいけなかっただろうし、泣けなかった。
思うことは全て、あの夜に出し切ったのだから。
もう一つ言えば私はあれ以来まだ恋をしていない。
一之宮のことを引きずっているのだろうと言われれば、否定は出来ないかもしれない。
でも、きっと私は一之宮のことを引きずってはいない。
模試の判定と一緒に郵送されてきた一枚の葉書を見る。
一之宮と、私とは比べ物にならないような可愛い女性がウエディングドレスを着て微笑んでいる。
それを見て私も微笑む。
二人の間に赤い糸が見えたような気がして。
きっとこの二人は幸せに暮らしていけるだろう。
そしてふと思う。
私の赤い糸は誰と繋がっているのだろうか。
私と一之宮の間にあった、見えないクサリ。
私と一之宮を繋いでいた、見えないクサリ。
今は私と一之宮を繋いでいない、見えないクサリ。
見えないクサリ。
私はそのクサリに感謝しよう。
そしてクサリはもうごめんだと思おう。
次は赤い糸の繋がりを探して、大切にしよう。
私は心に誓う。