五十八、ニュービストへの入国と麻婆茄子・中編裏
とても空虚な時間だった。長い時間が流れた気がする。
シュリがいなくなり、あのチャーハンが食べられなくなると知り、あの顔を見ることもなく、あの声を聞くこともなく、互いの苦労を分かち合うこともなく。
なんというか、感じたことのない喪失感があった。
今までも仲間たちの死を、目の前で見て、後で口述で知るなど、身近な人の死なんて当たり前のように感じてた。感じてたし、当たり前だし、いちいち悲しんでられない。
「ウーティン。何をしておる、出るぞ」
少し呆けていた自分に、姫様が声を掛ける。
「今日は街にある、新しい鍛冶工房への視察じゃ。行くぞ?」
「あ、はい」
しまった。姫様への注意が散漫になってしまってた。
この頃、集中力が切れる時があって困る。ほんの一瞬、瞬き以下の時間だけ意識が途切れることがあるんだ。
自分はどうしてしまったのか。自分は目を固く閉じてから開き、姫様を見る。
「大丈夫、です。護衛、いたし、ます」
「そうか? ……何かあれば、言うのじゃぞ?」
姫様が心配そうな顔をしてから部屋を出ようとする。自分は急いで姫様の前で扉を開き、後を付いていく。
これはダメだ、恥ずべき事だ。と、自分は気合いを入れ直す。ただでさえ意識が途切れてしまうことがあるというのに、姫様の世話すらも抜けてしまうのはいただけない。
だがその後、自分の集中力が途切れる瞬間が二度ほど起きてしまう。
「気を抜きすぎだな」
「……うるさい」
鍛冶工房への視察が終わったあと、自分は街を歩きながら姫様の馬車を追跡する。人混みに紛れながら、ゆっくりと走っていた。
その自分の耳に、同僚の声が届く。その声は淡々としつつも、こちらを皮肉ってるのがよくわかった。
ただし、その姿は見えない。今の自分の目では捉えることができない。
「そんなだから、姫様の馬車の同席を他の同僚に奪われるんだ」
「……」
そう、姫様の馬車に同席しているのは自分ではなく、別の同僚だ。いつもは自分が同席するのだが、同僚が隊長からの命令として自分の同席を許可しなかったと伝えられた。
目の前が真っ白になるほどの衝撃で、思わず膝から崩れ落ちそうになったほど。
姫様も自分に同席するように言ったが、同僚が頑なに隊長からの命令と姫様に伝え続けた。
あまりにも頑固すぎたので、姫様は仕方なく同僚と一緒に馬車に乗って移動している。
仕方なく、と思いたい。
「お前、どうしたんだ。前までは完璧に仕事をしていたはずだ。なのに、随分と狂ってしまった」
「……わかれば、苦労、しない」
「だろうな。普段のお前を見れば、どうして自分自身がそうなっちまったのか、わかってないだろう」
自分は姫様の馬車から目を離さないまま、顔をしかめる。
「お前にはわかると?」
「わかるわけねぇじゃん」
ケラケラと笑う同僚の声に殺意が湧いてくる。
「おいおい、殺気が漏れすぎだ」
「……うる、さい」
「全く、本当にどうしちまったってんだ? まぁいい。連絡だ」
唐突に同僚の声に硬さが宿る。
「リルがこの街に来た」
「……どこ」
「このまま真っ直ぐ、あと五分で接触」
「姫様には?」
「連絡済み」
「了解。位置に着く」
す、と後ろから気配が消えた。ここまで近くに来ていたのに、自分は気づかなかったのか……情けない気持ちが湧いてくる。
弱音を吐いてる場合じゃない。急ぐ。自分は姫様の馬車へ視線を向けた。
すると、速度が速くなる。姫様だな、さては。
リルがいると聞いて、急いだが。自分も歩く速度を上げて、馬車の追跡を始める。
移動の合間に、自分は思考する。頭の中で今後のことを予想し、対策を立てる。
「おい、リル、は、何故、ここに? 前、は、姫様の勧誘を断、って、いたのに」
「よくわからん。数人の人間を伴っている」
「だれ?」
「リルを含めて7人」
「7人?」
姿が見えない、先ほどの同僚が耳打ちしてくる。
なんだその大所帯。以前見たリルの様子からは考えられないほどだ。
シュリが、いなくなってから、のリルはなんというか……なくなったものをあると思い込んで抱え込んで生きてる感じだった。
なくなったとわかってても、どこかでまだあると信じていて、でもないのはわかってるから自己矛盾を起こしている、という印象があったが……いや、どうだろう。
そんな感じで良くわからなくなっていた。
でも、そんなリルが7人の大所帯でここに? 何故?
自分は予想できずに両目を細める。
「それで、だれ?」
「一人はテグだ」
「テグ、か」
そこまでは予想できる。テグはシュリの遺品か遺体を捜して旅をしていると耳にしていた。
区切りを付ける旅をしていた。
テグと合流している。ここに来ている。
偶然、で片付けるには嫌な予感しかしない。
見付かった、のか?
「……残りの5人は?」
「正体不明。一人は白と黒の斑髪、片目を白濁とさせた男だ」
「他の4人は?」
「正体不明。同じ意匠の服を来ているから、どこかの村から出てきた田舎者、にしては歩き方がおかしい。俺たちに近いが、どこか遠い」
こんなもの予想できない。自分は姫様を止めるべきかどうかを思案する。
リルは誰を連れてきた? どこでテグと合流した? 二人でニュービストに来て、姫様に会わずに何をする?
一緒にいる5人は誰だ? 4人はおそらく、よその国の諜報員のようなものかもしれない。警戒は必要。
そして、最後の一人。斑髪の男。
リルとテグの知り合いにそんな髪の男はいなかった。4人の諜報員もそうだけど、そんな特徴的な髪の色をしている男なんて、聞いたことがない。
結論、止めない。
「姫様、の護衛を、よろ、しく」
「お前は?」
「他の5人が、何者、なのか、確かめ、る」
短く答えた後、同僚の気配が消えた。今の自分は少しだけ感覚が戻っている、同僚が右にいたことは気づいた。これから建物の上に行こうとしているのがわかる。
民衆は姫様の馬車が走っていることに驚きながら見ている。自分はその意識の隙間を縫うように、スルスルと進んでいく。
遠くにリルとテグの姿が見えた。
「あれ、か」
久しぶりにテグを見た。昔よりもどこか雰囲気が……うん? おかしいな。
リルとテグの雰囲気が、まるで数年前に戻ったかのように活き活きとしている。
そして、斑髪の男がいる。何者だ?
……ん? あの服装は……いや、まさかな。少し自分、おかしくなってるかも。
だが、警戒すべきは斑髪の男じゃない。リルたちが馬車に気づいた瞬間に動いた他の4人の少年少女たち。
自然な動作で人混みの中へと消えていく。
ほんの、ほんの僅かなブレ。もしあの子たちがもっと習熟した技術を持っていたら、自分はあの4人の違和感に気づけなかった。
「自然。あまりにも」
自然すぎる別れ方。気を付けて見ていなければ、たまたま近くに居て、たまたま離れただけに見えただろう。
でも、どこか意識的に見えてしまった。ほんの一瞬、一秒以下よりもさらに短い時間だけ見せた意識。
あの4人も警戒だ。
警戒しなきゃいけないのに、どこに行ったのかを見失ってしまう。
「くそ」
自分も人混みの中に紛れ、リルたちの様子を窺う。馬車から姫様が出てきて、リルたちと会話を始めた。
「まさかまたニュービストに来てくれるとは。驚いて妾自ら、出迎えに来てしもうたわ。とうとうこの国に仕官してくれる気になったかの?」
「いえ、再び旅の道具を揃えようかと」
「無体なことを言う。もうこの国に骨を埋めても良いではないか」
「リルには、リルのやることがあるんで」
「そうか、でも妾はしつこく勧誘するぞ。まずはこっちへ」
親しく話す姫様が、リルの違和感に気づく。
「……ん? リルよ、何故旅の道具がない? 持っておったじゃろ?」
そうだ。前は大切そうに持っていた荷物を、今は全く持ってない。なんなら手ぶら。
テグもそうだ。何も持ってない。獲物である弓と矢籠だけだ。旅に必要な荷物の類いが、一つもない。
姫様が不思議そうな顔をする。自分はその場を自然に見ながら周囲にも気を払う。
どんどん周りに野次馬が増えてきたな。遠目から姫様を見ようと、たくさんの人が集まってきて輪を作りつつある。
これは、マズい。人混みに紛れた4人を探すのが困難になってくる。気配が読めない。
「途中で落として」
「大事な荷物じゃろう? 何があった?」
「……実は戦争に巻き込まれて。戦場から抜けるために、仕方なく」
「……興味深い話じゃの。詳しく聞かせてくれんか? 城へ」
姫様の言葉が止まった。
その目は、テグの方へ向けられてる。
姫様はテグのことについて、ようやく気づいたらしい。リルの方しか見てなかったんだろう。
ていうか、テグがここにいると思わなかったんだろう。仕方が無い、自分にとっても予想外だ。姫様といえど、事前に知らされてなければ思いも寄らない。
「……テグか?」
「お、お久しぶりにございます、ス。テビス姫様」
「おお、テグも一緒じゃったか! 久しぶりに見たのぉ……確か、シュリの痕跡を、遺体や形見を探す旅をしていた、と聞いておったが……」
「ええ、まぁ……」
「……見つかったか?」
「……」
ふぃ、とテグが顔を逸らす。
だろう、な。そういう、ことなんだろう。テグの態度が、全てを語っている。
姫様はテグへ悲しそうな声で言った。
「……仕方あるまい、見つけるのは容易ではないのじゃ。なぁテグ、どこまで探したか、城で聞かせてはくれぬか? 妾の方でも、探してみたいのじゃ」
「お、おぅ。そ、うっスね」
「……何故動かぬ??? まるで動けぬように見えるが???」
姫様が不思議そうに聞く。
言われてみればおかしい。さっきからテグはジリジリと人混みの中にどうにかして紛れようとしている。
……そういえば、リルとテグは人混みに紛れて姿を隠した4人以外にもう一人、いたはずだ。どこにいる?
とか思ってたが、件の斑髪の男がテグの後ろにいた。さっきから人混みの中に入ろうと、紛れようとしていたのは、あの男を人混みに押し込むためか。
「テビス姫、リルたちの周りに誰かいるのは?」
「ああ。門番から話が伝わってきたのでは。リルの動向を探らせておっただけじゃ。敵意はない、すまぬの」
斑髪の男が周囲をキョロキョロと見る。視線があちこちに行く。
そして、自分と目が合った。
「あ」
「……」
男の口から出たのはマヌケな声。
? なんで自分を見てそんな声を出す。まるで自分と前から知り合いだったかのような――。
「……?!」
シュリ。
シュリ?
シュリ……。
シュリ!?
今になってようやく気づいた。あの服装はシュリのものであるし、髪型もそう、顔つきだってそうだ。
違うのは髪の毛の色と、片目の白濁だけ。それ以外は全て、前と同じ。
前と同じ。
前と同じだ。
前と同じ姿でそこにいる。
つまり、生きてる。
シュリは、生きていた。
シュリは生きていたんだ。
生きてそこにいて。
人混みに紛れて逃げようとしてた?
自分でも意外だった。
すぐに行動していた。
シュリの元へ歩いた。
頬が熱い。気分が高揚している。
体が熱い。体中の血液が発熱したかのような。
シュリの目の前に立った。
そこにいる。
泣きそうだった。
涙なんてないと思ってた自分の目から、涙が溢れそう。
でも、でもだ。
シュリは自分の姿を見て、少し逃げようとしてる。
それを見て、なんだか腹が立ってきた。
逃がさない。
「は?」
自分はシュリを抱きしめた。背中に手を回し、しっかりと胸の中にシュリの体を収めて。
逃がさないように締め上げる。ぐ、と腕に、胸に、肩に、全身に力を込めて締め続けてみた。
「捕まえ、た」
「おごごごごご」
シュリの口から苦しそうな息が漏れるが、知ったことか。知らない。逃がさない。
こっちの様子に気づいたリルとテグは、一瞬に何が起こったのか理解できなかった。
「シュリ!?」
「え? どうしたっスか?」
気づいた瞬間、リルがこっちを見て口を開き、テグは慌てている。
一連の行動の中で自分だけ、妙に冷静な心持ちをしてる。
スタスタとシュリを抱き上げ捕まえたまま、歩く。
呆気に取られてる姫様を前に立ち、
「姫様。シュリ、を、捕まえ、ました」
堂々と宣言してみた。
「……は?」
姫様の口からマヌケな声が出た。
姫様のこんな姿は、初めてみるかもしれない。
何秒か固まったあと、フラフラと姫様はこちらに近づいてくる。
「シュリ、なのか?」
「……まぁ、はい」
抱きしめられてるシュリは、とても気まずそうだ。自分から顔を背け、視線を落として目を合わせないようにする。
気まずそうな顔も、目線も、何もかもが苛立ってくる。
「……顔を、見せてくれるか?」
自分は一瞬、シュリを解放するとクルッと姫様の方へ姿勢が向くように回転させる。
真反対に振り向いた瞬間、自分はシュリを後ろから抱きしめて捕まえる。こうしないと逃げそうだからな、シュリは。
姫様はシュリの顔に手を沿えると、震える声で問う。
「おお……髪は、どうしたのじゃ?」
「わかりません……気づいたときには、こうなってました」
「では……目もか?」
「はい。一応、こんな見た目ですが視界に問題はありません。ばっちし見えてます」
そうか、その白濁した片目は失明したわけじゃないのか。自分、ちょっと安心した。
「そうであるか」
姫様は俯く。
「そうであったか」
姫様はシュリの手を取ると、自分の頬に当てる。
「生きてて良かったのぉ」
愛おしそうに、触れられなかったものに触れるように。
大切にシュリの手をさすっていて、その手に涙が伝う。
「あの……」
「なんじゃ?」
「生きてました。帰りました。ただいま、です」
シュリは気まずそうに微笑みながら言った。