九、怒りのカレーライス・中編
私にとってガングレイブは、この世で一番愛する人です。
初めて出会ってから、いくつもの戦と時を経て。
守り守られ戦ってきた。
あなたの背中が、いつだって私に勇気をくれた。
あなたの握ってくれる手が、暖かくて心地よかった。
だけど、愛する人は何時か何かが起こっていなくなるかもしれない。
離別してしまう恐れがあることを忘れていました。
大切なことは、いつだって身近にあるのに。
私、アーリウスには婚約者がいます。
今はまだ婚礼を挙げてませんが、何時か挙げてくれる。
ガングレイブはそういう人です。
最近、備品の一つである魔晶石の在庫が怪しくて頭を抱えています。
魔晶石は、大気中のマナが自然が豊か若しくは自然が大昔から残っている場所に沈殿し、固形化したものです。
それは不思議な性質を持っているもので、周囲のマナを吸い込む、若しくは増幅するのです。
魔工ではその吸収する性質を使い、魔字の材料として使います。こうすることで、半永久的にマナを吸い込み機能させるというわけですね。ただし、魔字が消えてしまったら終わりです。雨とかが大敵なわけですね。
魔法では吸収したマナに己のマナを乗せ、それを増幅させることで魔法の威力を上げるのです。この性質を使うと魔晶石は摩耗し、次第に機能を失って消滅します。石とは違うので、段々と小さくなって最後にはなくなるわけです。
そして私の魔法は原子分子に干渉して発現させます。その消費は大きく、あっという間に魔晶石がなくなるわけでして。
その補充の為にアルトゥーリアへ向かう旅路です。
アルトゥーリアは、それ自体は大きな国ではありません。雪国である都合上、食糧自給は芳しくありませんし、木々に恵まれているわけでもないのです。
ただ、鉱物資源と石材資源が豊富なのです。
それもユユビの国のように枯渇する心配がありません。無論、鉄や銅などはいずれ尽きるかもしれません。
ここで取れる一番の産業は、魔晶石です。
自然豊かか、自然が濃い場所でしか取れない魔晶石ですが、ここでは掘ればいくらでも出ます。その上一週間もすれば採掘場に魔晶石が復活しているのです。
恐らくは、この大陸のマナが巡り巡ってこの場所に沈殿するからでしょうが、ともかくそのおかげでアルトゥーリアは国として成り立っています。
もちろん、そんな土地ですから魔工技術と魔法技術も水準が高いです。
そんな旅路の折、シュリが何か不思議なものを作っています。
初めに気づいたのは、夜寝ようとしたらどこからともなく美味しそうな匂いがテントに届いた時です。
ですが、その日はそのまま寝ました。大方、寒すぎて嗅覚がおかしくなったのだろうと思ってましたから。
次の日も、その次の日も。それが何日も続けば、これはおかしくなったんではないと気づきます。
匂いの元を辿ると、バッタリとリルに出くわしました。
「リル。どうしたのですかこんな夜中に」
「なんかいい匂いがする。ハンバーグと合うような、魅惑の匂いが」
この子、段々と世界をハンバーグでしか捉えなくなってませんかね?
今度シュリに注意しておきましょう。中毒者を何とかしましょう、と。
シュリのテントの裏に回ると、何やら鍋で作っていました。
「あれですかね?」
「間違いない。リルも感じる。あれこそ、ハンバーグの伴侶だと」
中毒者の発言です。
しかし、なんでしょうこの香り。
とても香ばしかったりなんというか……。
匂いだけでお腹いっぱいになってしまいそうです。
「なんでしょうか、あれは」
「きっとハンバーグの新メニュー。リルの直感が叫んでる」
リルのちょっとおかしな発言は置いときましょう。気にしていたら負けます。
遠目から見るとスープに見えます。なんというか、茶色ですね。
じゃがいもと人参は見えますがそれ以上がなんとも言えません。
「本能の赴くままに! シュリ、なにしているの」
リルが特攻しました。気づいたら隣からいません。
「ああリルさん。すみません。臭かったですか」
「いや、とてもいい匂い。芳しい。それで、それは何?」
「これですか? 今まで実力不足やら知識不足で作れなかった新メニューをちょっと」
「試食なら手伝える」
ああ! リル、ずるいですよそんな!
私だって食べてみたいのに!
「すみません、今日のこれは失敗なんです。人に食べさせるものじゃないんですよ」
すまなそうに苦笑するシュリ。
意外です。シュリが料理で失敗するなんて。
部下を持って教育もして、みんなのご飯を作ってるシュリですが、その仕事は完璧でそつがありません。
失敗作なんて見たことありませんし、失敗でご飯の時間が遅れることだってありませんでした。
それなのに、試作の段階から失敗なんて珍しいです。
「それでも構わない。リルの空腹が食えと叫んでる」
リルはジャスティスの使い方を根本的に間違えていませんかね?
「いえ、ちゃんと出来てからお出ししますよ。それまで待っててくださいな」
にっこりと優しく断るシュリに、これは無理だなと私は感じました。
シュリのあの顔は意地でも食べさせない顔です。
意外と頑固なとこというか、食事にこだわりを持っているシュリにそれを曲げさせることはできないでしょう。
私はそうそうに立ち去って、その場をあとにしました。
しかし、次の日、そのまた次の日とシュリの試行錯誤は続きました。
最初は放っておいたんです。そのうち完成して食べることができるから、まあ待とうかなと。
ですが、いつまで経っても完成品は出されず。
毎夜毎夜美味しそうな匂いを嗅がされ。
ご飯の後でさらに空腹のような感覚に陥っていき。
とうとう、私は木の陰からいつでも試食に行けるように忍び隠れるようになりました。
それは回りのみんなも同じだったようです。
いつの間にか木の上にテグがいました。
「何してるんですかテグ」
「あ、いや、ちょっと木の上から遠見の練習をっスね」
めちゃくちゃ目を泳がせながら言い訳してました。
てか、真夜中に木の上に登って遠見の練習、て意味ないでしょ。
気づいたら地面の下にリルがいます。
どうやら魔工を使って地面に穴を掘って待機しているみたいです。
「リル。何を?」
「リルはいない。リルはここにいない」
言い訳にしたってもっとマシな言い方があるでしょうに。
気配に気づけば、遥か遠くでクウガが剣を振ってました。
それだけなら単なる稽古だと割り切ることができます。
しかし、風の動きを読んで、シュリから風下の位置で稽古を続けていれば、匂いを嗅ぎたいという心がバレバレです。
「クウガ、また稽古ですか」
「ああ、ワイもまだまだやからな」
「あっちに行けば、水場はあるし足場もいいはずですが」
「あ、いや、今日はここでやりたい気分や。ははははは」
わ、わざとらしいっ。
無論、私は木の陰で窺っています。
木の上とか地面の下とか風下読むとかやりすぎです。
それに、シュリのような非戦闘員ではみんなの気配を読むことなんてできないでしょう。
「アーリウスさん。そこでなにしてるんですか?」
バレたっ!?
い、いえ、そんなはずありません。
大方、テントに詰めかけてる部下の中にいると思ってカマをかけてるに違いありません。
「うーむ、やはりルーが難しい……」
おや、風向きが怪しいですね。
「あー……またダメかな……」
な、なんですって!?
シュリは失敗したら、自分で食べて後片付けをします。
失敗作を他人に食べさせることはしません。
それは分かりますが、失敗でもいいから、一口だけでも食べてみたい!
そう思っているうちに、シュリは失敗作を皿によそって。
自分で食べてしまいました。
「「「あ〜…………っ!!!」」」
思わず落胆の声が出てしまいました。
ここにいる全員とシンクロしたことから、みんなも同じ気持ちだったに違いありません。
ああ、食べて見たかった。
「さっき呼び掛けたときに返事がないってことですからねー。誰もいないなら、食べさせることもいりませんねー」
な、なんですって!?
シュリの棒読みで、気づかれていたということを悟りました。
へ、返事をしていれば食べれていたというのですか?!
あ、地面や木やテントが震えています。
あれは怒ってますね……。
明日は地獄を見そうです……。
「ま、その前に失敗作ですから。食べさせるわけにもいかないんですよねー」
フォローを入れてくれているシュリですが、それはフォローになってません!
結局、その後も試食させてもらえず行軍は続きました。
さりげなくガングレイブが試食の約束を取り付けてますが、ずるい以外の言葉がありません。
ですが、そんな考えも。
謁見の間について真っ白になってしまいました。
「キサマらのような野蛮人に売る魔晶石はない。帰れ」
謁見の間で王、フルレ・アルトゥーリアは私たちに言いました。
豪華絢爛な謁見の間で、私たち隊長格五人とシュリを交えた私たちが交渉の場に着いた途端に、フルレ殿は言い放ちました。
確かに去年、戦の際に敵対しましたので敵対感があるのは否めません。
しかし、交渉どころか話すらできないのは想像してませんでした。
当たり前の事ですが、傭兵というのは金で雇われれば誰にだって忠誠を誓い、勝利の為に尽力します。なので、金で雇われている間だけの味方関係であり敵対関係でもあります。
つまり、言ってしまえば私たちは武力を売る商人と変わりません。その商人を相手に、話すらしないのは論外なのです。
無論、この場で売った魔晶石が回り回ってこの国に敵対するかもしれませんが、それでもこの言葉はあまりにもひどいとしかいいようがありません。
しかしガングレイブはこれを予想していたのか、落ち着いています。
シュリなんかは何がなんだかわからないので呆けています。まあ、この場ではそうしていただけると助かるのですが。
「そこをなんとか。俺たちの活動に必要なのです。見返りとして」
「そうだな。見返りとしてそこの女二人を、息子のメス奴隷にするなら売ってやる」
……はっ?
この人は何を言ってるのでしょうか?
この親子ともども太った豚のようなやつが、メス奴隷?
「パパー、そこの芋臭い女なんか抱きたくないよー」
「大丈夫だよ息子よ。ちゃんと薬で消毒してあげるからね」
ぶちん。
この場にいる全員がキレた音がしました。
テグのうなじが逆立ち、クウガの覇気が高まり、ガングレイブの怒気が空間を支配するようでした。
リルは淡々としてます。無表情のままです。
いえ、これは怒りを自分の内側全てに抑え込み凝縮しているんですね。
これが前にシュリが言っていた、殺意の波動というやつでしょうか。
無論、私も怒っています。
みんなを客観的に見ないと、感情のままにマナを暴走させてしまいそうですから。
なんかシュリからは猫の気配を感じますが……気のせいでしょうか?
「王、フルレ様。その言い分は些か良識に欠けるものかと。周囲の王族や領主に知られれば、どういう目で見られるでしょうかね」
ガングレイブはこの場でも努めて冷静に、交渉しようとしてます。
しかしフルレ殿は下卑た笑いを止めません。
「それならば、そういう目で見る領地に魔晶石の販売を止めればいい。
この領地には、それだけの資源があるのだからな」
ガングレイブは小さく舌打ちしました。
確かにその通りで、魔晶石は今の世の中に欠かせない資源です。
それが大量に、枯渇することなく採掘できるこの領地は貴重と言えるでしょう。
それを交渉に取ればどの領地だって反論は難しいでしょう。
しかし、それをわざわざこの場で言うその神経を疑います。
「パパ。隣の貧相な体つきの小娘はいいや」
「ふむ、ならそこの女で構わんか」
私?!
私がこんな人の妾に?!
「そういうことだ。そこの女をこっちに寄越せば、相場の十倍で二分の一の量くらいは売ってやる。悪くないだろう?」
ふ、ふざけてる。
こんな交渉するまでもないです。さっさと帰った方がいいです。
しかしガングレイブは怒りを堪えてなんとか交渉しようとしています。
それは立派なんですけど……。
正直、この場では私のために怒って、一発言って欲しいです。
わかるのです。ここで魔晶石を手に入れなければ後々大変なことになります。
他の地域では売らないところすらあります。
安定して販売しているこの領地で手に入れるのが、一番効率的なのです。
「それはあまりにも……言葉としては笑えませんね」
「笑う必要はない。魔晶石が欲しいのだろう? これも交渉だ」
ですが、団長としての責任と。
私の婚約者としての立場。
天秤をかけられているようで、泣きそうです。
「まあそういうことだ。息子にやるには田舎臭いがその女で勘弁してやる」
「……それは」
「ガングレイブ……」
怒りのあまり肩を震わせるガングレイブ。
なんとか理性で抑えていますが。
このままだと何時爆発するかわかりません。
「やーやー。少し失礼」
その時です。
突然、シュリが立ち上がって道化の如く振る舞い始めました。
いきなりのことで打ち合わせもなかったので、私もみんなも止めることが出来ませんでした。
テグなんて手を伸ばして止めようとしましたが無理でした。
「なんだキサマ」
フルレ殿もいきなりの無礼な行為に、眉間に皺をよせています。
当然です。領主にそんな態度を取れば首を切られても文句を言えません。
「僕はガングレイブ傭兵団の料理番、シュリと申します。
失礼ですが一つ。
王子の食されている魅惑の菓子、そちらはどこで手に入れたものでしょう」
菓子?
いきなりシュリは何を言い出しているんでしょうか。
確かに王子は変わった菓子を食べていますが……それがどうしたのでしょうか?
「……ニュービストだ。それがどうした」
「いえいえ、念の為に」
ニュービスト?
シュリの確認の意味はなんでしょうか。
「ここで一つ、僕に料理を作らせてもらえませんか」
いきなり何を言い出すのでしょうかシュリは?
交渉から料理外交に切り替えるつもりでしょうか。
確かにシュリの腕ならば、この状況の打破もあり得ます。
「なぜキサマのような田舎料理人に食事を作ってもらわねばならん」
そう、イラつくフルレ殿の言う通り。
王族の食事を、傭兵団の料理番が作るものではありません。
ニュービストの際は、王族自らが所望したので不問とされていますが、今この場でそれを使うことは不可能に近いです。
シュリの自信満々な態度はどこから来るのでしょう。
「いえいえ、王子様のお菓子。
僕がそれを超える魅惑の料理に変えてみせましょう」
私たち隊長格全員。顔を見合せて戸惑いました。
お菓子で料理を作る? お菓子を使ってお菓子を作るならわかりますが……。お菓子で? 魅惑の料理?
「魅惑の料理、だと」
ですがフルレ殿は食いつきました。
見た目通りの食欲。
しかし、私も知りたいと思いました。
あの茶色のお菓子で何を作るのか。
「はい、じゃがいもと人参と玉ねぎと肉。これだけで十分です。
これだけでそのお菓子の何倍もおいしい料理を作ってご覧に入れましょう」
え? その材料はもしかして……。
「……面白い。チョコとそれらで食事だと? やってみせるがいい。
不味かったらその腕、両方とも切り落とす」
「どうぞどうぞ。では調理を開始します」
両腕を切り落とす?!
とんでもない話です。いつの間にか料理対決になってしまいました。
ガングレイブも顔を青ざめています。当然です。失敗すれば、この場にいる全員が何らかの処罰を受ける可能性がありますから。
今、私たちの命運はシュリの両腕にかかっています。
そうしているうちに、シュリは調理を開始します。
持参していた包丁とコンロを出して、鍋とまな板を借り、玉ねぎ、人参、じゃがいもを適切な大きさに切り揃えていきます。
嫌な予感がします。とてつもなく。
そして、案の定隠し持っていたスパイスを炒め始めました。
やはり毎晩試作していた料理を、ここで作るつもりです!あの料理に菓子を加える?!
以前シュリは、全ての味覚を持った料理を作った経歴がありますが、さすがに菓子を加えた料理というのはちょっと!?
そうしてるうちに、バターや小麦粉を加えてスープの素を作り、鍋を取り替えて底の深い鍋で材料を焼きます。
十分に火が通ったら、水をぶちこみ沸かし、スープの素を加えて菓子を入れ、蓋をしました。
「……なんだその気持ち悪い色の料理は」
フルレ殿は怪訝な顔で聞いてきました。
実は遠目で、しかも夜にしか見たことないので知りませんが、あんな茶色のスープとは思ってもみませんでした。
なんか……汚い色です。
「まあまあ、ここは一つどうぞ」
「……まあいいだろう」
十分に火が通ったのを確認し、シュリは自信満々に鍋の蓋を開けました。
瞬間。部屋一杯にえも言えぬ素晴らしい香りが広がったのです。
スパイスの刺激と僅かな甘味、食材を完璧に調理したときにしか香ることのできない匂い。
思わずテグの喉が鳴り、クウガは唾を拭い、ガングレイブは驚きに目を見開いています。
リルは「ハンバーグ……まさしくハンバーグを……」と呟いています。もう手遅れかもしれません。完璧な中毒者の姿がそこにありました。
私は、その香りから料理の味を想像させられてます。
甘いのか、辛いのか。菓子のようなとろける甘さのなかにスパイスの刺激。それともまだ何か……?
暴力です。もはやこの香りは暴力としか言いようがありません。
かつて戦で感じた圧倒的戦力差。
それよりもさらに理不尽な暴力がここにあります。
だって、この場で私たちは食べられないのですから。
フルレ殿や王子が食べるのを、指を咥えて見てるしかないのです。
「これは……」
フルレ殿は驚くばかりです。王子も目を輝かせています。
「どうぞ」
「う、うむ」
渡された料理を、フルレ殿は毒味すらせずすぐに食べました。
普通ならあり得ないことです。
なぜなら、一介の料理人が作った料理は毒が入っていると思うのが当然のこと。
目の前で調理されたとは言え、スパイスの中に混入させることも可能です。むしろ、この場ではするべきでしょう。幻覚剤や服従薬を使えばこの場を切り抜けることも可能ですから。
しかし、フルレ殿はその考えすら抱くことが出来なかった。それほど魅惑的で蠱惑を孕んだ香り。そして強烈な好奇心を奮い起こす謎の見た目。
それらの期待を胸に、フルレ殿は咀嚼しています。
「これは!!!?」
フルレ殿の目が限界まで見開き、匙を持つ手が震えています。
どれほどの意外な味なのか、どんな味なのか。
見ているこちらからでは全く予想できません。
しかし、菓子を使って料理をし、魅惑の料理を作ったという事実は拭えません。
それは確かに、シュリが言ったとおりのことなのですから。
「そうでしょう。私の包丁の腕も、捨てたもんじゃないでしょ」
「う、うぐぅ……!!」
そう言ってシュリは包丁を見せびらかしています。
ああ、危ない。それが近衛隊の逆鱗に触れたらしょっ引かれますよ!
領主の目の前で刃物を出すなんて!
「王子様もどうぞ」
「うむ!」
デブ王子も皿を受け取ると、すぐに目を輝かせました。
「美味だ! チョコがこんな美味になるとは!」
「それはどうも」
「パパ。そんな女よりこっちの料理人の方が欲しい!」
「そ、それは」
? なんでしょう。フルレ殿の目が泳いでいます。
さっき包丁を見せられてから慌てていますが、どうしたことなのでしょう。
ただ一人、ガングレイブが何かに気づいた顔をしましたが、察しをつけることができません。
「これ、この粉とチョコを組み合わせればできますよ。差し上げてもよろしいです」
「本当か!!」
固形物。
先ほどの調味料とスパイスを混ぜ合わせ固形化した、スープの素。
それと菓子を組み合わせれば、簡単に出来るということですか?
「その代わり、魔晶石が欲しいのですがね」
そして交渉の本筋。魔晶石。
私たちの目的であり、アルトゥーリア側が決して譲ろうとしなかった魔晶石。
それを、事も無げに交渉の場に引きずり出してしまうシュリの料理の腕。
改めてシュリの凄さを知る瞬間でした。
テグやクウガも必死で隠そうとしますが、口の端が上がっているので、笑いたいのをこらえているのでしょう。
「パパ!」
王子は馬鹿なのか、もう交換したくてたまらない顔をしています。
本来ならば、ここで軽く渋ることで譲歩を引き出し、交渉へと移るのですが。
この王子の一言でそれもできません。
欲しいものを明らかにし、それを求めてしまったのですから
「だ、黙りなさいっ。
……何が目的だ」
?
魔晶石が目的ですが……。
なんでしょう、さっきからフルレ殿の様子がおかしいです。
包丁を見てからどうにか穏便にというか、ことを荒立てずに終わらそうとしているように見えます。
何を恐れているのかわかりません。
ただ一人、ガングレイブだけはわかっているようです。
「だから魔晶石ですよ。
相場通りの値で譲ってください」
「……わかった。
そのかわり、息子がお前を勧誘したのは無しにしろ」
これ……でしょうか?
勧誘した事実を消して欲しい。それはつまり、シュリと関わったことをうやむやにして欲しいということです。
この場でこうして話した事実もできるなら無かったことにして欲しそうに見えます。
ですが、この場では勧誘のみなかったことにしたい。
ギリギリ引き出せる譲歩をなんとか口に出したという印象を受けます。
シュリを勧誘するとどうなるのか? シュリと関わった事実がこの領地にどんな不都合を生むのか。
情報の足りない私では予想すらできません。
「ええ、構いませんよ」
何はともあれ、予算通りの値で魔晶石を手に入れることができました。
領地を出て野営地への帰り。
私たちはようやく息抜きすることができました。
なんせシュリの突然の行動で首を刎ねられるかと思いましたが、逆に魔晶石を手に入れることができたのです。
交渉としては成功と言えるでしょう。
相手が元から売らない意思を示していただけに、この交渉は難関だったと言えます。
「しっかし、なんであのデブ王さんはシュリを恐れたんやろうな」
クウガが疑問の声を出します。
確かに、それは結局わかりませんでした。
それを聞いたガングレイブはクククと含み笑いをしました。
「あれは、王子が墓穴を掘ったからだ」
「墓穴?」
「ああ。前にニュービストで追加報酬を巡っていざこざがあったのは覚えているか」
覚えていますとも。
奇妙な事件でした。追加報酬が欲しければ美味しいご飯を作れなどと、普通ならありえないことです。
「そんとき、シュリの機転でなんとかなったときな。
あの後ニュービストからお礼の手紙と包丁が届いたんだよ」
「包丁と手紙? それがどうしたんスか?」
「ああ、それだけならテグがわからないのも無理はねえ。
これに、王女さんが勧誘し、シュリが断ったうえでを付けるんだ。
でだ、あの包丁はニュービスト王家の紋章がついた業物で、手紙は王家の封印がされてたんだよ」
ああ、なるほど。ようやくわかりました。
つまり、今のシュリはニュービストのお手つき状態にあるわけです。
私たちの傭兵団を抜けたときなど、いつでも雇い入れる準備は出来ているというサインなわけです。
つまり、先にニュービストが雇用しようとしている人間を、横槍から掻っ攫うのを阻止する鎖であり鎧であるのでしょう。あの包丁は。
恐らくシュリはわかってません。しかし、包丁を示し、相手に動揺を与え、失言を引き出した。
だからこそ今回の交渉は成功したのです。
しかし、あの包丁にそんな謂れがあったなんて知りませんでした。
シュリも「この紋章がかっこいいんで使います」程度のことしか言ってません。
「だが、これでクソみたいな交渉も終わった! 帰ったら飯食うぞ!」
晴れ晴れとした様子でガングレイブは言います。
そんなガングレイブに、シュリが近寄りました。
なんでしょう、労いですかね。
「ガングレイブさん」
「ああ、シュリ。助かったぞっ!?」
べち。
有無を言わさず、シュリはガングレイブの顔面を殴りました。
咄嗟のことです。誰も反応できませんでした。
テグも、クウガも、リルも。
歴戦の戦士であり幾百の戦場を経験した彼らが、です。
無論私もです。
突然のシュリの暴挙。
予想すらしてませんでした。
殴られたガングレイブ自身だって、何が起きたかわからない顔をしてます。
殴られた頬を手で触り、ようやく殴られたことに気づいたほどなのですから。
「なんですぐに反論しないんですか。
愛する人と石っころ、どっちが大切なんですか!
泣かせてまで悩むことじゃないでしょうが!!」
シュリの怒号に私たちはなんの反論もできません。
頭の回転と権謀術数に長けたガングレイブでさえも。
一言も言い返せませんでした。
そのままシュリは怒った様子で一人、野営地に帰ってしまいました。
後に残った私たちは立ち尽くしたままです。
足に雪の冷たさを感じても、です。
「……そやなぁ」
不意にクウガが口を開きました。
「言われりゃそうやな。ガングレイブからアーリウス奪うあいつらの言い分を黙って聞いとったワイらはクズや。
交渉が上手くいったから浮かれとったけど」
「そっスね。オイラたちはなぁんもしてなかったっス。
ただシュリ一人だけで交渉を成立させたようなもんっスから」
「させたような、というかさせた。
リルは一言も言ってない。ガングレイブの言葉も意味なかった。
シュリだけで成立させた」
みんな口に出して己の情けなさを露呈します。
「……お前らは悪くねえ」
ガングレイブが消え入りそうな声で言います。
さっきまでの浮かれ顔は全くありません。
情けないような、泣きたいような。
そんな苦痛の顔です。
「なにもここの魔晶石にこだわる必要なんかねえんだ。懇意にしてる領地でわずかでもいいから分けてもらや良かったんだ。
なのに俺ってやつぁ……!」
「ガングレイブ……」
「馬鹿だった……! あんなクソみたいなやつから民を解放して、平和な国を作りたいって言ったのに、俺が大事なモンを守れねぇでできるかよ……!
シュリに愛想尽かされても文句は言えねえ……!」
ガングレイブは野営地に足を向けました。
「馬鹿だなぁ……俺は……!」
背中はこれ以上ないくらい悲愴で。
いつもは大きく見えた背中が小さくて。
どれだけ愚かなことをしたのか、どれだけ馬鹿なことだったのかを知って。
ガングレイブは潰れそうなほど落ち込んでいました。
私も忘れていたんです。
危うくガングレイブと離れ離れになってしまう危険があったのに。
交渉が成功したくらいで忘れて笑ってしまった。
本来なら私が一番に怒らなきゃいけなかったんです。
それを、シュリが代わりに怒った。
ガングレイブに、テグに、クウガに、リルに。
そして私に。
結局、晩ご飯にシュリが出てくることはありませんでした。
シュリの部下が代わりに作ったものを食べてますが、なんか味がありません。
それはみんなにも伝わっています。
事情を部下に話していないので詳しいことは伝わっていないでしょうが。
それでも、隊長達全員が落ち込んだ顔をしているので。
何かあったんだろうと心配しているのです。
「はぁ……」
私は晩ご飯を食べたあと、一人で野営地をうろついています。
考えているのはガングレイブのことです。
今回の失態はガングレイブに大きな傷を残した可能性があります。
信頼していた部下の本気の怒り。その意味と自分の落ち度。
それがわかるから、ガングレイブは悩んでいるに違いありません。
本来なら私が慰めてあげたい。
でも、どうすればいいのか。
「アーリウス」
そう考えていたら、不意に声をかけられました。
「……ガングレイブ?」
何か思い悩んだ様子のガングレイブが立っていました。
「探したぞ。天幕に行ってもいなかったからな」
ガングレイブが私を探していてくれた?
見ればズボンがぐしょぐしょに濡れています。
どれだけこの雪の中、私を探しに来てくれていたのでしょう?
「来てくれ。話がある」
「はい」
なんだかわかりませんが、話なら付き合いましょう。
野営地を離れて、森の近くまで来ると、不意にガングレイブが足を止めました。
「俺さ。今まであんなふうに本気で怒られたことなかったんだよ」
突然、なんの話なのかわかりません。
ですが昼のことだと思い当たります。
「口と頭の回転と腕っ節で生きてきたからさ。
親もいねえし。
だから、正直戸惑った」
「……はい」
「でも、本気で心配されて怒られるってのは、こんなに辛かったんだな、て思う。
自分の情けなさもそうだが、それを大切なやつに言わせたこととか、言わざるを得なかったやつのこととか考えるとさ。
ほんと、馬鹿だよな。俺」
「……そうですね」
馬鹿だった。
そうです。馬鹿なんです。
「私もあなたも馬鹿でした」
愛する人に辛い思いをさせた私も馬鹿なんです。
「なあアーリウス。俺、お前の婚約者でいていいのか?」
「あなた以外に考えられません」
即答です。
当たり前じゃないですか。私が愛するのはガングレイブただ一人なのですから。
「こんな俺でいいのかな」
「そんなあなただからいいのです」
後悔して悔やんで。
それでも何とか地に足つけて歩いてきたあなただから。
「そうですね。ただ、言わせてもらわなければいけません」
私はガングレイブの両肩を掴んで、正面から向かい合います。
泣きそうなガングレイブ。それでもなんとかギリギリで保っているあなた。
私はガングレイヴの頬に。
軽く平手をしました。
ペチ、と触る程度の平手。
「ガングレイブ! あなたは私と石ころどっちのほうが大切なんですか! このバカ!」
ガングレイブはちょっとキョトンとしましたが、すぐに意図に気づいてくれました。
「……はは、もちろん」
平手をグイっと掴んで引き寄せられた私は。
そのままガングレイブと口付けを交わしていました。
少々強引ではないですか。
「お前に決まってるだろ」
でも、その少々の強引さ。
男らしくて好きですよ。
「はは、モヤモヤ考えんのは止めだ。
アーリウス。今すぐ結婚しよう」
え? そこまで強引!?
「死ぬとか未来とかごちゃごちゃ考えんのめんどくさい。
惚れたお前と今すぐ夫婦になりたい」
……まったくもう。
「子供は当分先ですよ?」
「ならそんときまで、俺は生きるしお前を守る」
強引なんだから。
次の日。
シュリが恐る恐る私たちの前に出てきました。
てっきり夜の間に荷物をまとめて、愛想つかしてどっか行ってしまったんではないかと心配してました。
「あのぅ、僕はクビですか?」
どうやらシュリは、ガングレイブを殴ったことでクビになるのを恐れていたみたいです。
「なわけねえだろ。俺とアーリウスがめでたく夫婦になったってのに、お前は祝いの飯ひとつ作ってくれねえのか」
「え?! 夫婦?! ……あー、そういうことなら。
作らなきゃいけませんね」
シュリが安堵した顔で朝ご飯の支度を始めました。
いつもどおりに戻ってよかったです。
「お前のおかげで大切なことに気づけた。ありがとう」
シュリは照れたように笑いました。
ほんと、大切なことに気づけてよかったです。