五十二、変化
『親父殿にだけ美味しい料理を出して! ずるい!』
『ご、ごめんなさい……』
どうもシュリです。お疲れ様です。
ノーリ様が家を出て行かれたので、僕も皿洗いや家の掃除などの家事を行うことにしました。そもそもこの家に置いてもらってる理由って、家事全般をするためだしね。
一通りの家事が終わって、リルさんのところにでも言って話をしようかと思った頃、どうやら鍛錬か修行かわかりませんがレイ様とゼロ様が帰宅。
そして何故か、掃除したのに匂いで料理をしていたのがバレて、現在に至る。
『美味しそうな匂いが残ってるし……豚肉がそこで保存処理されてるから、さては豚肉で豪勢な料理を作ったな! 羨ましい!』
『なんでそこまでわかるのか……』
『レイはもともと執着心が強いんだ、諦めろ』
困惑する僕に、肩に手を乗せてやれやれといった感じで首を振るゼロ様。
確かにこの人、結構食い意地が張ってたりしてたなぁ。リルさんにどことなく似ている。
まぁそれはいい。欲しいと言うのならば作ろう。
『ノーリ様から、他の方々にも同じ料理をお出しするように言われています。少しお待ちいただけますか?』
『作ってくれるなら問題はない』
『俺も頼む。修業で腹が減ったよ』
『では少々お待ちください』
どうやら落ち着いたらしいレイ様は囲炉裏の側に座ってソワソワしている。ゼロ様はそれを見ながら苦笑していました。
さて、作るのはいいけど豚肉は保存処理のために塩漬けと茹で途中だったからなぁ。さて、どうしたものか。塩漬けにしてたのはそのまま保存処理して、茹でていたものを別の料理にする? それとも……うーん。
『ちょっと料理が変わってもいいですか?』
『認めぬ。さっさと親父殿と同じものを出せ』
くそ、融通が利かないな。やったことないけど、塩漬けにしようとしていたものの塩を落として作ってみる? いやそんな博打は……。
『来たぞーヌル!』
『さぁ! お裾分けの豚肉の代わりにあちしたちにバウムクーヘンを作れ!』
『なんとタイミングが良い!』
迷っていた僕でしたが、唐突に家の扉を開いてやってきたシファル様とシューニャ様が豚肉を持ってきたことで解決した。
二人ともそんなにもバウムクーヘンが食べたいのか、ワクワクしながら厨房のまな板の上にブロックとなった豚肉を置いて、囲炉裏の近くに座ります。
この二人の図々しさに、さすがのゼロ様も眉をしかめていました。
『おいおい、いきなり来て料理をよこせってのは厚かましいぞ』
『へん! その代わりこっちだって豚肉を持ってきた!』
『はん! だからお返しをもらってもおかしくない!』
『まぁちょうど良いときに豚肉を持ってきてくれたから、今回はチャラにしよう』
四人はそう言い合っていましたが、僕のほうはまぁこれでトンカツが作れるから良いかな、と思ってさっさと調理を開始しています。
調理手順は前回のノーリ様の時と同じ。細かいところは省きまっせ。
『できましたのでお持ちしまーす』
『待ってた!』
囲炉裏の側ではすでに食べる気満々のレイ様がこっちをワクワクした目で見ます。
他の方々もレイ様ほどではないのですが、こっちへの好奇心が抑えられてない様子。
なのでとっとと運んで皆様にお出しします。
『どうぞ』
『じゃあさっそくいただこっか!』
『じゃあ待ったからいただくよ!』
トンカツに一番に手を付けたのはシファル様とシューニャ様だった。素手でトンカツにさっぱりソースを絡めて口に運びます。
二人とも口の中に入れた瞬間から笑顔を浮かべて、美味しそうに膝を叩いて喜んでいました。
『『旨い!』』
『豚肉の脂と!』
『さっぱりとしたソースが絡まって、美味しい!』
『いくらでも食べられるくらいあっさりしてるのに、食べ応え十分な感じ!』
『胃の中に満足するまで入れても腹がもたれないのは素晴らしい! 美味しいって言うのが文句なし!』
そんな感じでシファル様とシューニャ様は美味しそうに食べてくれました。
うーん純粋に嬉しい。多少大げさに見えるが、この人たちはいつもこんな感じだ、気にするだけ無駄さ。
んで、レイ様とゼロ様を見れば、こちらは静かにだけど美味しそうにトンカツを食べてくれてます。ていうかシファル様とシューニャ様が騒がしすぎるだけなんだよな。
『確かに旨いな、これ。暑い日とかには疲れた胃に優しいぞ』
『同感。さっぱりでしっかりと腹に溜まる。うん、これを親父殿が一番に食べたと思うと業腹ものよ』
『レイ様、それは仕方ないと思ってください……』
恨みがましい目をしているレイ様にそれとなく言っておきます。
仕方ねぇだろちゃんとした話をするために何故か頼まれたんだから。結局あれはなんのためだったのかわからないんだよなぁ。本当に。
『『ごちそうさま!!』』
そう考えてると、シファル様とシューニャ様がすっかり皿を空にして、満足そうにしていました。
『美味しかった』
『旨かった』
『『満足満足』』
『それはようございました』
僕はそう言うと、二人の前の皿を手に取って洗い場へと持って行きます。
すっかり空だわ。ソースもない。ここまで綺麗に食べてくれると嬉しいね。
『で? ヌル』
『それで? ヌル』
『『しめのデザートは?』』
『おいマジか』
思わず驚いて振り向きました。
だけどシファル様とシューニャ様の顔は笑顔のまま、冗談を言ってる感じはない。
おいおいトンカツを食べてデザートまで頼むのか。
『ちなみにデザートは』
『『バウムクーヘン』』
やはり冗談ではなかったかっ。
いきなりバウムクーヘンを作るには準備も食材もないので無理ですと説得し、僕は外に出ました。レイ様とゼロ様は家で休んでいると仰ったので、二人して留守番。
その間に僕は僕で自分の用事を果たそうと思ったのですが……。
『何故に二人して付いてこられるのですか?』
『なんか面白そうなことをしようとしてるんでしょ!』
『あちしらがそれを見逃すと思ったか!』
『うーんこの一体感』
僕は困り果ててしまってました。このまま付いてこられて行く先を見られても問題はないのですが、バウムクーヘンを作るまでいられるのは困る。
実は前……ヌルだったころに思い出して作ってもらってたものがあるのです。それを使ってリルさんに何かを作って届けようと思っていました。
が、ずっとシファル様とシューニャ様がずっと付いてくる。この状況でリルさんに会うと、また何か問題がありそうで怖い。
『とは言っても、これから行くのはスィフィル様の仕事場ですよ』
『スィフィル様?』
『獣の解体小屋? なんで?』
二人とも息ピッタリに聞いてくる。なので僕も隠すことではないなぁと思って口を開きました。
『前々からスィフィル様に提案して作ってもらってる、新しい食材があるんです。それができてるかどうかを確認したいと思いまして』
『新しい食材!』
『ふむ、食べたい!』
シファル様は舌なめずりをして、シューニャ様は生唾を飲んでいる。
この二人、結構な食いしん坊なんだよな。どうしたもんか。
なんせヌルだった頃にスィフィル様に提案してたもので、それが実現してるかどうかなんてわかんないからね。失敗してたらどうしようと、ちょっと膝が震える。
で、村の中心からちょっと離れた小屋まで来た僕は、ちょっと眉をしかめました。
なんせ野生の獣を狩猟して解体するわけなので、当然使えるものは全部使い切るように加工するわけです。そうじゃないと動物に失礼だしもったいないですから。
するとどうなるか? 当然だけど匂いが凄い。日本でいろいろと技術が進んでいたり対策をしているだろう、と畜場でも匂いがあると言われるくらいですからね。
『こちらに用事があるんですけど、一緒に来ます?』
『『ここで待ってる』』
シファル様とシューニャ様は同時に言いました。
まあそんなもんか、と思って僕だけで中に入ることにします。
『失礼しまーす』
かなり匂いは凄いではあるんですけど、用事はここで作られるものにあるので入らざるを得ない。なので入る。
なんだかんだでこういう場所で肉やら皮やらを作らないと人間は生きていけないので、そういう匂いがする場所なんだとちゃんと受け入れないとね。文句を言うのは動物にもそこで働く人にも失礼だぞ。
あとと畜場にはと畜場法っていうちゃんとした法律が定められてたりするぞ。食品衛生や家畜疫病に対する感染防止について記されてるから、興味のある人は調べてみるといい。
さて、中では獲ってきたウサギやイノシシ、鳥などが吊されたりしていました。
日本のと畜場には入ったことがないので詳しくは知らないですけど、ここでは皮を剥いでなめし、肉を解体して保存処理……茹でたり塩漬けにしたり干したりとしている。
あと骨なんかも使えるものは全部使い切るようにしているみたいです。
中で働いている人たちは厚手の皮のエプロンと皮の手袋、口元にはマスク代わりの布で唾液が飛ばないようにして、髪なんかもまとめてバンダナのようなもので落ちないように対策をしていました。
『やはり異世界といえど、こういうところの衛生管理はちゃんとしてるんだなぁ……』
『当然よ。腐った肉でみんなのお腹を壊したら大変だもの』
仕事内容を見て呆けていた僕に、スィフィル様が現れました。他のみんなと同じ格好をして、血まみれの皮手袋をしています。
正直匂いが凄いけど、さっきも言ったとおり仕事内容で嫌そうな態度を取ってはならない。そこで働いている人に失礼だぞ。
『お疲れ様ですスィフィル様』
『お疲れ、ヌル。さっそくだけどこれ』
スィフィル様は僕に布を二枚と皮エプロン、皮の手袋を差し出してきました。
『中に入るんならこれを身につけてね。それが決まりだから』
『了解です』
僕は受け取ったそれらを身につけ、ちゃんと身支度を整える。
ていうか、皮エプロンはごついけど皮手袋は指が動かしやすい。もっとゴワゴワして厚くて動かしにくいと思ってましたが。凄いな、こういう機能的なところはちゃんとしてる。
『それで? ここには何の用事?』
『はい、大分前に僕が提案してたものができたかを見に来ました』
『ああ、あれ? ……試作品はできてるわよ。まだ研究の余地ありね』
『見せてもらえますか?』
『こっちにおいで』
スィフィル様の案内で解体小屋の中を歩く僕。
小屋、とは言いますがここではその日の量にもよりますが、大小様々な動物が持ち込まれて加工が行われています。狩猟動物やら、集落から離れたところで行われてる畜産動物やらね。だから結構規模がでかい。
その中を歩いていると、結構な人数の女性が頑張って働いているのが見えます。
『しかし、ああいう方法で新しい加工製品を作れるとは思わなかったわ。今までは骨は肥料や装飾品、皮は革に加工して防寒具や防具に、肉はそのまま保存食品とかにしてたわけだけど』
『にかわは作ってたんですよね? あれも似たようなもんでは?』
『あれは骨やら皮やらを煮こんで濃縮させた、接着剤として使ってたもんだから。木工製品に使うか別に用途があったりするものよ』
スィフィル様はなんでもない様子で答えますが、それも結構な加工製品だし用途が広いよなぁとは思う。
『でもあなたが試しに作って欲しいと言ってたものは、にかわとは別の用途……幅広く使えるものだからね。私としても作ってみたかったし、上手くすれば新しい製品として諸外国に売れるわ』
『それで、その試作品とやらは?』
『ここね……どう?』
解体小屋の一角で、六人ほどで作業してる人が集まっていました。
大鍋がいくつもあり、それを扱う竈もある。その人たちが困った感じで動物の皮を扱っていました。
『ああスィフィル様。とりあえず試作品はできました。結構手間がかかりますねこれ……』
『そうね。今のところは採算度外視で研究するしかないわ。それで?』
『ええ。ヌルが教えてくれたものはこれです』
そうして作業員さんが出してくれたのは、透明な四角の塊です。
プルプルしているそれは、僕の世界では見慣れたもの。
『これがゼラチンですね』
僕が頼んだのはこのゼラチンです。
ゼラチン。それはゼリーなどの食品にも使えるし、医療としては止血剤、粘着性からは楽器やらの接着剤にも使われる割と用途が広い物質。
サブラユ大陸では未だにどこでも使われたことのない、製造されたことのない製品ですね。しかし……。
『量がそこまでないんですね』
『仕方ないでしょ、ヌル。にかわよりも作るの手間が掛かるんだもん。むしろこれだけの量を試作の段階で形にできただけでも儲けもんよ』
僕の呟きにスィフィル様が不満そうに言いました。
確かにゼラチンは滅茶苦茶作るのが大変です。本当だったら希硫酸だとか使わないと高品質なゼラチンは作れません。
で、この世界に塩酸や硫酸なんてないし手に入らない。ならどうするかって、石灰を使います。さすがに石灰は手に入る。具体的には里の近くの崖から発掘できる。
運が良かったよ、まさか石灰質の土壌があるなんて思わなかったから。これが無かったらそもそも思い至らないし、石灰を使わないゼラチンの製造方法なんて知らない。むしろ無理なのでは? 学生時代の工場見学のうろ覚え知識だもんなぁ、形にできただけ凄いよ。
ざっくり説明すると豚の皮とかを毛抜きして水洗いして、石灰に数ヶ月浸ける。
そうしたら原料を洗って湯で加熱、ゼラチンを抽出して、ろ過するってわけです。
『そうですよねぇ……この世界に本格的な工業機械があるわけじゃないもん……』
口で言うのは簡単だけど、実際にやるのは大変すぎます。今だって形になってるものを見て、半ば信じられないんですもん。
地球だとイオン交換処理と化学試験とかもあるもん。もっと複雑な工程があるよ。
『で? これを大量生産できる? ヌルの話だと、これは止血剤とかにかわとは違う用途の接着剤とか、食品とかにも使えるそうだけど』
『手間と経費に対して得られる製品の質や量は釣り合いませんね……研究を進めて利益が得られるように作るにも、あと数年はかかります。ヌルが教えてくれての一年近くの時間でようやくこれですから』
作業員さんが溜め息を吐きながら言いました。
そうだよなぁ……研究なんて最初はそんなもんだし、工業機械や化学薬品がない異世界だとこれが精一杯だ。むしろ僕のうろ覚え知識をここまで形にしてもらったこと自体、ありがたいですもん。
僕はとりあえずゼラチンの塊を見ながら言いました。
『塊のゼラチンと粉のゼラチンを頼んでましたけど、どうですか?』
『塊はこれだけ、粉もこれだけ』
作業員さんが僕に渡してくれた革袋を中身を見れば、なるほどそんなに量はない。
だけど、地球のスーパーで売ってるくらいの量はありますね。
『とりあえずこれで、何か作ってみましょうか。皆様に……振る舞うほどの量はできませんけど』
『ここにいるもんだけでいいよ。他の奴らは別の作業をしてこっちを手伝ってくれなかったからね。試作品を食べる権利はこっちにあるわ』
スィフィル様は堂々と言い切りました。他の作業員さんも頷いています。
『じゃあこれで、ちょっと何か作ってみますね』
『それしかないから大事に使ってね』
『わかりました』
僕はそう言ってスィフィル様と別れた僕は、入り口で着ていたエプロンなどを脱いでから外に出ます。
外ではシファル様とシューニャ様が退屈そうに地面に何かを書いて暇潰しをしていました。
『じゃああちしはこっちに一手を打つぞ』
『じゃああちしはあっちに一手を打つぞ』
『『……ち、また引き分けたか』』
『何をしてるんですか?』
僕が近づいてみると、二人はいっせいに地面の落書きか何かを消して立ち上がった。
『遅い!』
『待ちくたびれた!』
『え? あ、はい。すみません』
同時に怒鳴られてしまったので、思わず謝ってしまう僕。美人に怒られるのはなんとなく役得な気がしてきたが、今はそんなことはどうでも良い。
『欲しいもの……試作品は手に入ったので、これを使って協力してくれた方々に一品をお出ししようと思います。お二人もどうですか?』
僕がそう言うと二人して互いの顔を見て考えてる様子だった。
どうしたんだろうか。食べたくないのだろうか。そう考えてると、二人は恐る恐る言いました。
『それ、そんだけしかないのか』
『そうですね。スィフィル様が随分前から作って、ようやくできた試作品ですね』
『貴重なもんだってことなら、あちしたちが食べてもいいのか?』
どうやら二人は量が少ないものを自分たちが食べてもいいのかを気にしてる様子です。
『スィフィル様が作ったものなら、あちしたちが食べるよりもスィフィル様へお出しした方がいいよね?』
シューニャ様がそう言うので、僕は腕を組んでから答えます。
……正直、作ろうとしているお菓子には、いろんな意味がこもってるんだ。
自分の意思を伝えるべきだとも、思ってるから。
『もちろんスィフィル様たちにもお出ししますよ。ですが味見役ってのは必要でしょう?
美味しくできてるか、確かめていただかないと』
『それもそうだな!』
『それもそうかな!』
『じゃあいただくよ!』
二人して結局食べる決断をしたようだ。目が爛々と、ワクワクとしている。どんなものを食べられるのか楽しみにしてるようです。
『なら一度、家に戻りましょうか。そこで皆さんの分も用意します』
『『それでなんでこいつがここにいるんだ?!』』
「シュリ、この人たちはなんて言ってるの?」
「なんでリルさんがここにいるかと聞いてるそうです」
家に戻って目当てのものを作ろうとした僕ですが、何故か家の前にリルさんが立っていました。
何故ここに? と驚いた自分ですが、リルさんはそれが当然て顔をしたままです。
「リルさんは何故ここに?」
「シュリの様子を見に来た。昨日の今日というか別れてまだ数時間程度だけど、改めてシュリがどんなところでどんな扱いを受けて生活してるのか、見ておきたくて」
リルさんは無表情のまま答える。いつもの顔だ、ということは僕の身を案じているのは事実だろう。
なので、これもいつも通りなんだろうと、一応確認で聞いておく。
「久しぶりにハンバーグを食べたくなりましたか?」
「まさにまさに」
神妙な顔で頷くリルさんを見て、思わず口元を隠す僕。
その下では笑みが浮かんでしまっていたので、見られたくなかったんですよね。ああ、久しぶりのリルさんだ、変わってなくて安心したって感じ。
「今日はハンバーグを作りませんよ。ちょっと別のものを作ろうとしていたので、そちらを食べてみますか?」
「それならそれで構わない。そっちも食べたい」
リルさんが返答してくるので、僕はシファル様とシューニャ様の方へと向き直る。
『この人は久しぶりに僕の料理を食べに来てくれただけです。敵対心はありませんよ』
『でもこいつシュリを狙ってた』
『あのとき不穏な動きをした』
『『油断などできようはずもない』』
瞬時に殺意を滾らせる二人。目は死んでるように虚ろでありながら、手元足下はいつでも動けるように、いつでもリルさんを殺せるように脱力してる。
もしリルさんが不穏な動きを見せたら、一瞬でこの人たちは動くだろう。思わず息を呑み、思わず背中に流れる冷や汗に気持ち悪さを感じた。
この人たちはこの里は隠れ里で、ここに住んでいる人たちは武芸者なのだ。というか暗殺者の類いかもしれない。傭兵団とはまた違った、金で雇われる戦力なのだろう。
そんな人たちがこういう雰囲気を出すと、隣に立つ僕は怖くて仕方が無い。
リルさんはリルさんで、そんな殺意を受けてもどこ吹く風。退屈そうに欠伸までしている。この人の胆力が凄すぎる。僕が会えない間にどんな年月を過ごしたのかわからないけど、こんな状況でも余裕綽々ってのは凄い。
……だけど、ここで動くべきは僕だろう。
『お待ちください、二人とも』
『『なんだ?』』
シファル様とシューニャ様の視線が僕へと向けられる。滅茶苦茶怖すぎる。
僕は深呼吸を一回して、唾を飲み込んでから言いました。
『この人は僕の恋人なんです。あの行動は、その、恋人を守るために仕方なかったと思っていただければ……』
ダメだ、言わなきゃいけないことなんだけど、いざ口にすると恥ずかしくて仕方が無い。
顔が熱くなるし、手なんか真っ赤っか。おそらく顔だって真っ赤だろう。羞恥のあまり、肌が紅潮してしまった。
そんな僕を見て毒気が抜かれたらしい二人は、何やらニヤニヤしだしました。
『へぇー、ふぅーん』
『ほぉーん、そうなんだー』
新しいおもちゃを見つけたかのような二人の態度を見て、言うべきではなかったかと後悔する僕でした。
だけど二人から殺気が消えて、僕の周りをグルグルと走り出したのには戸惑うよ。
『恋人かー』
『恋人かー!』
『それならまぁ』
『仕方ないかぁー』
『『あとでなれそめを教えてね!』』
『はい……』
僕は恥ずかしさのあまり、項垂れながら家に入りました。
レイ様とゼロ様の姿がない。どうやら出かけているらしい。その僕の後ろを付いてきたリルさんが怪訝な顔をしながら聞いてきました。
「二人と何を話してたの?」
「ひ、秘密ってことで」
まさか内容がリルさんは恋人なので手を出さないでください、てのは想像してないんだろうなぁこの人。恥ずかしすぎて言えない。
だけど、リルさんは怪訝な顔を止めない。
「しかし、シュリはどこでヴァルヴァの民の言葉を覚えた?」
「え?」
「見事な発音だった。元々ここに幼い頃から住んでて、当たり前に使ってるって感じに思うくらいには使い慣れてる感じだった。ここに住んでる間に覚えたの?」
何を、と言う前に僕は口を閉ざした。
そうだ、なんで僕は当たり前のようにヴァルヴァの人たちが使う言葉を使ってるのか?
というか、自分でヴァルヴァの言葉を使ってるなんて自覚はなかった。
これが……これがかつて自称信長さんが言ってた、魔力によって起きた変化ってことか!!
自称信長さんは不老長寿となった。老いて死ぬことのない肉体を得た。
僕は語学能力を得たってことなのだろう。その結果として、ヴァルヴァの人たちとの会話に困ったことはない。
それどころかリルさんたちとの会話すら、困ったことがない。
恐ろしいことだ。この変化はこの世界にいる限り、どんどん起きることなのか? それともこの一回の変化だけで終わることなのか?
何もわからなすぎて、吐き気すら出てくる。
このまま僕は僕のままでいられるのか?
それともこの世界の魔力とやらの影響で、どんどん別のナニカに変化するのか?
「シュリ? どうした、シュリ?」
リルさんが心配そうな目をして僕を気遣ってくれる。
だけど今の僕にはリルさんの目を真っ直ぐに見返すことができませんでした。
人間以外のナニカになりつつあるのか、それともこのまま人間らしいナニカのままでいられるのか。
どのみち人間のままでいられないのではないかという恐怖と、まだ人間のはずだという葛藤。
そんなぐちゃぐちゃの感情で、リルさんを見ることができなかったから。