七、無理難題の麻婆豆腐・後編
妾はテビス・ニュービスト。ニュービスト一の美食家じゃ。そしてニュービスト家の第一王女でもある。今年十を迎えた。
妾の住む領地ニュービストは、神聖なる森林地帯を抱えた豊かな土地じゃ。野生生物や食糧、薬材を豊富に抱えた森林を、妾たちは神の贈り物や神の住まう森として崇め、感謝しておる。
そんな土地であるため、農耕技術や料理の技術も高いのじゃ。年がら年中、美味を食べることができる。妾たち王族もその事に感謝しておった。
しかし、突然にも隣国ユユビが、妾に王子との婚姻を持ちかけてきおった。
森林資源は豊富でも鉱物資源には乏しいこの領地では、ユユビと貿易をすることで鉱物資源を手に入れておった。今までも上手くやれてきておったし、これからもそうじゃと思っておった。
じゃが、ユユビでは鉱物資源の枯渇が見えてきたのじゃ。それが、この友好な関係を崩すきっかけになってしもうた。
ユユビは兵も屈強じゃ。武具や防具の質も高い。戦となれば、妾たちはマトモには勝てぬじゃろう。
父上は隣国の資源問題に気づき、断ろうとしておったが、兵の違いで悩んでおられたのじゃ。
そもそも妾はユユビの王子は好きではない。晩餐会では何度か顔を合わせたが、あの傲慢な態度や横柄な性格が嫌いなのじゃ。
しかし、王族は私情を殺して嫁がねばならぬときもある。妾は覚悟しておった。せめて良き妻として努めるしかあるまい、と。
返事を保留にし、連日この問題で議会は紛糾しておった。婚姻を断れば戦となる。戦となれば勝てぬ。
じゃが婚姻を受け入れれば搾取される。せめて貿易の融通をしてうやむやにしておった方がよい。
そんなある日、いきなりユユビが宣戦布告してきた。
理由は、婚姻を持ちかけたものの、保留で放置され恥をかかされた。とのことじゃ。
そんなバカな話があるものか。婚姻の破談による戦は確かにあるのじゃが、こちらは婚姻すらしておらぬ。滅茶苦茶なのじゃ。
そも、これがユユビの目的だったのやも知れぬ。
どちらにしろ、神聖なる森を手に入れんとする策謀。婚姻を持ちかけられた時点で、妾たちは詰みだったのじゃ。
再び議会では戦に対する姿勢で紛糾した。徹底抗戦か、それとも降伏か。傷が浅いうちにどうにかしたいものから、敵には容赦するなというのもの。
結果、父上が結論を出したのは。
徹底抗戦。
森林を汚さんとする鉱山の山猿たちを迎え撃つ、とのことじゃ。
そのため、今年度だけ民から臨時徴兵と増税を行った。幸い暴動は起きなんだが、勝てる確率は精々三割。
妾も、メイドや側近を連れて逃げよと父上に言われた。
「嫌じゃ、妾は逃げぬ!」
「この戦は勝てるかどうかも分からぬ! 朕が軍を率いている間に森に逃げるのだ! そうすれば、最悪の場合でもお前は生き残れる!」
「民や重臣、兵を見捨ててはおけぬ! 父上も見捨てられませぬ!」
「馬鹿者が……!」
妾は今まで、父上や部下や民に支えてもらっていた。
そんな妾が、皆を見捨てて逃げることなどできん。
結局、妾は城に残り祈りを捧げることとなった。
戦で勝てますように、父上たちが無事に帰りますように。
食事も喉を通らず、伽藍とした城は寂しく寒い。手先足先が冷えてしもうた。
それでも妾は祈りを捧げ続けた。
それから三日後、メイドが喜色満面で聖堂に入ってきおった。
「姫様! 吉報です!」
「戦に勝ったのか!?」
「いえ、そうではないのですが……」
メイドは少し困ってしまったが、すぐに笑顔となった。
「傭兵団を三つ、雇うことができました」
「傭兵団? 雇ったのは二つと聞いておったが」
それのどこが吉報なのか。
かの二つの傭兵団は、妾たちの困窮を知ると報奨の吊り上げをしてきおった。
なんとか雇えたものの、財政にダメージが来たのは事実。
あんなやつら、好きにはなれん!
「あとひとつは、かの傭兵団でございます姫様」
「かの? どこじゃ」
「ガングレイブ傭兵団にございます姫様! かの団長はこちらの困窮を知ると、最低限の報奨だけで戦を引き受けてくれたのです!」
ガングレイブ傭兵団じゃと!?
ガングレイブ傭兵団はここ一年で急成長した、今一番実力がある傭兵団じゃ。
もとは五十人ぽっちの零細であったが、隊長たちが一斉に実力を付け、一人一人が一騎当千の実力を持つと言われておる。
ヤナンガン攻城戦では“発明の異端児”リルが新兵器で難攻不落を謳った城をたった三日で攻め滅ぼし。
塩街道死守線ではかの“百人斬りの鬼神”クウガがたった一人で相手を敗走させ。
雪山踏破戦では“剛炎の魔女”アーリウスが新魔法で雪山全ての雪を溶かすという離れ業を見せ。
“弓聖”テグは遥か遠くの的すら命中させる腕で、指揮官を片っ端から倒すという。
ガングレイブ傭兵団がいるだけで、落とされるはずだった城が防衛を成功させるなど、今一番、戦場で会いたくない傭兵団として知られておる。
「なぜ、妾たちに? かの傭兵団なら、ユユビに大金で雇われることも可能であろう」
「それが、理由がよくわからないのです」
わからない?
「はい、食料補給のルートと、商人たちとの交渉のすり合わせが目的とのことですが……。
小声で『レパートリーが増えるな』と。なんのことでしょう?」
レパートリー。
食事のレパートリーのことかの?
いや、あれだけの精鋭部隊がわざわざ料理のレパートリーを増やす為に戦に参加するなど、あるまい。
となると戦術のことかの?
わからぬ、判断材料が少なすぎる。
「ともかく姫様。ガングレイブ傭兵団なら、心配ございません」
「そ、そうじゃの。あの傭兵団なら、なんとかしてくれるかもしれぬ」
それだけあの傭兵団が持つ武力は桁外れでふざけておる。
一人で戦線をひっくり返すほどの実力を持ったものが五人も揃っておるのじゃ。
負けるところなど想像できぬ。
数日後、戦に勝利した。
まさしく逆転劇で、我が軍と他の傭兵団が苦戦した戦場に、横槍からの奇襲を行ったガングレイブ団。
相手の分隊を真っ二つに分け、孤軍となった端から殲滅するという策をとったらしい。
そのとき、騎馬軍を率いたのはガングレイブ団長殿とのことじゃ。
その後はアリを潰すが如く、各個撃破は成功し、敵は潰走。
相手を追撃し、壊滅した。
戦は完全勝利。相手方の指揮官や大将も捕虜として捕らえ、完璧な勝利をもたらしてくれたのじゃ。
戦から帰ってきた軍を、民は大手を振って出迎えた。
戦勝パレードは盛大に催され、城に戻ってきた兵たちは、待機の仲間たちと勝利を分かち合った。
指揮官も将軍も、王より報奨や勲章を賜り、嬉しそうじゃった。
父上は言っておった。
「今回の戦。ガングレイブ傭兵団がおらねば朕はここにおらぬだろうな」
「そこまでの実力を持ってたのですか?」
「うむ。奇襲による戦場の横槍から、各個撃破までが恐ろしくスムーズであった。各個撃破も、隊長格の一騎当千の実力の前に淡々とこなされておるように見えた。
何より、後の追撃もすぐに終わったわ。テグ殿の弓は恐ろしい距離から届いておる。深く追撃する必要もなかった」
父上の顔は、生きた喜びよりも死神を味方につけた安堵の方が大きいように見えたわ。
しかし、悩みも発生した。
傭兵団に追加報酬を払わねばならぬのじゃが、その金が不足しておった。
大臣たちも将軍や指揮官の言葉を聞いておったがため、正直にいえば妾もガングレイブ殿だけに払えばよいと思っておる。
他の傭兵団は、正直数合わせの役立たずであった。将軍たちも、良い印象を抱いておらぬ。
どうすればいいか。とそこで、
きゅるる~。
妾の腹の虫が鳴った。
赤面して顔を俯かせたが、心なしか父上も大臣たちも安心した顔をした。
「姫様も、安心してお食事を取れるようになったのですな」
「いかにも。平和が一番とは、平和になった瞬間にこそ感じるものですな」
それを聞いた父上は、妾に笑いかけてきた。
「どうだろうか、いっそのこと我が娘に美味を作れたものに報奨を払うというのは」
「そうですな。それでガングレイブ殿に支払えばいいですな」
それでいいのか、と正直妾は思うたが、まあそれもいいかなと黙っておった。
そして傭兵団団長と補佐を呼び、謁見の間で話をすることになった。
他の傭兵団は団長のみがここにいるが、ガングレイブ殿は隣に不思議な男を連れておった。
黒髪に黒い瞳、線の細い体になよなよとした顔。
なんなのじゃろうか、こいつ、と正直思うた。
話が始まると、父上が決めたことを話し始めた。
曰く、追加報酬を支払う。
曰く、払うのは一つの傭兵団だけ。
曰く、美味を作れ。
傭兵団団長は不満そうな顔をしておるが、妾に言わせれば生き残るだけ生き残って、こっちの足元を見て値を釣り上げたお前らに払うの嫌じゃと言いたい。
なので、妾は意地悪を言ってやることにした。
「妾が食べたいのは、甘くて酸っぱくて辛くて苦い、おいしい料理じゃ。
もって来るがよい」
これには傭兵団たちの顔が曇っておった。隣の父上も、表情には出さぬが、それは無理だと言いたそうであった。
じゃが、これだけ言っておけばよかろう。そもそもそんな料理期待しておらぬ。
妾はこの国の美味珍味を食べ尽くし、舌には自信がある。ガングレイブ団がマシなものならば、他の団も文句あるまいて。
実際、他の団が持ってきたのはひどいものじゃ。食えたものじゃない。
さすがに自分で言っといてなんじゃが、キレそうじゃ。
「まずい!」
本当にまずいのじゃから仕方ない。こんなゲテモノ食えるはずがない。
トボトボと他の団が帰っていく中、最後にガングレイブ殿がやってきた。
隣の男が皿を持っておることから、どうやらあの男は料理番であったらしいの。
「姫様。私どもの料理人、シュリが料理を支度しました。お召し上がりください」
「最後はヌシか……」
まずい料理を食べ続けたことで怒りが沸いてくるが、抑えつけて言った。もう疲れてもおる。
しかし、シュリという男が出したのは不思議な料理じゃ。見たこともない。
赤黒い。細切れにした肉とネギと豆腐なる食材は分かる。
しかし他が分からん。妾の鼻でも判別できなんだ。
「なんじゃ、これは」
「マーボードーフです」
マーボードーフ?
聞いたことがない。そんな料理。
「まー……なんじゃて?」
「食べてみてください。美味しいですよ」
嘘くさい。こんな謎のスープが美味しいと思えぬ。
しかしここで食べねば、ガングレイブ傭兵団に追加報酬を支払うことができぬ。
妾は決死の覚悟で口に入れた。
……辛い!!
口の中が燃えるように辛い!
「っ、っ、辛い、辛い!」
辛すぎる! どこが美味しいのじゃ!
「お姫さん、よく味わってください」
味わえじゃと!? この拷問の中でか!
さん付けもしてきよるし、こやつ殺してやろうか!
しかし、我慢してみると、不思議な感覚が口の中に広がりおった。
「……甘い?」
甘いのじゃ。辛い中に、甘さがある。
口の中で軽く砕けて広がる、感じたことがある甘さ。
そう、これは豆じゃ。
豆のほのかな甘さ。それが口の中いっぱいに広がったのじゃ。
「それはトーフの甘さです」
トーフ。
最近、巷に広がった豆を使った食品とは聞いておる。
豆の原型などどこにもなく、そのままでも焼いても煮ても食べれる。
そして熱くても冷たくても美味しさがあるという、不思議な食べ物じゃ。
確か半年ほど前、何処より広がったその食べ物。
これにはそれが入っておったのか。
「それに酸っぱい」
わずかな酸味。これが辛さと甘さをほどよく整えておる。
ようく感じねばわからぬが、確かにある。
「それはトーバンジャンの味の一つです」
トーバンジャン?
それは聞いたことがない。
国一の美食家である妾でも、そんなものがあるとは露と知らなんだ。
「苦くも……ある」
ただ、この苦さは食品のそれとは違う。
後から何かしらの方法で加えられ、自然と加わった味じゃ。
「鍋でしっかりと火を通してますから」
焼いて作る料理なのかこれは?
しっかりと火が通りつつ、焦げた部分など一つもなく。
それでいて焼き特有の苦さがあるのじゃ。
ただマズイの苦いではないの。
しっかりと調理された、独特の苦さじゃ。
「最後に、辛い」
「山椒とトーバンジャンですね」
そうか、辛い中にすっきりとした風味と突き抜ける辛さ。
これは山椒が入っておるからか!
そうと分かると、ただ辛いものではなく、一つ一つが複雑な味と技術を持って作られた、素晴らしい料理とわかるのじゃ。
これほどの味が同居しつつ、まるで喧嘩しておらん。
この城の宮廷料理人ですら、これほどの料理は作れんじゃろう。
これほどの料理人がなぜ、一介の傭兵団などに属しておるのか不思議でならん。
この男ならこの国はもちろん、どの国でも引く手あまたであろう。
じゃが、今はこの料理を堪能したい。
「おいしい! おいしい!」
ああ、戦が始まってより今日まで、耐え忍んできた妾に最高のご褒美が来たとしか思えん。
祈り続け、食事も喉を通らず、大切な父上や重臣、民が無事に帰ることだけを考えておった。
そして戦に勝ち、捕虜も捕らえ、ようやく訪れた平和。
その平和に相応しい料理としか言えん。
「汗を拭きながら食べてください
冷え気味なお姫様にはちょうど良いかと」
「なんじゃと?」
確かに汗をかくほど、体温が上がっておる。先ほどの寒さなど嘘のようじゃ。
気づけば手先足先の冷たさなどなかった。この部屋がちょうど良い涼しさに思える程じゃった。
「ここに来てから寒そうに足先を動かしてたので、そうなのかなと」
こやつ、妾の寒さをひと目で見破っておったのか!?
そして妾は驚愕の事実に至った。
この料理、妾の課題を完璧にこなすだけでなく、妾の寒さも治す薬膳でもあるのじゃ!
美味であるだけでなく、体を温めることもできるのか!
もしかしたら、最初からそれが目的じゃったのか。
課題をクリアしつつ、妾の寒さを治し、追加報酬をもらうに全く文句の出ない料理。
完璧じゃ。完璧な料理人じゃ。
料理を思いつく発想。
それを作り上げる技術。
相手の体調を見抜く眼力。
食材の組み合わせを知る知識。
このものこそ、妾の料理人に相応しい!
「気に入ったぞオヌシ。妾の料理人になれ!」
「あ、それは無理です」
妾の勧誘はものの三秒で断られた。
結局、シュリは妾の料理人にはならなんだ。
父上にも掛け合って、なんとか迎え入れようとしてもシュリはガンとして首を縦に振らぬ。待遇も金もどれだけ良くしても、あのものは涼しい顔で断るのじゃ。
ガングレイブ殿も、どれだけ値を釣り上げても譲ろうとせなんだ。
いや、気持ちは分かる。
あれだけの機転と技術を持った料理人。これからガングレイブ傭兵団が大きくなっていくには必要不可欠な人材じゃ。
故に欲しい。それだけの実力を持つシュリという人間が。
「はあ……」
妾はベッドに突っ伏して嘆いておる。
あれだけの美味を食したあとでは、晩の宴など霞の如し。
あってもなくても変わらぬ。
無論、戦勝祝いとして開かれる宴に文句などあるはずがない。
将軍や兵、民の苦労を労うことになんで文句があろうか。
しかし、マーボードーフと比べると宴の料理に魅力を感じぬ。
「やはり、どこかで密偵を遣わし、秘密裏に攫うしか……」
そんな恐ろしい考えを平然と口に出せるほど、妾はシュリを求めておる。
無論、あの男が作る料理を求めるのであって、男女の仲などでは決してあらぬ。
「姫様。我が城の料理人が食べて欲しいモノがあるらしいですが……」
入ってきたメイドが、ちょっと困った顔をしておった。
ノックに気づかぬほど思案しておったか。
「なんじゃ? 妾は思案に忙しい。それに後には晩餐会ぞ」
「ええ、私の方からも言ったのですが、どうしてもと聞かず……」
なんじゃ? 今晩の新作料理の味見でも求めておるのか?
ベッドに腰掛けて顔を上げると、そこには妾にとって信じられぬものがあった。
「このマーボードーフとかいう料理の試作をしたそうなのですが……。やめておき」
「すぐにこちらへ!」
「は、はい!?」
メイドが驚いておるが、知ったことではない!
急いで持ってこさせ、口に入れる。
……シュリの料理には到底及ばぬが、確かにマーボードーフじゃ。
作りが甘いのか調味料がわずかに違うのか。シュリのような完璧ではない。
じゃが、マーボードーフに違いない。
「どうしてこれを?」
「はい、実はガングレイブ傭兵団料理番が、台所を使わせてくれたお礼にと、レシピと調味料を少し残していったのです」
「なに!?」
あれほどの料理のレシピを、なんの惜しげもなく公表するのか!?
「それで料理人が試しに作ってみたら、全員がその料理に使われている技術の高さと美味しさに驚き、原型を食べたことがある姫様に試食と感想を、とのことです」
「そうか……」
正直言えば、シュリのとは雲泥の差じゃ。
しかし、初めてでこれだけ作れれば、及第点と言えよう。
「感想は直接伝えよう」
「わかりました。それと、次の試食ですが」
……なんじゃと?
「次? 何かあるのか?」
「はい、実は料理番が残したレシピは一つではないのです」
一つではない!!?
「どういうことじゃ!」
「はい、それがマーボードーフを別のものに組み合わせたり、調味料を変えたりとレパートリーがいくつかあるのです。
残していく際に料理番が『同じものでは飽きますので、いろんなマーボードーフを楽しんでいただければなと』と言い残しております」
なんということじゃ、あの魅惑の料理は種類が豊富にあるのか!?
もしかしたら、自分に密偵が放たれることを予想して、料理に目がいくように仕向けておるのか?!
おお、シュリはいったい何手先まで読んでおるのか……。
ますます、シュリが欲しくなってしもうた。
しかし、密偵を放って攫うのはやめとしよう。
今は、そのいろんな種類とやらを楽しませてもらう。
「晩餐会の後日、料理人に試作品を作らせて試食させよ。これは、我が国に新たな文化が生まれる素晴らしい機会かもしれぬ。
気合を入れるよう、伝えよ」
「はい、畏まりました」
メイドが部屋を去っていった後に、妾は一人になって考えた。
そして笑いが止まらなかった。
「くくくくっ。シュリよ、そなたがなんと思おうと、そなたは妾が必ず手に入れる。
これだけ妾を魅了したのじゃ。自らの腕を誇るがよい。
くくくく。美食家である妾をここまでにするとはのう」
シュリの料理は、体の調子を整えて気分を高揚させる。
それは戦だけでなく外交でも役に立つじゃろう。妾には分かる。
ガングレイブ殿がシュリを手放さぬのも、そういうことじゃろう。
かの料理で団をまとめ、交渉も外交も有利に働かせる。
やり手じゃのう、ガングレイブ殿。
さすがは“権謀術数の悪魔”と呼ばれておる。
後日、妾はマーボードーフの亜種を試食した。
どれも美味じゃ。シュリが作ったものを食べてみたい気持ちがあるが、今はこれでよかろう。
レシピには調味料の作り方や火のかけ方まで詳しく丁寧に書かれておる。宮廷料理人たちなら、いずれこの技術を手に入れることじゃろう。トーフの作り方まで載っておるのじゃからのう。
妾は父上に掛け合って、シュリが他国に及ばぬようにすることを進言した。
「あの料理人を他国に渡せば、きっとニュービストにとって害となりましょう」
「そこまでか? 朕には分からぬが」
「父上、いや領主さま。これは確実に言えることです。
私が料理と舌を通じて得た料理人の技量と機転は、何者にも代え難いほどでございます」
「ならばどうしろと? 秘密裏に殺すのか?」
「いえ、それは最悪の手でございます。そうなされば、ガングレイブ傭兵団をまるごと敵に回すことは間違いございませぬ。
あの武力が、闇討ちなど躊躇うことなく行い、我が領地に牙を剥きましょう」
「そ、それは避けたい。では、何か手はあるのか」
「唾をつけておくのです、王様」
妾が考えたのは、報奨として包丁と手紙を送ることじゃ。
それも、包丁には我が国の紋章をつけた最高級のもの。
手紙には王族が送れる最大の敬意を払ったものを、じゃ。
そうしておけば、他の国がシュリに手を出そうとしても横槍を入れられる。
『そちらの国は、我が国と懇意にする料理人をどうするつもりだ』と。
遠まわしに、妾の国に仕官予定の人間を引き抜いて外交的に争う覚悟はあるのか、と言うためのものじゃ。
他国の中には、ニュービストの食料を輸入しておる国がある。
今回の戦の勝利の功績と貿易の有利を持ち出し、牽制することができるのじゃ。
シュリよ。いつかまたあいまみえようぞ。
その時は、もっといろんな料理を堪能させてたもれ。
ニュービスト公国。
それは元鉱山地帯であったユユビの大部分を大規模農耕地帯として吸収し、広大な森林からの食料供給と合わせた広大な食料生産地である。
ユユビとの戦の後、ユユビの王子を人質に交渉し、莫大な賠償金と土地を手に入れたことから始まった。
ここで作られる食料はどれも品質が高く、他国にも人気がある。
そのようなお国柄、料理技術も高かった。
街を歩けば料理店が立ち並び、どれも美味である。
ここを訪れる観光客の誰もが、この国独特の料理を堪能し、満足して帰っていく。
そしてニュービストには郷土料理にして王族も召し上がる料理がある。
王族から民へレシピが公表されたそれは、瞬く間に国中に広がって定着した。
後にニュービスト公国一の美食家にして女王となるテビス・ニュービストはその料理をこよなく愛し、年老いても必ず一週間に一度は食べるほどの好物。
“食王”シュリ・アズマが残したマーボードーフを好んだとされている。
また、マーボードーフは“食王”シュリ・アズマがこの世界に初めて公表した料理として語り継がれていくことになる。