草野球
よろしくお願いいたします。
目指すも何も楽しい野球ができればそれでいいと俺は思っている。
試合なんて勝っても負けてもいいんだ。
「龍田、龍田!」
「ん、なに?」
後ろから声が聞こえ、振り返れば会社の同僚が片手を振りながら走り俺の横に並ぶ。
「今度するスポーツ用品の宣伝企画のことで話があってさ」
そう言って同僚は企画書を見せてくる。
イメージキャラクターという文字だけしか書いていない紙一枚。
「イメージキャラクターって誰がいいと思う? やっぱり活躍してるアスリート女子って俺は思うんだ」
嘘つけ、俺の頭にその言葉が思い浮かび、鼻で笑ってしまう。
「美人なアスリート女子、でしょ。お前の下心丸見え」
「あーそりゃそうじゃん。ブッサイクな奴を使う会社なんていないって、そういう龍田は誰がいい?」
そんなこと考えてもいない、俺は首を横に振った。
「まだ思いつかないよ、もう少し考えてみる」
会話を切り上げようとしたところで同僚は何かを思い出したのか、俺を真剣な眼差しで見てくる。
「社会人野球に参加、しないのか? プロになるなら絶対こっちの方が有利だ。それをなんで呑気に草野球なんてやってんだ。仕事先のない俺達を社長が拾ってくれたのに恩を仇で返すつもりか?」
できれば耳にしたくない内容を同僚に言われて、俺は眉を下げてしまう。
「俺は、楽しい野球をやっている方がいい」
今出せる言葉を呟くと同僚は呆れてしまうが、彼を置いて俺は退勤する。
俺は、俺は……甲子園に行きたかった。
甲子園を目指していたのが俺だけだと気付いたのは最後の予選大会。
やる気のない守備と打撃、監督はただ戸惑うだけで、その全ての原因は。
「ま、終わったことだし……いっか」
俺の足は公園に向かっている。
右肩で担いだ自社製品のエナメルバッグの吊り紐をしっかりと握って、日常的に使われ始めたLED照明の街路灯が夜の公園を照らしていた。
木製のベンチに腰を深くして座っている中年の男が俺に手を振っている。
胸に『楽』と刺繍された白い野球用のユニフォーム姿で。
「お疲れです。仕事、見つかりました?」
少し皺が目立つようになった中年の男は現役より筋肉が落ちているもののガッチリなのは変わらない。
「お仕事ご苦労さん、仕事はぜーんぜん見つからない。落ちぶれた元選手なんて用なしってとこか」
谷さん、相変わらずな元プロ野球選手だ。
ベンチの背もたれに腕を乗せて、大きな態度で脚を組んでいる。
「過去に何回チームをリーグ優勝に導いたか、日本一だって三回もしてんだぞ」
「そうですね、俺もよくテレビで観てました」
その態度と性格を素直にしていれば少しは就職活動も容易じゃないだろうか。
「ま、今はお前のことに専念する、早速すんぞ。少しの勘も鈍らせねぇ」
「はい、今日もお願いします」
ベンチから勢いよく立ち上がった谷さんは芝生が広がる中央に入っていく。
衰えていない背中を眺める俺は肩に掛けている吊り紐を握りしめて、そっと目を細めた。
「早くミット貸せ!」
人が少ないだけに声の響きが普段より大きく聞こえ、俺は駆け足で芝生に入る。
エナメルバッグから捕手用のミットを取り出して、黒いグラブも一緒に取り出す。
ちなみにすべて自社製品を社員割引で購入したもの。
「なんだスーツでやるつもりか?」
「まさか、ちゃんと着替えますよ」
草野球で着用しているユニフォームをバッグから取り、俺は公園の真ん中でスーツを脱いでユニフォームを着る。
「さ、まずは軽く投げろ」
ミットをはめた谷さんは目測で決めたマウンドとホームベースの間、十八.四十四メートルの位置に腰を落とす。
「マスクとかしないんですか?」
「俺が決めた位置に投げろ、そうすれば当たらないだろ」
もう何を言っても聞かないだろう。
谷さんが見つめる先は谷さん自身が決めたマウンドの位置、俺は急いでそこに走る。
「もっと後ろだ! 高校で野球をやっていたなら距離ぐらい掴め!!」
もう苦笑いしか出てこない、俺は返事をして軟球を握りしめた。
まずはど真ん中、ストレート。
俺は横を向いて左手にはめたグラブを腹部に添える。
ゆっくり落ち着いて、軽く投げる、谷さんの指示通り、投げた。
山なりに浮いた軟球は谷さんが構えていた位置より少し下へ行ってしまう。
「やば」
谷さんは難なく捕ってくれたけど、表情は険しい。
「誤差は許さねぇぞ!」
「はい!」
それから一時間ほど投球練習を行い、谷さんは満足そうに笑みを浮かべて公園のベンチに足を組んで座っている。
俺はエナメルバッグに野球用具を入れて、谷さんのもとへ。
体力、肩、反応と、問題のない谷さんは何が原因でプロ野球から去ったのだろうか。
「谷さん、草野球で満足なんですか?」
「は?」
怪訝な表情を浮かべている谷さんは俺を睨んだ。
それでも俺は問う。
「プロ野球に戻るつもりはないんですか?」
谷さんは投球練習をしていた中央の芝生を眺めて、口を開く。
「ドラフトに選ばれてもおかしくない逸材が草野球でのんびり遊んでる。そんなやつに言われたくねぇよ」
「谷さん、俺はプロになりたいなんて思っていないです」
谷さんは一笑するだけで何も言わない。
「チーム内部で何か」
「龍田、お前は何故プロになりたくないんだ?」
遮るように質問されてしまった。
絶対話すつもりはない様子だ、諦めよう。
「俺は、ただ皆と甲子園に行きたかったんです。プロなんて二の次、高校野球でどうしても出場したくて頑張ってきました。けど、結局叶わなかったので今はこうして野球を楽しんでいるだけです」
「原因は……鈴木だったか」
谷さんは俺の高校時代の同級生、鈴木イチロウに触れてきた。
俺は静かに頷いて、深く鈴木について言えなくて唇を噛む。
「やる気のなさが周りに伝染して、甲子園に行けたはずの高校が格下に一回戦で予選敗退、か」
呆れて笑う谷さんは最後に、
「ま、今度の練習試合に向けてしっかりと調整しておけよ」
そう言って、ベンチから離れた谷さんは俺の肩をしっかりと叩いて公園から出ていく。
肩がジワリとする痛みを訴えていたが、不安が残るような物ではない。
「鈴木……今は何をしているんだろう」
独り言を零した俺はエナメルバッグを抱えて帰路に就く。