二十三、天啓とチャーハン・後編
ボクは時々不安になる。どうしようも無く胸が苦しくなるんだ。
不安の正体は、シュリくん。
どうしてかというと、それも簡単な話だ。
シュリくんは周りのアプローチに関して全く気づかず、それどころか飄々としていて感情が見えない。誰が好きなのか、誰が嫌いなのかサッパリわからない。
前回のデートの時も、結局最後までボクとシュリくんの二人のデートだと気づかなかったし。
……とか考えてるけど、ボクたちのアプローチを振り返ってみると、どうにも遠回りしすぎてることに気づいた。
テビス王女は外堀を埋めて部下をけしかけてるし、リルは好きな食べ物をたくさん食べて気を引こうとしてる感じがする。ボクだって、最初からデートと言ってないからシュリくんでは気づかなかったのだろう。なんせ、彼は唐変木だからね。全く、罪作りな男だよ。
これが恋……とは全く思えない、思えもしない。
誰が聞いても「それなんて外交手段なんだ?」と言われんばかりの酷い内容だと思う。 だから、ボクは最終手段に講じることにした。
すなわち、親族紹介だ!
と、やる気を出してみたものの、実際の所は違う。
ボクが親族紹介と言うのは、事実の所、今まで所在不明だった母上に会いに行く話だ。
エンヴィー・スーニティ。
ボクの母にして、前領主の側室。聡明で美しい、自慢の母だ。
とは言えども、もう昔の話。会わなくなってから、もうずいぶんと時間が流れた。
昔の記憶も色褪せてきてしまっている。忘れたくない記憶ほど、忘れてしまうと言うのは本当の話なんだね。
でも、もうそれもおしまい。
全ての元凶だった正妻レンハもいなくなって、スーニティは過去の柵から解放された。
ボク自身も、次期領主候補といういらない身分からも解放され、領地の実権はガングレイブにあるものの、不満はない。
ボクが治めても、ギングスが治めても、あの領地では問題が出る。
いっそのこと、別の人に任せるくらいがいいのだ。
話が逸れたね。
ともかく、一人で会う勇気がないから、親族紹介だのと自分の中で言い訳を付けて、シュリくんに話をすることにした。
「シュリくんシュリくん。ちょっと話があるんだけど」
ボクはその日、仕事が終わって後片付けをしているシュリくんの元に行った。
晩ご飯のあと、食堂の皿を片付けて机を拭いている時だ。
「なんでしょうか?」
台ふきで机を拭いているシュリくんが、不思議そうにこちらを見た。
なんだろう、机を拭くというか、家事料理がこんなに似合う男性も珍しいね。
「大切な話があるから、後でボクの部屋に来てくれる?」
そのとき、がしゃんと誰かが皿を落として割ってしまった。
「あーあー、大丈夫ですか?」
「だだ、大丈夫だ。ほんとに、だいじょぶだ」
割ったのは、仕事をしていたガーン兄さんだった。皿の音に気づいたシュリくんは駆け寄って、慎重に割れたお皿を集めている。
どうしたのだろう、ガーン兄さんがこんなポカをするなんて。
「ガーンさん?」
「……ふぐ、ううう」
と思ったら、いきなり泣き出した。押し殺すかのような低いうなり声を上げている……。
「が、ガーンさん!?」
「い、いや、だ、だいじょうぶなんだ。ああ……」
おいおいと泣き続けるガーン兄さんだが、唐突にシュリくんの肩に手を置いた。
その顔は、悲壮というか、だけど歓喜というか……相反する感情がしっちゃかめっちゃかになって、涙と鼻水でグシャグシャになってる。
とんでもない勘違いをしている予感がする。
「い、い、妹を、頼む! あんな妹だが、俺にとっては、か、数少ない家族なんだ! ではな!」
「あ、ガーンさん!?」
ガーン兄さんは涙を流しながら、食堂から出て行った。
残されたシュリくんは、ぽかーんとしている。
「はて……? ガーンさんは一体どうしたのでしょうか?」
シュリくんは不思議そうに首を傾げながら、割れた皿の処理をしている。
そして、ボクはボクで今の寸劇について考えてみたが、結論というか、ガーン兄さんの意図が全くわからなかった。
おっと、話が止まってしまった。
「じゃあシュリくん、後でね」
「はい。わかりました……しかし、ガーンさんはどうしたのか……?」
シュリくんは疑問を呟きながら、仕事を続けることにしている。
さて、ボクはボクで自室に戻ろうか。
食堂を出て自室に戻ると、着ていた私服を脱いで寝間着に着替えた。
もう時間も時間だし、この格好でもいいよね。こんだけラフな格好でも。
そして、自室の机の上に置いてあった手紙を掴んで見る。
「ここに……母上がいらっしゃるのかな」
その手紙はレンハより受け取った書状。
彼女が遠くへ行く前に、私にと託した物だ。
そこに書かれていたのは、ボクの母上エンヴィーとガーン兄さんの母上マーリィルさんの居場所。
居場所に書かれていたのは領主一族しか知らない、教会の場所だ。ここに監禁されていたのか……くそ、もっと早く気づくべきだったのに。そうすれば、なんとか助けられたかもしれないのに。
そこは教会とは名ばかりの島流しの場所。
どうしてこれをボクに告げたのか、最後にどうして教えようと思ったのか。あのステーキと、テビス王女の言葉に心を動かされたのかな。あのレンハが……。
「わかんないや」
ボクはもう一度手紙を見た後、それを机においてベッドに寝転がる。
結局、レンハの目的はなんだったのか。何がしたかったのか。
グランエンドの血脈として、この領地で何をしようとしていたのか。
全部わからないままだ。
「エクレス、いるか」
そのとき、扉を開けてギングスが入ってきた。
「よからぬ噂を聞いてきたんだ……が……」
そして、ボクの寝間着姿を見て固まった。
あ、なんだろう。この嫌な予感。
「ギングス、どうしたの?」
「……そうか、エクレ、いや、姉上にも、とうとうこのときが……」
ギングスは上を向くと、顔を手で覆った。
その指の隙間から流れるのは、涙。
はらはらと涙を流して立っている。
見る人が見たら不気味だ。どうしたっていうのか?
「いや、いいんだ。確かにシュリの野郎は貧弱で貧相だ。だが、できる男なんだ。だから、任せても安心なはずだ、そのはずだ。俺よ! そうして納得しろ!」
「どうしたの?」
「わかってる! わかってるから言わなくていい姉上」
ギングスから姉上と呼ばれるとどうも背中が痒いが、姉と呼んでくれたのは嬉しいので省く。
「シュリを、呼んだんだな。その姿も、そういうことなんだな?」
「は?」
「シュリの野郎を支えて、立派になってくれーーー!!」
ギングスはそう言うと、涙を流しながら去って行った。
……まるで嵐のようだ。いったい何だったんだろう。まさかシュリと同じ、不思議な状況に巻き込まれるとは思ってなかった。
彼らはいったい何を誤解しているというのか……今のボクにはわかりそうにもない。
「エクレスさーん。来ましたよ」
開けっ放しになっていた扉を、怪訝な顔つきでシュリが退けて入ってくる。
「これ、どうしたんですか?」
「わかんない。ギングスが来てこうなった」
「ああ、あの方が。ガーンさんも一体何を勘違いしたというのか……あの方々は、争っていたとは思えないほど仲良くなって似てきましたね」
「争ってたわけじゃないけど……まあ、なんか似てきたね」
仲良きことはなんとやら。
言えば簡単だけど、昔ではガーン兄さんはギングスを裏切っていた。間諜をしていたわけだ。
知られてないけど、知られたときには仲がこじれるかもしれない。絶対に知られないようにしておこう。
ここに来て、仲が悪くなるのはよろしくない。知らないでいた方が良いときだってある。
「それで、僕に何のようなんでしょうか?」
「ああ、そうだったね」
「いえ、寝間着に着替えているので、てっきりもう寝るのかと」
「あはは、違うよ。これは単純に、楽な格好だからこうしているだけさ」
あの服もお気に入りの一つだけど、さすがに日が落ちてまで着続けられるものじゃない。
堅苦しいわけではないが、疲れる物は疲れるんだよね。
「用事というのはこれさ」
ボクはさっきまで見ていた手紙を、シュリくんに差し出した。
「これは?」
「ボクとガーン兄さんの母上がいる場所さ。正妻様……レンハから受け取った手紙さ」
「え? それって……あの性悪妻に追放されたとかなんとか?」
「そういうこと」
「これはガーンさんには?」
「同じ書状がガーン兄さんにも届いてる」
そのとき、ガーン兄さんはまだ会うときではないと、面会を断っている。
きっと人殺しや騙し方以外の生き方を身に付けて、会いに行こうとしてるんだと思う。
ボクは会いたいと思っても会う勇気がなくて、モヤモヤしていた。
「ガーン兄さんは、まだ会わないってさ」
「そんなこと言ってる場合ですか。行方不明の親族でしょ、いつ会えるかもわからないのに、会いに行かないなんて」
「ガーン兄さんなりの決意があるんだ。今は、そっとしておいてあげよう。ね?」
「……家族はいつでも会えるわけじゃないんです。いきなり、会えなくなるときもあるってのに」
シュリくんは暗い顔をして、呟いた。
そういえばシュリくんの家族の話は聞いたことがない。ガングレイブ傭兵団に拾われる前の話は、聞かないな。
「シュリくんには家族が?」
「……いますが、会えません。二度と、会うことができないでしょう」
「それは……」
「いえ、エクレスさんが考えてるようなことはありません。死んでもいない、どこかに連れ去られたわけでもない。ただ、そうですね……。
会えないほど、遠くにいるんです。もう、二度と会えないほど遠くに」
初めて見た、シュリくんの悲しそうな顔。
いつも飄々として、明るく楽しく料理をしてる人。
この顔を見て、ボクは泣きそうになった。
好きな人だとか色々言ってても、ボクはこの人に関して何も知らない。
どうして家族と会えないのか、離ればなれになった理由はなんのか?
そもそもシュリくんはどこから来たのか? 何が好きで、何が嫌いなのか?
家族構成は? 料理以外の趣味は?
好みの女性は? 将来の夢は?
ボクはシュリくんのことを何も知らない。
何も知らず、好きだと言っていた。
なんて恥ずかしいことなんだろう。なんて惨いことをしてたんだろう。彼に好意を抱いてるなんて言葉を使って一方的な思いだけをぶつけて、彼のことを何一つ知ろうとしていなかった。
これを恋愛だなんて言えば、ボクは最低な人間になるだろう。
相手のことを思いやらない恋愛は、ただの押しつけなんだから。
「シュリくん、あのね」
「いえ、いいんです。もう吹っ切りました。吹っ切った……つもりです」
シュリくんは天井を見上げ、目を閉じた。
「あの日、ガングレイブさんたちと夢を語らった日。僕は決めたんです。ガングレイブさんたちの夢を、一番近くで見ると。一番近くで支えると。だから、僕はあの人たちと一緒にいるんです。一緒にいたいんです。一番近くで、あの人たちの輝きを見ていたい」
ああ、もうその言葉でわかった。全て、わかってしまった。
シュリくんは自分の居場所を見つけてる。自分の立場を作ってる。自分で、自分を守るための術を見つけてる。
この大陸で生きるために、必死になっていることが。
両親も遠い場所で会うことができず、頼れる者は傭兵団の仲間たち。
命を賭けて腕を振るい料理を作る。
シュリくんの今までの苦しみは、想像を絶するだろう。
失敗すれば、死ぬかもしれない勝負に勝ち続けてきたんだ。
戦場で何時死ぬかもわからない恐怖を押し殺して、生きてきた。
だから、ボクはシュリくんが好きなんだ。
ボクにそれを言う資格が無いのはわかってる。それに、これだけ強く強く結びつきがあるのなら、ガングレイブたちから引き離すのは無理だ。
テビス王女が外堀から埋めようが、それも無理だ。外堀を埋めても、シュリは空を飛ぶように逃れる。どうやっても捕まえることなんてできない。
でも、諦められない。この胸に浮かび上がった気持ちに、嘘は吐けない。
どうすればいいんだろう……ボクは自問自答してみるが、今すぐには答えが出せそうにはない。さすがに、男のフリをして内政をしてきた経験から、瞬時に思考することができても、これだけ大きな難問の答えが出ない。
それが、自分の恋心と天秤を掛けられれば、なおさら経験がなさ過ぎて思考が回らない。
「それで、僕にその情報を言って、どうして欲しいのですか?」
ここでシュリくんは、至極真っ当な疑問をぶつけてきた。
そうだ、ボクはシュリくんにお願いがあって呼んだんだ。あまりにも話がずれすぎた。
ここらで話を整理する必要があるね。
「ああ、そうだ。そうだね。話を戻そう。ごめんね、話がずれすぎた」
「構いませんよ。そもそも、話をずらしたのは僕が原因ですから」
「では……改めて言うね。ボクは母上に会いに行こうと思う」
「はい」
「それにシュリくんが付いて来てほしい」
ボクの言葉に、シュリくんはキョトンとした顔をした。
まあ当然だよねぇ……行方不明の親族に会いに行こうというのに、他人に付いて来てと言うのは不自然だ。いや、シュリくんはもはや他人と呼べないほど親しいけど、ここは便宜的にわかりやすく言おう。
だけど、シュリくんはすぐに微笑むと言った。
「わかりました。出発は、明日の朝となりますか?」
今度はボクが驚く番だった。
「そんなにあっさりと決めるの?」
「え? あっさり? いえいえ、今の間にいろいろと考えました」
「たとえば?」
「……ほら、ガーンさんたちの持ち回りの料理番に関してとか」
「その間、実は考えてなかったね?」
「はい……ただ、困ってそうだから即答しただけです……」
次にボクは笑う事となった。シュリくんは、この時代に合わないほど優しいところがある。そして、不自然に義理堅い。
いや、これらの言い方は正しくないね。
シュリくんは、お人好しってこと。優しいってこと。
そんなシュリくんにいろんな人が、惹かれるんだろうね。危うさも、あるけど。
ボクは苦笑した。全く、シュリくんは……。
「あははは。シュリくん、それならお言葉に甘えてお願いするよ」
「かしこまりました、とね」
シュリくんはそう言って、部屋を後にした。
残されたボクは、もう一度だけ手紙を読んで、情報をおさらいする。
この領地を治める一族として、知っておくべき情報。
城下町郊外の森にある教会。もともとは領主一族が非常事態のために作ったとされる避難場所。
今となっては追放先というか、島流し先になってしまってる。
話にしか聞いたことがないけど。多分、その理由としては、話に聞いたときにはすでに、母上たちが幽閉されて過剰な好奇心を抱くことがないように、配慮というか誘導されていたんだと思う。
「……母上」
幼い頃の、消えかけている幻のような儚げな記憶。
ボクがまだ男のフリをする必要が無かった頃、あの頃はまだ母上がいた。
でも、何時の頃か母上は消え、追放されて、ボクは男として生きることになった。
その母上に会える。
「……会いに行きますよ。母上」
ボクは手紙を机の上に投げ、ベッドに横たわる。
明日、明日会いに行ける。
ボクは興奮と不安と喜び……なんとも言えない感情が頭の中をグルグルと渦巻いて、次第にそれを考えることに疲れて寝てしまった。
次の日。
馬に乗ることを渋ってたシュリくんを宥めて、出発した。シュリくんは馬が苦手で馬もシュリくんが嫌いらしく、彼に馬に乗ってもらうには説得が必要だったよ。
城下町を抜け、郊外に出て、森の中を進む。
朝に出発したので、時間的にまだまだ昼には速い頃だ。ペースが速いのも、一因だよ。
シュリくんと、まるで二人で遠出をしてるみたいで、今は楽しい。
後ろでシュリくんは、ボクにしがみついてちょっと怯えてるけどね。そんなに馬に慣れないのかな? 出発するときも、少し躊躇ってるようにも見えたし。
でも、一つだけ気に入らないことがあるなら。
「……」
この、ウーティンという女性の存在だ……!
ウーティン。彼女はテビス王女の護衛にして諜報官。情報を集め、盗み、作戦工作を行う特殊部隊の出身。
というのは知ってるけど、最近の彼女を見るとそれを疑ってしまう。
確かに普通にしてるところを見ると、ただ者ではない雰囲気がするのは認める。
しかし、彼女はシュリと絡むと途端に駄目人間に変わってる節がある。
たとえば会議をしているとき、シュリが彼女に差し入れをしてるところを見たことがある。今まで、そこに意識を向ける必要もなく気にしていない場所に、彼女が突っ立っているのを見たときには驚いたけど……。
そして、彼女は差し入れをもらうと一心不乱に食べている。今まで気配を消してまで護衛してたのに、気配を消せてないんだよ。
周りの目を全く気にせず、ご飯を食べ続けている。あれは……同じ女性として駄目だろと思ってるよ。
「……」
「……私、護衛」
ボクと目が合ったら、聞いてないのに理由を語るウーティン。まるでそれ以外の解答なんて用意してませんよ、と言わんばかりの解答に、ボクは頬が引き攣る感覚を覚える。
そう、彼女はテビス王女の命令で、ボクたちと一緒にいる。
なぜ一緒にいることにしたのか、詳しい理由は不明だけど。
多分、あの幼王女……ボクとシュリくんが二人きりになるのを阻止しているんだろうな……。
ちょっと憎らしっ。
まあいい。気にするまい!
「ほらシュリくん、こっちだよ」
「は、はいぃ……」
今は怯えるシュリくんに、腰に伸びている手をちょうど良い位置に持ってきておく。
なんて言うんだろうね。好きな人にくっついてもらってるって思うと……。
はしたないが興奮する。
駄目だ駄目だ、この間まで男として生きてきたといえど、ボクは女。
清楚な淑女でいないとね!鍛え上げた腹芸で、悟らせないよ。
「大丈夫?」
しかし、シュリくんの様子がいちいちおかしい……。さっきから顔をしかめてるし。
「いえ、尻が痛いです」
あ、なるほど、そっちか。
確かに、馬に乗り慣れてない人は、こういうことを言う人が多い。
まず、乗り慣れてないから、痛みや衝撃を体から逃がしたり分散する方法を知らない。
これは乗ってるうちに身につくことで、そもそも乗ってない人にはわからない感覚だったりする。だから、シュリくんがそういうことを言うのも、ある種の理解ができる。
と、同時に一つ疑問が浮かんでくる。
「シュリくん、馬に乗ったことない?」
ボクの問いに、シュリくんは恥ずかしそうに頭を縦に振った。
「ああ、馬に慣れない人なの」
「……まずいですか?」
「うん、この大陸の人間の常識からしたら、格好悪い」
だから練習をした方がいいよ、と伝える前に気づいた。
後ろから感じるシュリくんの様子が、とても落ち込んでいるように思えたことに。
マズいことしたな……ボクは頭を抱えたくなるほどに悔やんだ。
シュリくんだって男の子だ。できないことに恥ずかしいと思う、人並みの気位はあるのに。あまりにも無頓着な言葉を言っちゃったな……。
謝ろうと思って後ろを見ると、シュリくんは泣きそうだった。マズい、早めにフォローをしないと。
「あの、シュリくん」
「はい……?」
「男は、涙を見せるもんじゃないよ」
あれ? 何か違う? 何が違うのかわからないけど、間違えたような?
でもシュリくんは、なんとか持ち直したようだった。
でも、その笑顔はどこか虚ろだぞ?
「エクレスさん。格好良いですね」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
女性に格好良いなんてのは、あんまり言ってはいけない言葉だと思うけどね。
男として生きてきた年数の方が多いから、許せるというものだよ。
ボクの機嫌が良くなる一方で、シュリくんの声の調子が下がってきている気がするけど、なんでだろうか?
「……それで、ウーティンさんは何故ここに?」
そして、シュリくんの言うとおり、ウーティンは何故ここに?
さっきから黙りっぱなしだし、護衛と言うものの道中の危険が無いから存在意義を疑ってしまう。
これに対して、ウーティンはまたしても白々しく答えた。眉一つ、顔一つ動かさずに。
「王女様が、いざという、ときのため、にと」
「いや、その王女様がいざというときのためにあなたがいるのでは?」
シュリくん。君の意見が、正解だと思う。ボクもそう思う。
ウーティン、君はテビス王女の護衛のはずだよね……?
ボクとシュリくんがそんな疑問を持った顔をウーティンに向けていたが、ウーティンはウーティンでもう一度答えた
「……いざというときの」
「わかりました。守ってくれるなら文句は言いません」
シュリくんっ。そこは! そこは諦めたら駄目だと思う!
ほら! ウーティンがシュリくんの角度からは見えないようにガッツポーズしてるよ!
冷や汗も流してるみたいだから、問い詰めたらボロが出てたはずだよ! もっと聞こうよ! そうしたら真意がわかるかもしれないよ! 彼女、案外チョロい部分があるよ!
そんなボクの心の叫びも届かず、シュリくんはまあいいかという態度で流していた。
うん、正直流したい気持ちはわかるけどねぇ……。関わっていたら面倒なのはわかるけどさ……。正直不本意だが、顔には出さない。
出しても、仕方ないからねぇ。
「それでエクレスさん。今回はガーンさんとエクレスさんのお母さんに会いに行くという予定ですよね?」
「うん」
シュリくんはウーティンへの追求を諦めたのか、ボクの方へ話を振ってきた。
しかし……改めて考えると。
「……ボクも不安なんだよ。母上とは随分、会っていない」
ボクの記憶にあるのは、男性として教育される前、そしてレンハに目を付けられて領地から追放される前の母上の姿だ。
今でも覚えてる……覚えてるけど、記憶が薄れてきている。
母上とは二度と会えないと思っていたから、せめて記憶に残っている母上だけは忘れまいとしてきた。
でもそれだって限界がある。人間、辛い記憶は繰り返さないために残ってしまうが、楽しい記憶は段々と忘れてしまう。
ボクは母上とどんなことをしてたのかも、薄れてきてる。
「どんな顔をすればいいか、わかんないんだ」
だから、久しぶりに会う母上と、どんな風に話をすればいいんだろうか?
近況のこと? ボクのこと? 今までのこと?
いや、母上が望んでいる会話ってなんだろう?
そもそも、何故会おうとしたのだろう? こんな悩みが出るのは、本当は心の底から会いたいと思ってないからじゃないかって。
今だって、グルグルと思考が回るだけで、母上と何を話せばいいのかわからない。
こんな状態で、ボクはいったい何をすればいいんだろうか?
「笑えば良いと思いますよ」
そんな疑問に、いつになく真剣な口調でシュリくんが言った。
「ただいまか、おかえりか、久しぶりか……ともかく、笑って挨拶をすることから始めてはいかがですか?」
笑って、挨拶をすることから……。それができないから、こうして言っているのに……。
「……そんな簡単な話でも……ないけど」
「そりゃそうでしょう。僕は難しい話をしました。簡単な話なんてしてません」
そんな困ったような、落ち込んでいるような雰囲気のボクに、シュリくんは言った。
「でも、難しいからって理由で、やらない理由はないと思います。それは仲直りのためや関係の修復のためだなんて思わないでください。あくまで、自分の決着のためです」
「決着?」
「自分の中に踏ん切りをつけるんです」
踏ん切り。昨晩も、シュリくんはそう言っていた。吹っ切っているはずだと。
シュリくんもそうやって、故郷に帰りたいという気持ちに踏ん切りを付けて、ガングレイブたちと一緒にいることを選んだのだろうか?
それがわかるから、シュリくんの言葉には説得力と重みがある。
「まずは、過去の自分と決着をつけてください。決着なんて言いますが、憎しみ合ってるわけじゃないなら、自然と距離は縮まりますよ」
自然と……距離が……。
そうだね。まずは、第一声でこちらから歩み寄らないと、相手との距離は縮まらない。
ボクは母上を恨んでない。母上だって、ボクを恨んでは無いと思う。ボクのせいで追放されたわけでもないが……心のどこかで、ボクがいなければ、ああはならなかったと、自己嫌悪をしていたところがあった。
だから、会うのが怖くてたまらなかった。
「お前のせいで」と言われたら、ボクはもう立ち直れないから。
「生まなければよかった」と言われたら、ボクは死んでしまう。
でも、会わないとわからないんだ。昨晩、シュリくんだって言ってたじゃないか。突然、会えなくなることもあるのだと。
会える今を、大切にしないとね。ボクは気合いを入れて前を見た。
「……うん、ありがとうシュリくん。ちょっと勇気出た。ありがとうね」
踏みだそう。
ボクはシュリくんにお礼を言った。落ち込んでも、死にそうになっても。
シュリくんなら助けてくれると思って。
森を進むと、開けた場所に出た。唐突に木漏れ日で遮られていた日光が、何にも遮断されること無くボクの目に届く。目が慣れると、そこには教会があった。
サブラユ大陸にかつて栄えてた、『神殿』と呼ばれる宗教。
今では廃れてしまって、細々と各地に点在するだけだけど、ここまで綺麗に残っているのも珍しいのでは無いかと思う。
「ここは何を崇めてる教会なんです?」
ボクの後ろから顔を上げたシュリくんが聞いてきた。
「神様でしょ」
何を聞いてるんだと言う顔で、ボクは答えた
「いえ、なんの?」
「? 神様は神様だよ。他にいないでしょ?」
あれ? すごい齟齬を感じるけど……。
「名前とか、教義とかあると思いますけど」
ああ、そういうことか。シュリくんが言いたいのは、何の神様をどういう教えで崇めているのかと話だろうね。
「こんな世の中だから、とりあえず神に祈ってるだけだよ。教会をまとめてた総本山も昔はあったけど、今はもうないね。時の大国が、宗教献金を嫌がって攻め滅ぼしたんだ。一応、教会は残ったけど、献金はないし信者もいない。今では、一握りの敬虔な信者が、自営で教会を維持する程度さ。それでも、それでやれてる神父さんは、みんなから慕われてるし、孤児を育ててたりもしてる」
実際、彼らの存在は国としても助かってる部分もある。見返りを求めず、清貧の心で社会貢献している、素晴らしい人たちだ。
いつの日か『神殿』の教えを、再び大陸に広めるんだと日夜頑張っている。
その教えも、単純なものだ。だから浸透している地域もある。
あいにく、ボクはその教えがなんなのかは知らない。知ろうとしたときもあったけど、政務が忙しすぎて調べられなかった。助かってるのは事実だけど、それに報いることができない自分を、何度も恥じたものだ。
「でも、今から行く教会は、教会って名前をしてるだけで、実際は領主一族の隠れ家的側面が強いね。そして、今ではボクの母上とガーンの……兄さんのお母さんが囚われている場所さ」
そう、この教会は抜け殻。今では神父も修道女もいない、形だけの建物にしかすぎない。
この事件が終わったら、教会に神父を呼んで、きちんと援助をして孤児の世話や教育をお願いしたいな……。とかも思ってる。
その前に、会わないといけない人がいる。母上に、会わないといけない。
気が重い……ついさっき、決意を固めて会おうと思ってたのに。
シュリくんはさっさと馬から下りるが、ボクは下りられなかった。地面と足の距離が遠く感じる。ここから下りたら、奈落に落ちてしまうんじゃないかと錯覚するほどだ。
「エクレスさん?」
シュリくんは心配そうにこっちを見て言った。
「……会うのが怖いな、やっぱり」
それに対して、ボクは情けなくて、本当に情けなくて弱い奴で。
苦笑して、笑って誤魔化して、シュリくんから優しさを引き出そうとして。
こんなに弱々しくて情けない言葉しか出なかった。
相手の善意を利用して、ボクは可哀相な奴を演じる。自己嫌悪で死にそうだった。
「エクレスさん……」
それでもシュリくんは優しいから、困った顔をして心配してくれている。
本当に情けない……。
だけど、そんな空気を吹っ飛ばしたのは、突如として教会から出てきた女性だった。
本当に、あっという間。
教会の扉を僅かに開けてこちらを見ていたのか、いきなり扉を開けて、こっちに走ってきた女性。
その女性はボクに近づくと、顔を上げてボクを見た。
「エクレス?! エクレスなの?!」
その女性は怒濤の勢いでボクに問うた。
「え? え?」
いきなりのことで、ボクは何も答えられなかった。困惑してしまうだけだった。
でも女性は、そのことに気づくと、すぐに笑顔を浮かべて言った。
「アタクシよエクレス! エンヴィー・スーニティよ!」
エン……ヴィー……。
それって確か……え? まさか……?
「は、母上、なのですか?」
「そうよ! エクレス、エクレスなのね……よかったぁ……あえて、よかったぁ……」
母上は、そういうと泣き崩れてしまった。馬の足下で膝を突いて、手のひらで顔を覆って泣いた。でも、悲しさとかじゃ無くて、うれしくて笑顔で、ポロポロと涙を流していた。
「あなたまで追放されたのかと……思ったけど……! 違うみたいだし……! 無事で、本当に……!」
ああ、ボクは何を心配する必要があったんだろうか。
何が憎まれているかもしれない、だ。お前の母親はそんな人だったのか。
違うだろ、見てみろ。
ボクの母上は、子供の無事を確認して泣いてくれているじゃないか。
笑顔で涙を流しているじゃないか。
会えて嬉しいって、泣いてくれてるじゃないか。
不幸じゃないって、安堵してくれているじゃないか。
何を不安がることがある。
ボクは、あれだけ動かなかった体を動かし、馬から下りた。
そして、母上を抱きしめる。
記憶にあった母上よりも小さくなってしまったように思えたけど、これはボクの体が成長しているからだろう。
母上の、ボクと同じ銀髪がくすみ始めているのは、年月と苦労を感じる。
でも、やっと会えた。会って、抱きしめることができた。
「母上!!」
ボクも、母上と同じ、笑いながら泣いていた。
笑って泣いて、再会を喜べた。
母上、ようやく会えました。
あなたと会って、話したいことがたくさんあります。
あなたと別れさせられてから、領地を切り盛りしてきました。
必死に、領地を安定させました。
元凶のレンハはもういません。
弟との確執もありません。
兄との関係を表に出して歩けています。
夢に見た、領地の問題が解決した日が来ました。
好きな人と、来ました。
でも、ボクの口からは泣いた事による嗚咽しか出なくて。
今は、寂しさ全てを吐き出すべきだよと、ボク自身に言われてるみたいで。
ボクは、泣き続けた。
言いたいことは山ほどあるのに、嗚咽しか出てこないけど、ボクはそれでも良いんだと思ってる。
時間はこれから、山ほどあるのだから。
ボクと母上は一通り泣き終わったら、シュリくんに連れられて教会に入った。
「泣くのはそこまでにして、そろそろ落ち着いて話をしませんか?」
そんな風に紳士に言われたんだけど、シュリくんらしくないなと思った。彼だったら、最後まで見ていてくれると思うんだけど。
でも、間の良さと優しさはとても、ありがたかった。泣いてるばかりじゃ、せっかくの再会が台無しだからね。
教会に入ってみると、中は清掃されていて清潔に保たれている。
教会らしく、長椅子がいくつも並べられ、その先に神父が立って教義を論じる台がある。
その横にいくつか扉があり、おそらくあそこには書斎や私室、厨房があるはず。はず、というのが、又聞きした話で、確かだと言えないから。
ともかく、中を進んでいると扉の一つが開いて、一人の女性が出てきた。
……ああ、また、懐かしい顔だね。記憶にある女性だ。
「奥方様、いきなり外に出てどうなさ……!! まさか……エクレス様……ですか」
そうだよ、ボクはエクレスだ。
「そうよマーリィル!」
そう、彼女はマーリィル・ラバー。ガーン・ラバー兄さんの母上。
僕らの父上にして前領主のお手つきになった館付きのメイドだった人。
ガーン兄さんを産んだ後は、側室とならずに周囲に極力秘密にしていた人。
しかし、その影響力に対して油断しなかったレンハによって追放された人。
美しく、聡明で淑やかで、幼い頃にはこの人の人柄に憧れたこともあった。
「エクレスが生きてたの! 何でか男服だけど、無事だったの!」
「そうですか……よかった……です……!」
そんなマーリィルも、ボクの無事に泣きそうになりながら喜んでくれていた。
しかし母上よ。確かにボクは男服が好きだけどね。昔に比べたら遙かに女らしくなったのよ。それを説明するのは……骨が折れそうだな……。
「さっそく、お茶をご用意致します! そちらへおかけください」
マーリィルはそう言うと、淀みない足取りで奥へ向かった。
ボクの隣を見ると、シュリくんは不思議そうな顔でそれを見てる。
これは、誰だかわかってないね?
「シュリくん、あの人はガーン兄さんの母上だよ」
そういうと、シュリくんは驚いた顔をした。いやいや、ここでガーン兄さんの母上にも会うと言ってたでしょうに。
でも、そうだね。ガーン兄さんの母上、マーリィルは一人の子を産んだとは思えないほどに若々しくて、清廉に見えるお方だ。一目で気づかなくても仕方がない。
ていうか……久しぶりに見ても、昔と全然姿が変わってないように見えるんだけど……老化が全く感じられないのは、ボクの目はおかしくなったのかな? どうなんだろうか。
ボクたちは用意してもらった机と椅子と、紅茶セットをありがたく思いながら、椅子に腰掛けた。
「エクレス、こちらの殿方は?」
そして、落ち着いたところで母上がボクに聞いた。
そういえば、全く説明してなかった……。
「母上。この人はボクの恩人、シュリ・アズマくんだ。彼のおかげで正妻の……レンハ様の悪事を暴くことができました」
ボクが紹介している横で、シュリくんはどんどん紅茶を飲んでる。
この子、時に鋼鉄の心臓を発揮するよね。普通、この状況で紅茶をがぶ飲みする? そんなに喉が渇いてたの?
「そう……あのお方は、とうとう失脚なされたのね……」
でも、母上は全く気にせずに話を進めていた。こっちもこっちで、大らかすぎるような気がしないでもない。
「……アタクシはね、もともと側室。権力闘争なんて向いてない。どちらかというと、内政が好きな学士でしかなかった。それが領主様の目に止まって、エクレスを生んだ」
それはかつて、父上から聞いたことがある。
元々母は、女性ながらも勉学が好きな、変わり者の学士だったそうだ。女性の学士は珍しく、その働きぶりから父上の目に止まったと。
「エクレスが無事なら、自分の不遇を我慢できるのよ。幸い、エクレスはアタクシの才能を受け継いでくれたみたいだから、そう簡単に切り捨てられないと思ったから」
事実、ボクは母上の才能を受け継いでいる。頭の良さ、機転、記憶力……ボクはとても恵まれている方だ。
母上の安心している表情から察するに、その言葉に嘘は無いんだと思う。
だって、ボクは現実に父上からも、敵視するレンハからも切り捨てられなかったのだから。
「心残りは、最後にあの人と話がしたかった」
母上は、俯いて目線を下げた。
「アタクシとマーリィルを切り捨ててスーニティの実権を握ること、そこにどんな意味があったのかって。そんなことしなくても、エクレスに領主跡継ぎの継承権を破棄させたし、ガーンには継承権を主張させるつもりはなかった」
それは……。
「それはおかしいですね。普通だったら、自分の息子が権力を握れるならそうするのでは?」
ボクが次の言葉を続ける前に、シュリくんが疑問をぶつけた。その質問はごく当たり前というか、思って当たり前。
権力を掴めるのにどうして破棄させようとしたのか? という平民の考え方だ。
間違ってない。シュリくんの疑問は、何一切間違ってない。
「はい。普通はそうです。ですが、私も奥方様も、権力を握りすぎることを恐れておりました」
それに対して、マーリィルが答えた。
権力を握りすぎることを恐れた。この時代では荒唐無稽というか、理解できない考え方だと思う。
「恐れる……ですか?」
「シュリくん、だったよね。たとえばだけど、君はお店を経営しろと言われてできるかい?」
「できると思います」
「へえ、何を売るの?」
「料理を。これでも料理番の長をしてます」
「なるほど。“商品”は問題ないね。なら、“事務”や“会計”に“仕入れ”とあるけど、全部一人でできるの?」
母上の質問の意図を理解したのか、シュリくんは首を横に振って答えた。
「それは厳しいですね」
「そうでしょ? シュリくん、一つの店を回すには、一人が全てに精通するか、一つの分野に精通した店員たちと協力する必要がある。エクレス、ガーン、ギングス様……みんな、どれかの分野に精通してて、他の分野に対する適性が欠けていた」
実際に言われると、なかなかキツいものがある。母上の言い分は正しい。的を射てる。
ボクが得意なのは内政。
ギングスが得意なのは軍事。
ガーン兄さんが得意なのは情報収集。
誰か一人が権力の頂点に立っても問題は起こってたろうし、実際にそうなる前から問題は起こってた。血筋の問題に絡んでたから、更に複雑な事態に陥ってたと言える。その結果が、権力の暴走による領地存続の危機だ。
母上はそれを、早い段階から見抜いていた。領主の子供の才能にはバラツキがあり、その差が大きすぎると。
ガーン兄さんのそれは、そもそも後天的な訓練で得たものであったとしても、どのみちボクとギングスにはできないことだ。
だから、三つの派閥もしくは二つの派閥に領地が分かれる前に手を打とうとしていたわけで。
「それでも、ギングス様には救いがあった。この戦乱の世、軍事に長けた領主は臣民から支持を集めることができる。その影を、エクレスとガーンで埋めることができた」
そう語る母上の意見には、頭が上がらない。
戦国の世である現在なら、ギングスに救いがある。平和な世なら、ボクに救いがあっただろう。
生きる時代を、それぞれが間違っていたというの? こんな理不尽な話ってあるのかな? そう思ってしまう。
「つまり、母上はギングスを立てながらも、ボクとガーンが支える形にしたかったと?」
「そうね。そういうことになるわね」
母上の考えがわかって、ボクは少し安心した。
ボクやガーン兄さん、ギングスの能力を正確に見て、考えていてくれたことに。
それと同時に、レンハと父上には怒りが湧いてくる。
母上の言うとおりにしていれば、少なくともあんな混乱は起こらなかっただろうし。
母上はボクが物心つく前に追放されてたから、父上たちとどんな話をしていたのかはわからないけど。
そうすると、シュリくんに出会えていただろうか?
これについては、わからない。
「それで、今は誰が領地を治めているの?」
ボクの思考を遮るように、母上は言った。
その言葉に、ボクは困った顔で言葉を詰まらせることしかできない。
「それは……」
どう言えばいいんだろう? 今ではボクたちは幹部で、実権を握ってるのはガングレイブだよなんて、言えない。
ここまで、母上の考えを聞いたボクとしては、今は三人で治めてるって言いたかったし。
「うちの団長です」
そんなボクの葛藤を感じ取ってくれたのか、シュリくんが言った。
「正妻レンハさんの失脚の後、ニュービストから干渉が起こりました。ギングスさんはレンハさんの息子であるから、その後に治めるには問題がありますし、エクレスさんも女性に戻ることを望み、ガーンさんはそもそも治める気がありませんし、生まれから考えると反発も起こることから、暫定的にうちの団長が仕切ってます」
「そう……スーニティの領地は、傭兵団に奪われたわけね」
言いにくかった全てをシュリくんが話すと、母上は肩を落として言った。
ごめんなさい、母上。ボクたちがキッチリと領内を安定できなかったから、こんなことに。
自己嫌悪に陥りそうになったボクを前に、母上は続けた。
「まぁ、これも時代の流れなのかも知れないわね。できれば娘たちに、この戦乱を渡っていってもらいたかったのだけれど。
それでシュリくん、その団長さんは信頼できるの?」
「できます」
即答だった。母上の目を見て、真っ直ぐ、真っ向から告げた。
「僕はガングレイブさんを信頼しています。あの人がいなければ、今の僕はありえませんでした。暫定的に治めてはいますが、ガングレイブさんは将来的にこの大陸を平定して、平和な世の中を実現させるべく、行動しています」
シュリくんの言葉には迷いがなく、躊躇いもない。
というよりも、芯がブレないと言った方が良いかも。
シュリくんはガングレイブに全幅の信頼を置いて、その料理の腕を振るっている。
ガングレイブもシュリくんを大事な仲間として認めて、背中を任せている。
その信頼関係には疑う余地が入る隙間がないほどだよ。だから、シュリくんは料理に神経を注ぐことができているんだろう。
羨ましい。信頼できる部下を持つガングレイブを。信頼できる上司を持つシュリくんを。
だが、それに対して母上は真っ正面から、鋭い目つきをして言った。
「その内容を、君は知ってる?」
これに対して、シュリくんは、
「詳しくは知りません。僕は料理番に過ぎませんから」
と、即答。
「それは思考放棄ではなくて?」
この詰問に対しても、
「僕はできることをしてるまでです」
と、迷いなく答える。
ほんと、シュリくんは鋼の心臓を持ってるよね……。ここまで圧力をかけられて、すんなりと答えるんだから。
そこから数秒間、互いに正面から向き合ってたけど、すぐに母上が鋭い目つきを緩めて、
「……ふふ、ごめんね。意地悪なことを言って」
謝罪をした。
「つい、ね。でも、これで良かったの」
母上は天井を見上げ、呟く。
「娘たちの誰かが指揮をするにしても、どこかで歪みは出てたでしょうから。いっそ、誰か別の人を立てて、それを補佐するのがいいの。
あなたが料理を得意と言って、料理の面で補佐してるように」
さらに母上は微笑んだ。
「それにしても、あなたは芯を持ってるのね。できることをする。できないことを素直に他人に任せる。それがどれだけ難しいことか」
「そうでしょうか……?」
シュリくんは不思議そうにするが、これが結構難しいことなんだけどな。
権力者の回りには、必ず権力を笠に着て、自らの欲望を満たそうと暴走するバカが必ず出てくる。それが能力の無い人間なら、弾いて終わらせることもできるよ。でも、そいつに生半可な能力があったりしたら最悪だ。
そいつにうっかり仕事を任せると、そこから組織が腐る可能性がある。なんせ、金と権力と利益に目がない、害しか無い。任された仕事をほっぽり出して、何をしでかすかわからないし、評判だって下がる。
もしくは、全て自分でやろうとして抱え込んで、周りに信頼できるものを作らなかった領主の話もある。権力争いの末、手に入れた領主の座の保持に固執して、手柄を得ようと全て一人で行おうとし、潰れてしまう。
だから、仕事熱心で領内に対して理解があり、忠誠心のある部下を率いることは、権力者なら誰もが夢見ることだ。
「そうよ。権力を握ったらあれこれ自分の力で、なんて考える人がほとんどだから。実務や事務を任せられる、信頼ある部下を得ることすら難しいもの」
そして母上の言うとおりで、ボクもギングスも、完全に信頼をおける部下という者を得られなかった。ガーン兄さんは部下と言うより協力者だし、結局はギングスにスパイ活動をしていた。
「ありがとうね、シュリくん。こんなおばさんの八つ当たりを、真っ正面からうけてもらっちゃって」
母上は言いたいことが全部終わったのか、スッキリしてる。
八つ当たり……か。母上も、苦心してたんだろうね。
「マーリィルも、黙ってないで何か言いなさいな」
「はい。ですが、そろそろ晩ご飯の準備をしなければなりません」
あれ? もうそんな時間?
外を見ると、確かに暗いな……。日が落ちて、帳が下りようとしている。
「ちょっと待っててください。今回は僕が作りましょう」
シュリくんが意気揚々と名乗り出た。
「いえ、お客様にそんなことをさせるわけには」
「いいのよマーリィル。せっかく気を使ってもらったのに、甘えないのは逆に失礼よ」
ナイス母上! 久しぶりにマーリィルの料理を食べたい気がするけど、ここはシュリくんの料理を食べてもらうチャンスだ!
シュリくんはさっさと厨房に引っ込むとさっそく調理に取りかかろうとしている。
今、久しぶりに、母上とマーリィルとボクの、三人が揃った。
できればガーン兄さんも来て欲しかったけど……今回は仕方ないよ。
「奥方様。一つだけ、エクレス様にお聞きしたいことがございますが、お許しいただけますか」
「いいわよ」
「では……エクレス様。ガーンは……お元気ですか?」
マーリィルはおずおずと聞いてくる。
「あの子には愛情を注ぐことができなかった。いえ、注ぐ時間を取ることができなかった。だから、あの子が今、笑顔でいるのか、元気なのか、何をしているのか……お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ガーン兄さんは、今は楽しそうに料理修業をしているよ」
「料理、ですか?」
「そう、料理だよ。」
ボクはここまでのことを簡単に説明した。
領地での事件のあと、ガーン兄さんが諜報活動を止めたこと。
何をしたいんだろうと思ってたら、シュリくんの下で料理修業をし始めたこと。
ガーン兄さん曰く、「昔からの約束」であったこと。
いろいろと、ボクが知っている範囲全てを教えた。
すると、マーリィルは涙ぐんだ。
「そう、ですか。あの子が、暗いところから光の下に出れることを……」
ガーン兄さんは、継承権を与えられずに諜報官としての訓練ばかりをあてがわれ、ずっと情報を裏方で集め、汚いことだってする仕事をしてきた。
だから、マーリィルに言わせれば、料理人としてお日様の下で恥じることのない仕事を身に付けているのが、嬉しいそうだ。
「そうなの。それはよかったわ」
「ええ母上」
「しかし、あのシュリという子はただ者じゃないわね」
母上は腕を組んで言った。
「アタクシを前にしても尻込みしないし、自分にできることとできないことの線引きがキッチリしてる。そして、考え方もしっかりしてる。
話してみて思ったのは、ああいう飄々とした態度は性格だと思うけど、その根底には高度な教育をされているように思えるの」
「教育……ですか?」
「この場合は洗脳とか調教じゃないわよ。そうね、教育というと言葉が悪いから、学問を修めて知識を深め、頭の回転を鍛えてる、と言えばいいのかしら」
「ああ……」
母上の意見にも頷けるところがあるよ。ボクは納得した顔をした。
確かにシュリくんは、飄々として楽しい人だけど、根底にある知力は大したものだと思う。
料理に関する知識もさることながら、聞いたところによると魔工や魔法にもアドバイスができるほど知識力や応用力があると聞く。そのおかげで、リルとアーリウスも助けられたことがあるのだとか。
料理だけでなく、魔工や魔法にアドバイスできる知識って……と疑問に思ったけど、話していて端々に出てくる単語の使い回しとか、言葉の使い方とかも上手いときがある。
それを考えると、本当にシュリくんはどこから来たのかがわからない。
どんなことを学んで、どこからここに来たのか? 疑問は尽きない。
「そんなあの子が、エクレスの連れとしてくるなんてね……どういう関係なの?」
「ふぇ!?」
唐突に、母上はニヤニヤと笑って言った。
「いやね。今ではこうして話せるけど、ワタクシはエクレスが来るまで不安で一杯だったのよ? どう話せばいいのか、どんな話題を出せば良いのか? 不安しかなかったよ。
それは、あなたも一緒だと思ってね。なのに、あなたは男を連れてきた。しかも、仲睦まじくね」
「そ、それは」
「どうなの? あの子、ワタクシから見てもなかなかの男みたいだけど。あなたはどうしたいの?」
「……えっと、ボクはその、シュリくんのことが、好きなんだ」
正直に話してみると、母上とマーリィルは満面の笑みを浮かべてる……!
「聞いた? マーリィル?」
「はい。聞きましたとも奥方様」
「こんな会話ができるようになるなんて、夢にしか思わなかったわ」
「私も、エクレス様が胸襟を開いてくださることに、喜びを感じております」
「ふーん、あの子、シュリくんのことがねー」
ニマニマとしてる母上……話さない方が良かったのかな……!?
「いいじゃない」
「え?」
「だから、いいじゃない。恋することは素晴らしきことかな。あなたの恋が実ることを、祈っているわ」
微笑む母上を見ると、自然とボクも笑えた。
よかった……母上は、本当にシュリくんに悪感情を抱いて無かったんだね。
「もちろん。シュリくんのことが好きな子が、まだ二人くらいいるけど。負けないよ」
「え? そんなにモテるの? 彼?」
「そうは見えませんでしたが……」
娘の好きな相手を酷評しないでよ。
「失礼な。あのニュービストのテビス王女もシュリくんに目をかけてるし、彼の料理は、一口目に驚きを、二口目に美味しさを教えてくれるんだから」
「そう、それは楽しみね」
「あ、母上。信じてませんね。シュリくんの料理は、本当に凄いんだからね」
「はいはい」
そこから、他愛ない雑談をした。母上とマーリィルとボク、ようやく出会えた心許せる家族、親と一緒に。
何を食べたか、何をしたか、何が楽しくて、何が辛くて、何が悲しくて、何が幸せだったのか。
親と子、離れていた時間を埋めるように、ボクたちはたくさんの話をした。
「みなさん、料理をお持ちしました」
話も盛り上がってきたところで、シュリくんが料理の皿と匙を持って現れた。
「チャーハンです」
ボクらの目の前に出されたのは、米の料理。
ボクが以前にも食べたことがあり、最近ウーティンが執心している料理。
チャーハン、という料理だ。
「……こんな短時間に米で料理を作ったのですか?」
このチャーハンという料理には特徴があって、もともとシュリくんが料理人達への賄いとして出していた。
そのときにも驚かれたが、手間暇かけても短時間で仕上がるんだ。詳しい理由は知らないけど、ガーン兄さん曰く「始めたら、あっという間に作り終わってる」という話だ。
しかも、早く作れるのにとても美味で、好みによって具や味付けも変わると言うから驚きだ。
マーリィルの驚きも無理はない。ボクたちは確かに長話をしてたけど、普通の料理が作り終わるにはまだまだ時間がかかるはず。
なのにシュリくんは、この短時間で料理を作り、出すことができるんだ。
「しかも良い匂いですね……、どうやってこれを作ったのですか?」
「炒めました。火力をかなり強くすることも秘訣です」
マーリィルはコツを聞こうとしているけど、止めた方がいいよ。彼の言うコツは、時として一般人には理解できないからね。
「どうぞ」
「そうね、出された料理を前に侃侃諤諤と理論を言うのも、失礼ね。いただきましょ」
母上はそう言うと、さっそく一口チャーハンを口に入れた。
「……」
そして、押し黙った。
ボクにはわかる。母上は努めて平静を装っているけど、これは驚いているんだ。
「言ったでしょう、母上? シュリの料理は、一口目に驚きを、二口目に美味しさを教えてくれると」
ボクは胸を張って言うと、さっそくシュリくんの料理を味わうことにした。
黄金色の米に、ネギの緑が良く映える。口に頬張れば、その美味しさがよくわかる。
塩胡椒で味を整え、鶏肉の旨味を米に移し、ネギで臭みを消す。
卵で米の旨味を増やし、たまねぎで食感にアクセントを加える。
単純で、聞けばボクでも作れるようなレシピ。
だけど、きっとこの味はシュリくんにしか作れない。
だって、シュリくんはかつて、ガーン兄さんに言ったことがある。
チャーハンを指して、「この料理は人の個性が強く出る」と。
そして、この料理に込められた技術力を感じ取ったのか、母上は納得した顔をした。
「……なるほど。エクレスの言う通りね。マーリィル、あなたも食べてみなさい」
母上は、マーリィルの前に出された料理を示して言った。真剣な、表情で。
「お、奥方様。私はメイドとして給仕を」
確かにマーリィルはメイドだから、給仕の仕事はしなきゃいけない。
だけど、それを遮って母上は告げる。
「いえ、マーリィル。あなたも食べなさい。これが未来の、大陸の姿よ」
母上はチャーハンを差し出し、マーリィルはそれを受け取った。
……母上はどうして、未来の大陸の姿なんて言葉を使ったんだろう。
母上が何気に、なんとなくで未来の大陸の姿なんて言葉を使うとは思えない。
そもそも、マーリィルに食べるのを急かすのもそうだけど、それを理由にする意味がわからない。
「……そうですか。これは」
そんなボクの疑問は氷解せぬまま、マーリィルは感想を言っていた。
「シンプルですね。とても美味しいです。卵、と塩胡椒ですね、この味の素は。そして、アクセントにたまねぎが入れてあって、シャキシャキとしてて、固めの米と良く合う。
そして、鶏肉。鶏肉の味が染みこんだ米を頬張りながら、鶏肉そのものも味わえる。
なるほど、シンプルですが緻密に計算されています」
ボクと同じ感想だ。ちょっと安心した。
「これはもともと、賄い料理から発展したという話です。僕の故郷のとある国の、ですけどね」
「賄いに、米のあまりと材料のあまりを工夫する。なるほど、シュリくんの料理は、いつだって身近なところから来るんだね」
ボクは自分の疑問、疑念を押し殺し、感想を述べた。
これでいいはずだ。これでいい。
これが、未来の大陸の姿の料理というのか。
これが?
食べ終わった後、ボクは母上に訊ねた。
「母上、一つ聞いてもいい?」
「いいわよ」
「あの料理を、未来の大陸の姿と言ったよね?」
「……」
母上は難しい顔をした。
「あれはどういう意味?」
だが、母上は答えない。どう答えたものか、と思案している顔に見える。
マーリィルも答えない。彼女はメイドだ。主よりも先に問いの答えを言う立場には無い。
家族だと思ってるけど、そういう立場や役割を大事にする人だから、母上が言わない限り、言わないだろう。
ボクが言葉を待っていると、突如教会の扉が開いた。
「おったおった、なんとか来れたわ」
そこにいたのはクウガだった。
ここまで、夜の森を駆け抜けてきたのか、肩や頭に葉っぱが落ちている。
え? こんな夜更けに森を抜けて来たの?
「こちらはエクレスの母上様かい、シュリ」
皿をまとめて厨房に持って行こうとしたシュリに近づいて、クウガはこちらを見ながら質問をしている。
「ええそうです。てか、クウガさん何しに来たんですか?」
「ん? まあの。その前に」
クウガはこちらへ歩いて近づきながら聞いてきた。
そして母上の前で頭を下げた。
「どうも、ワイはクウガ言います。スーニティで幹部をしとりますわ」
「その方言……名前の抑揚……東方の?」
「ええ。記憶にはないですがの。なんとなく、この喋りが気に入っとりますんで」
母上はボクに、笑顔を浮かべて聞いてきた。
あ、この顔は愛想笑いってやつだ。
「エクレス、この人は……」
母上はこっそりと僕に聞いている。
「この方はガングレイブの下で歩兵隊隊長をしてるクウガ。彼の剣技は大陸随一のもので、彼一人で戦況が変わったほど」
僕がそう説明すると、母上は少しだけ頷いた。
「このたびは、側室様におかれましては失礼でありあした」
「なんのことかしらね」
「本来なら、あなた様をお迎えして担ぎ上げるのが筋でありやしょう。それをせなんだこと、どうかお許しくだされ」
クウガの歯に衣着せない物言いに、ボクは驚くばかりだよ。
それを、元とはいえ側室に言う言葉とは思えない!
「それは、ガングレイブとかいう人の言葉かしら?」
「ガングレイブと、ワイら隊長格の総意ですわ。つまり、今の言葉はガングレイブの言葉そのものと取ってもらってもええですわ」
クウガと母上との間に、見えない攻防が行われているようだった。
だけど、フッとその気配が消える。
「そう、ならそう取っておくわ」
「ありがたいことですやな」
「今から騒いでも、私が権力者になれるわけじゃないわ」
「そうですな」
「それより、私をこの森の中で守ることの方が有意義でしょうし」
「わかっておいででしたか」
「これでも、頭は回るからね」
それだけの会話を交わしたクウガは、シュリに向かい合った。
「ほら、帰るでシュリ」
「え? 今からですか?」
「今からや」
シュリとやりとりをするクウガの顔は笑顔そのもので、さっきまでの人物と同一とは思えない。
同時に、どうして母上があんなことを言ったのかも理解できない。
まあ、いきなり領地の実権を奪いましたごめんなさい、なんて言葉を奪った組織の幹部から言われたら腹が立つのは間違いではない。
でも母上は、こういうときの腹芸だってできるはずだ。
今のやりとりにいったい何の意味があったんだ? いや、今のやりとりを行う意味はなんだったんだ?
「エクレスも用が終わったんなら帰るで」
「えっと、ボクは」
クウガにそう言われて、僕は少し逡巡する。どうしようか……
「エクレスは残りなさい。もう少し、親子水入らずで話したいじゃない」
母上……。
その言葉にクウガは何かを考えてから言った。
「……そうやな。すると、どうするかね」
「そもそも、僕が帰らなくても大丈夫なのでは?」
「お前がおらんと、ワイらの料理がひと味足らんねん」
「ガーンさんたちは残してるでしょうに」
「ああ、まぁ……悪うはなかった。悪うはない。昔よりもええんや。でも、やっぱシュリがおらんと物足らんわ」
「そうですか……。なら、ウーティンさんに任せて帰りましょうか」
その言葉に最も驚いたのは、いつの間にか消えて、いつの間にかいるウーティンだった。
あなた、今までどこにいたの?
「だめ、私は、シュリ、の、護衛」
「もっと護衛しなきゃいけない人がいるでしょうが。僕は一度、帰らなければいけないので、この場をお任せします」
ぐ、ぐうの音も出ない正論を……?!
「ではエンヴィーさん。僕はこの辺でお暇させていただきます」
「ええ。ありがとう、シュリ。あなたの料理、美味しかったわ」
「それは、ありがたい感想です。もっと精進します」
「あはは、謙虚ね」
「そうありたいので。では、失礼します」
シュリくんは礼儀正しくお辞儀して、あっという間に用意を整えて帰ってしまった。
後に残されたボクは、ここまでの流れを理解できずに呆然とするだけだ。
そんなボクに、ウーティンが話しかけてきた。
「シュリの、頼み、だから、あなたたちの、警護、する。でも、命令は、聞かない。
この場所の、地理、と、内装、は、把握、してる。こっちで、勝手に、やる」
これは、無表情で言ってるけど、不機嫌なことが丸わかりだ。
ウーティンはさっさと外に出てしまい、結局三人が残された。
「奥方様、私が彼女の監視を」
「いーのよ。ほっときなさい。あの子が勝手に作戦を立案して、勝手に護衛してくれるなら、いちいち命令する手間も省けていいじゃない」
「ですが」
「あの子は、あくまでテビス王女の命で動いてる。なのに、シュリの頼みを聞いた。そこにテビス王女の意図が含まれているはず」
「……どういうこと? 母上、説明が欲しいよ」
とうとう堪えきれず、ボクは母上に尋ねた。
「あら? どこから説明が必要なのかしら?」
「全部だよ。ウーティンが動く理由も、テビス王女が意図するものも、全部」
「ワタクシは全部は知らないわ。ただ、そうじゃないかなと予測しているだけ」
「それを教えて欲しいんだ」
「……そうね。ウーティンが動く理由だけど。本当に気づかない?」
「え?」
次の質問、ここで母上が呆れた顔でボクに聞いてきた。
え? これはボクが気づくべきなの?
「わからないけど……」
「あの子、多分シュリの事が好きよ」
……え?
「えええぇえ!?」
嘘でしょ……? あの無表情な諜報官が、テビス王女に絶対の忠誠を誓っているように見えたのに、シュリのことが好き?
全く想像できなかった……そんなそぶり、全く見えなかったのに。
「あれは……そうね、胃袋を掴まれてるタイプね」
ごめん、母上。それは、シュリくんのことを想ってる女の子全員に言える。
テビス王女はマーボードーフ、リルはハンバーグ……ボクは……唐揚げ?
いやいや、ボクはその前から好きなのであって、決して胃袋を掴まれているわけでは。
あ、だからといってシュリくんの料理が食べられなくなるのは嫌なわけで。
は! 泥沼に嵌まりかけてる!
「だって、主の命令を無視して男性のお願いを聞くなんて、それくらいしか理由が思い浮かばないわよ。少しだけ、彼女がシュリと話をするところを見て、アタクシたちにあれだけの言葉を投げかける場面に遭遇して、それの差を考えるとね。
シュリの前ではおろおろと、諜報官らしくないほどの感情の揺らぎが見えてたのに、アタクシたちの前では諜報官らしいほどの鉄仮面と事務的な言葉だったんだからね」
「だから、ウーティンはシュリくんのことが好きだと?」
「本人は自覚してないでしょうけどねぇ。それに、シュリと話す表情、あなたとそっくりだもの」
母上はコロコロと笑うけど……え? ボクはそんなに恋多き乙女のような笑い方をしてたの?
うわ! そう考えると恥ずかしい! 顔が熱い! 赤くまで……なってないよね!?
「そ、そんなことよりも、次! 次の質問だよ!」
「ああ、テビス王女の意図ね。単純よ。テビス王女は、シュリに目をかけてるのでしょう?」
「うん」
「だったら、恋敵が親にシュリを紹介するの、黙って見てる?」
……え?! まさか……!
「婚約前の親族紹介に見られるでしょうねー。ワタクシだったらそう思っちゃう」
「はい奥方様。彼のことが好きと仰ったり、そんな彼を連れてきたりと、私もそう思いました」
ま、マーリィルまで!
うわー! そうか、そう見られてたのか! だから、ウーティンが着いてきたのか!
あ、そう考えると、ギングスとガーン兄さんがあれだけ狼狽えてたのってもしかして。
男を部屋に呼ぶ、寝間着で出迎える、その後親に紹介する。
ボクだって何かあったんだなって思っちゃうよ!
自分自身の迂闊さに顔から火を噴きそう!
は、恥ずかしすぎる……!
「まあ、この教会の中をコソコソと嗅ぎ回っても見てたでしょうけどね」
母上は、ポツリと呟いた。
「え?」
「言葉のままよ。ウーティンとしては、ワタクシが捕らえられていたこの施設が、どんなものなのかも調べてるでしょう。
ここには、基本的に何もないわ。『あった』のは、遙か昔なのだから」
「『あった』……?」
「話はここまでにしましょうか。晩ご飯も食べたことだし、後はお風呂にでも入りましょうか」
「え? お風呂?」
「ええ。ここは地下水脈が豊富で、水ならいくらでもあるし、周りは木だらけだから、燃料にも困らないわ」
「はい。私がお風呂を焚かせていただきます。準備ができましたらお呼びしますので、お待ちください」
マーリィルはそう言うと、部屋の奥へと消えていった。
まさか、お風呂があるなんてなぁ、意外だね。
「母上、『あった』というのはどういうこと?」
「あー……その話を蒸し返しちゃう?」
「気になるもん」
「正確には『生きてた』が正しいわね。この施設は、もともとある人物を隔離、軟禁するために存在してたのよ。その人が『無くなった』あと、一応教会としての見てくれに改修したわけ」
「亡くなった……死んだってこと?」
「いいえ、死んだわけじゃない。『消えた』のよ。忽然と」
な、何その話?
「ワタクシが古い文献を、たまたま見つけて調査したからね。でも、その『人物』どこの誰かなのかはわからないわ。単なる伝承かもね」
「ちなみに、その人はなんていう人なの?」
「そうね……名前は確か……」
母上は思い出すと、言った。
「『ソウジロウ』だったかしら?」
その後、ボクたちは話を続け、風呂に入って寝た。
風呂に入ってからも、母上とマーリィルとは話を続けて。
疲れて寝て、目が覚めた次の日に、ウーティンと一緒に帰った。
ソウジロウ……その名前が、ボクの中でひっかかったまま。