三十六、本当の理由と茶碗蒸し・後編
「これでよかったのですか? 御館様」
「構わない。あいつを引き入れるには、まだ時間が足りない」
相変わらず、このお人は恐ろしい。いや、グランエンドの代々の国主は誰だって、この人には逆らえんのじゃ。儂は自分の心の底から、このお人を恐れておるからじゃ。
シュリという男を連れてきて、任務を完了した儂ではあったが……どうやらシュリの引き込みは失敗したらしいの。御館様は不機嫌に違いない。
儂は平伏しながら、ちらりと御館様を見た。このお人を直視できん。目を見ることもできん。
それでも、儂が見た御館様は、不機嫌などではなかった。
「くくく……ようやく俺の右腕たり得る人間が現れたかと思ったが、まだ手に入らんか。あいつも、あの姫の元でしごかれれば気分も変わるだろうよ」
「アユタ様はかなりの癇癪持ちにございます。先にあの男が潰れてしまいませんでしょうか」
「心配はなかろうよ」
御館様は儂の方を見た。儂は思わず視線を外してしもうた。
このお人の目を見たのは、かつて一度だけ。子供の頃に父上に連れてこられてからじゃ。 儂が初めてこのお人を見たとき、心の底から恐ろしかったんじゃ。それ以来、このお人の目を見ることができなくなるほどに。
数週間、このお人の目を思い出し寝られなかったほどにじゃ。
「シュリとアユタの年齢は近い。恋仲になれば良し、そうでなければあやつの癇癪を抑えられれば良しだ」
「なるでしょうか? 恋仲に……?」
「確率は低い。だが癇癪は抑えられる。損はない。あいつをスーニティ……いや、今はアプラーダだったか? あそこに戻す方が駄目だ。あいつは自分で気づいてないが、流離い人として来る際、俺が不老を得たようにこの世界の語学能力を得ている。そこにシュリの人柄も加わって、周りの人間をより良い方向に導いてしまう。
……事実、リュウファも少し穏やかになってしまったのではないか」
儂は思わず身を縮こまらせた。御館様はそれを見抜いておられたか。
確かにリュウファはどこか、丸くなったかもしれない。こちらに連れてくる日常の中で、リュウファの牙を抜いてしまったのかと思ったわけじゃ。
じゃが、御館様は快活に笑われた。
「穏やかな気持ちは良い。あいつはそれすら飲み込み、感情の力とするだろう。
リュウファの力の源は感情の全てを支配していることにあるからな。心配はいらん。言っただろう? より良い方向に導く力があると」
そういうと御館様は、再び本に向かって座られた。
「俺は再び思考に耽る。身を守るためとはいえ、この牢屋に閉じこもってばかりでは退屈でな。引き続き、資料と本を取り寄せて持ってこい」
「は」
「ああ、それとアプラーダの動向には気をつけろ。ニュービストもだ」
「ニュービストも、ですか?」
「そうだ。あそこの王女はシュリにご執心らしい。どさくさに紛れて何をしでかすかわからん。
……以上だ、下がれ」
「畏まりました」
儂は平服の体制から立ち上がり、階段を上っていく。
正直安心しとる。あん人の前に立つんは、恐ろしゅうてたまらんからな。
しかし……シュリか。
「あやつ、御館様の目に適う人間かの」
儂はそう独りごちて、階段を上るのじゃった。