盆踊りと騒音問題
お久しぶりです、枝鳥です。
もしくは、初めまして。
真夏に冬の話を書きたくなり、真冬に夏の話題をしたくなる天邪鬼でございます。
さて本日のエッセイは「盆踊り」についてです。
今年の夏にはサイレント盆踊りなどという話題で盛り上がっていました。
その当時には忙しくて考えてはいたものの、文章にする余裕がなかったことを改めて述べてみたいと思います。
現在の盆踊りはそもそもが果たして「文化」なのでしょうか?
祖霊の鎮魂を祈り踊るという行為だけを見れば、それは紛れもなく文化なのでしょう。
しかし、問題とされる騒音に焦点を当てて考察すると、どうも枝鳥には文化と言うには未成熟だと思えるのです。
盆踊り自体の文化は、平安時代の中期とも言われています。いわゆる踊念仏ですね。それがお盆と結びついたと言われています。
楽曲も様々で、地方色も豊かなまさに文化とも言うべき行事でしょう。
けれど昨今の盆踊りは騒音問題にまで発展しています。
この原因は何でしょうか。
枝鳥が推察するに、その発端は現代文明である音響機器ではないでしょうか。
1937年にダイナミック型スピーカーが世に出たそうです。
百年にも満たないこの現代機器は、現代の盆踊りでは当たり前に組み込まれています。
我が家の周辺では、盆踊り数週間前から夕方から21時ごろまで延々と途切れることなく練習の音楽が流れ続けます。
そして当日ともなれば、昼頃から22時ごろまで10曲ほどの音楽が繰り返し流れ続けます。
けれど、もしこれが人による演奏であったならば可能なのでしょうか。
10時間もの耐久演奏。
しかもその前に数週間に及ぶ練習。
到底常人には成し遂げられないのではないでしょうか。
少なくともへたれな枝鳥は、一時間につき15分の休憩を要求するでしょうし、それでも3時間も演奏すればへとへとになってしまうことでしょう。
へたれではないスピーカーは連続10時間の再生などまったく問題としませんでしょうが(笑)
元来、生演奏の音楽には揺らぎがあります。
その揺らぎは人にとって時に心を奮い立たせ、時には癒すものでした。
しかし、最近の音楽はインパクト重視のためにその音圧を変化させる加工がされているものが殆どです。つまり、意図的に揺らがない音楽となってしまっているのです。
揺らぎのない音楽を長時間聞かせ続けられる苦痛。
これこそが、盆踊りが騒音問題となっている一因なのではないのでしょうか。
録音された音楽ではなく、自らが演奏する。
聞いていて心地よい音楽となる努力を、現代の盆踊りを企画運営する自治体は忘れてしまったのでしょう。
確かに、演奏する人間を用意することは難しいでしょう。音響機器のスイッチを押すだけの方がよっぽど楽です。
しかし、それこそが文化を継承するという努力なのではないでしょうか。
……ところで、初対面の挨拶で「趣味は笙を少々」と言ってみたい枝鳥がいます。
お後がよろしいようで。