四十八、君は確かにそこにいた・君、前編
この数年間、リルは空っぽのまま生きてきた。
「行くのかい、リル」
「うん」
とある時は、アルトゥーリアで腕を振るっていた頃もあった。
虚脱感のまま、大事な技術だけは漏洩させることなく粛々と働いてたんだ。
だけど、そんな日々を数ヶ月過ごして良い待遇、良い屋敷に住んでても空しくて空しくて仕方が無かった。
なのである日、リルは退職する旨を伝えて屋敷とある程度の財産を返還して、アルトゥーリアを鞄一つで去ろうとしていたんだ。街を囲む壁、その門の前で話をしていた。
「なにもこんな時に去らなくても……フルブニル王もお前に多大な期待を寄せてる、もっと魔工技術の研究が進むと」
「ごめん。そこにリルは生きがいを見いだせないから」
リルは事実を伝えると、同期の魔工師は悲しそうな顔を浮かべる。
「……そうか。実は俺、お前のことが好きなんだ」
「そう」
「だから……一緒にいてくれないか」
「……ごめん」
リルは踵を返し、歩き出す。外は猛吹雪のままだが、リルにとっては全く問題は無い。ここ数年でさらに磨き上げられた魔工の技術があれば、余裕で踏破できる。
「リル!」
「リルに恋しても、君の時間の無駄だよ。良い人と巡り会えることを、祈ってる」
リルは振り向くこと無く、同期に声を投げかけて歩き出す。
愛を伝えられても、空しくて仕方が無かった。嬉しくは、なかった。
リルにとって大切な人は、すでにこの世にいないのだから。
とある時は、村々は周りながら適当に魔工の技術を用いて金稼ぎをした。
壊れた家屋を直し、荒れた道を舗装した。
「ありがとうございます、リルさん……本当に助かりました」
「気にしないで。これも報酬のためだから」
ある村でリルは、土砂崩れで通れなくなった道を直し、綺麗に舗装した。
村長がリルに袋に入った金銭を渡して、頭を下げる。
「これが報酬です、本当に助かりました」
「うん。じゃあリルはこれで」
「お待ちください!」
リルは鞄を持って去ろうとしていたけど、その背中に村長が声をかけてくる。
なんだなんだと呆れながら振り向くと、村長は頭を下げたままリルに言ってきた。
「お願いがございます。あなたのような魔工師が村におらぬので……」
「村に住んで、力を貸して欲しいと?」
「はい……」
村長が切実にお願いしてくる。まあ、気持ちはわかる。
魔工師は貴重だ。魔法師はさらに貴重だけど、魔工師も同様だ。
技術者ってのはどこの国でも重宝される。大工、知識を蓄えた農民しかり、だ。
だけど魔工師はその魔工の力で、数十人でなければとても終わらないような土砂崩れの工事だって、こうして一日足らずで終わらせてしまう。
それどころではない。家屋の修理、治水、畑の整備諸々とやることは多岐にわたる。
だからこの村に腰を落ち着ければ、それなりの待遇で出迎えられるだろう。
あちこちの国でそれなりの待遇で迎えられたけども、この村だって住むにはわるくないんじゃないだろうか。
だけど。
「ごめんなさい。リルにはそういうつもりはないんだ……」
「そうですか……」
村長さんは残念そうにしながらも、しつこく引き留めに来ることはなかった。
その態度を見て、リルはできるだけ村のためになることをしてから去って行く。
「久しぶりであるな、リルよ」
「はい、テビス姫」
そこからまた流れて、リルはニュービストの首都に訪れていた。
魔工工房にふらりと立ち寄り、そこに住み込みで働かせてもらいながら日銭を稼いでいたんだ。
それが数ヶ月続くと、腕の良い魔工師がいるということで城に出仕を命じられ、大人しく着いていった。
そこで面通りされたのが、テビス姫の部屋であったのはなんの因果なのか。
側仕えするウーティンも変わりの無い様子でテビス姫に仕えていた。
「まさか……流れてきた腕の良い魔工師がお主であるとは思わなんだぞ」
「リルも呼ばれるとは思ってませんでした」
「よせよせ、リルよ。妾とお主の間柄じゃ、前のように接しておくれ」
「……じゃあいつも通りで」
リルがそういうと、テビス姫は椅子から立ち上がった。
テビス姫はリルが来る前から仕事をしていたらしく、机の上には書類が積み上がっている。それにサインするための墨や羽筆、それと印が転がっている。そんなにぞんざいに扱って良いのか。
そんなリルの視線に構わず、テビス姫は窓の外を見る。
「あれから大分、時が流れてしもうたの」
「あれから、とは」
「シュリが死んでから」
その言葉に、リルの胸に痛みが奔る。
思わず叫びたかった。死んでない、死体は確認できてない! 死んだと決まったわけじゃない!
だけどその言葉が出てこなかった。
そりゃそうだ、あれから年月が過ぎている。もし生きているのならば、シュリだったら何かしら行動をしてなんとかアプラーダに戻ろうとしたはずだ。
なのに、何もない。
リルは俯いたまま何も言えなかった。
そんなリルの様子を振り返って見て、溜め息を大きく吐く。
「妾はまだ、死んだと思いたくない」
「……」
「死体は発見されておらぬ。遺体の痕跡もない。だけどのぅ」
テビス姫はもう一度リルに背を向けて、壁に手を突いた。
「探しても探しても、どこにもおらぬのじゃ。あれほどの男がどこに消えたのか、ニュービストの力を使っても見つからぬ」
「テビス姫」
「失ってからわかるのじゃな。自分にとってその人物が、どれだけ大切だったのか」
ずぐり、と胸の傷を抉られるようだった。
「妾はシュリに、これからも料理を作って欲しかった。あの笑顔で、料理を振る舞って欲しかった。たとえ妾の側におれずとも、どこかで生きているだけでも良かったのじゃな。
これが恋心というのか、それとも認めた人物に対する親愛なのか。それは妾にもわからぬ。だけど、喪いたくはなかった、それだけはわかる」
「……そう。リルもおんなじ。一緒にいたかった」
「だから、リルはニュービストに居着くことはせぬのだろう?」
テビス姫は振り返り、リルに近寄る。
そして優しくリルの肩に手を置いてから、言った。
「できるならニュービストに仕官して欲しいがの。無理なんじゃろう?」
「……はい」
「そうであろうな。そうであろう。妾も無理強いはせぬ」
テビス姫はそれだけ言うと、椅子に戻って座り直す。
「行くがよい。妾は止めはせぬ。好きなように生きて好きなようにすると良い。疲れたらまた、ここに来ると良い」
「ありがとう」
「それと、伝えておかねばならぬことがある」
む、なんのことだ? とリルが思っていると、テビス姫は難しい顔をして腕を組んだ。
「ガングレイブが、裏の事業にも手を出し始めておる」
「……裏?」
「言葉にできんようなこともして、軍備費を稼いでおるよ。妾は懇意にしておる商人たちに、ガングレイブとの付き合いはほどほどにするように言っておる。
あれは今、破滅に向かって走り続けておる。もう止まらんじゃろうな。
……シュリがいなくなってしまって、何もかもが変わってしまった」
「……」
「さ、もう行くがよい。妾から言えることは、それだけじゃ」
テビス姫の言葉にリルは頷き、執務室を出る。
もうこの国も去った方が良いかもしれない。長居はできないな。
リルはそう考えながら魔工工房の親方への謝罪や、次の国への旅程を考えていた。
ニュービストを出て、リルは再び旅路を続けた。ニュービストで骨を埋めようかと思ったが、テビス姫に悪い。あの人も、整理の時間がいるだろう。
流れて、リルはオリトルについた。再び魔工工房にお世話になろうかと思ったが、ここはクウガが暴れてるしリルへの心証が悪いかもしれない。覚えられてるかもしれない。
そう考えたら、次の国への旅費を稼ぐことを考えた方がよいなと計画を変える。
さて、何をすべきか、と思って酒場で腹ごしらえをしていると、隣から話声が聞こえてくる。
「おい、聞いてるか? この近くに住み着いてる剣豪の話」
「ああ聞いた。襲いかかった盗賊を全員なで切りにして、装備を剥ぎ取ってこの町に売りに来たって話だろ?」
「森の中を勝手に切り開いて簡素な小屋を建てて、そこに住んでるらしい。ヒリュウ様もほっとけとしか言わないし……」
その話を聞いたリルは、すぐに酒場に金を払って飛び出した。
消息がわからなかった男の行方が、掴めた気がしたから。
リルは他の人に詳しく話を聞き、その森へと向かう。
奥へ進めば進むほど、不自然に切り開かれた木々が目立ってくる。斧で切り倒したというより、何か凄まじい力と技量で真っ二つにされたという方が正しい、鮮やかな切り口。
「いた……」
リルが奥に進むと、その小屋は見えた。
確かに建築の素人が一生懸命建てて、最低限雨風が凌げる程度の小屋がぽつりと建っていた。
庭のように切り開かれ、その一帯は森の中だというのに開けた場所になっている。
その中で、リルに背を向けて上半身裸の男がひたすら、巨大な木剣を振っている姿あった。リルの身長ほどありそうで、リルの胴体よりも太い木刀を軽々と振り回す男。汗まみれになっている男の姿に、リルは覚えがあった。
「クウガ」
リルが声をかけると、男はピタリと木剣を振る腕を止めた。
そして木剣を投げ捨てて振り返る。
「なんや、リルか」
その男は、自分の記憶の中にあるクウガのままだった。いや、あれから随分と髪の毛が長くなったかな? だけど髭も老いも感じさせぬ、若々しいままの姿がそこにあった。
「久しぶりやな」
「うん」
他愛ない会話だけど、クウガは朗らかに笑っている。
リルは歩き、クウガの近くまで寄る。
改めて見ると、クウガの体が以前よりも研ぎ澄まされるように鍛えられてるのがわかった。以前より、さらに筋肉の隆起が凄い。だけど細さを維持しようとしてるため、筋肉の盛り上がりがハッキリとしている。
「……まあ、久しぶりに会ったんや。積もる話もあるやろ。こいや」
「お言葉に甘えて」
クウガが小屋の中に入ったから、リルも一緒に入る。
中はなんというか、男が一人で生活するだけの空間しかないなって感じだった。
乱雑に散らばった鍋やらなんやら、一言で言うと汚い。
ま、傭兵団時代だったらもっと汚いところにいたか。と、リルは考え直して家に入って適当ところに腰を落とした。
「本当に久しぶり。どこに行ったか、全くわからなかった」
「ここら辺なら盗賊だって腕が立つもんが多い。時々来る、オリトルの騎士を追い返すのもええ稽古になる」
「……殺してないよね?」
「盗賊は殺して身包み剥いで埋めた。騎士は……さすがに木剣で戦ってから追い払ったわ」
盗賊を躊躇なく殺すのもどうかと思ったが、まあ盗賊の方だってそれを覚悟していただろう。というか、傭兵団時代のリルだって盗賊が出たら戦ってたし、非難するのは間違ってるかな。
リルは小屋の中を見回してから溜め息を吐いた。
「まさかこんなところにいるなんて思わなかった。リルはもちろんだけど、ガングレイブだって行方を捜してた」
「今はまだ帰れん……帰れんのじゃ」
クウガは唐突に頭を抱えたまま蹲る。
震えていて、今にも崩れそうな弱々しい姿だった。
「ワイは、未だに夢を見る」
「夢?」
「リュウファに負けた夢と、シュリがいなくなった、あのバカ姫の部屋の惨状を」
リルの胸に、再び強い痛みが奔る。忘れようとしていた辛い記憶が、呼び覚まされる。
シュリが目の前でリルを庇って刺され、魔法によって吹き飛ばされて崖に落ちた。
それを眼前にしながらも守れず、シュリを喪ってしまった自分の不甲斐なさと弱さが、未だに胸の傷を抉り続けている。
「ワイはなんのために剣を学んだのか。それは、ガングレイブたちと国を手に入れるためや。国を手に入れてからは? 大事なもんを全部、この腕で守るためや。
それがどうや、なんもかんも失って、喪ってしもうた。一度の敗北が、全ての破滅の起因になってしもうた。ワイが強ければこんなことになっとらんし、ワイが強かったらここまで落ちぶれておらん」
「リルだって、リルだって弱かった」
「お前は悪うない!!!!」
クウガの叫びに、リルはびくりと肩を震わせた。
あまりのクウガの様子に、リルは何も言えなくなる。それほど、クウガは壊れる寸前に見えた。
「ワイが悪かったんや……ワイが、全部……」
「クウガ……」
「だから、ワイは決めたんや」
クウガは立ち上がると、両手を見てから握りしめる。
「奪っていった奴らに復讐するってな。強くなって、強くなって強くなって、あいつらにやりかえしたる」
「復讐、を?」
「お前も話に聞いとるやろ。……ガングレイブが阿漕な方法で金を稼いで、軍事に注いでるってのを」
リルは黙って頷くと、クウガは天井を見上げながら嗤った。
「ワイはそのときに、駆けつけて力になったる。今度こそ、ワイはやると決めたんや」
「なら、リルも」
「いや、リルとテグは参加せん方がええ」
「なんで!」
「これはワイのケジメやし、おそらくガングレイブにとってもシュリへの弔い合戦なんや。
だけど、それでもガングレイブ傭兵団の全てが失う可能性だってある。お前とテグは、ガングレイブ傭兵団ってのがあったことを遺して欲しいんや」
真剣なクウガの目に、リルは思わず反論していた。
「だけど、もう、遺すものなんか」
「わかっとる……わかっとるんや……遺るものがないのではというのは、な」
そう言うとクウガは悲しそうな顔をして、小屋の入り口に手をかけた。
「知っとるか? ガングレイブとアーリウスの間に子供が生まれとる」
「え」
初耳だ。アーリウスが懐妊してたことは知ってたけど、詳しい生まれた日にちまでは知らなかった。
「いつ?」
「一年前や。ガングレイブとアーリウスによく似た、可愛い男の子やそうや。噂で聞くだけやけどな」
「……そうなのか」
リルはシュリのことを忘れようとするあまり、ガングレイブの方まで忘れようと噂に関しては完全に耳を閉ざしてしまっていたから、わからなかった。
そっか。無事に子供、生まれてたんだ。よかった。
「もしかしたら、リルの方に打診が来るかもしれへんで」
「なんと?」
「戦になったら参加して欲しい。ダメなら、子供を引き取って欲しいとな」
「……なんで」
「お前なら魔工技術で、食うに困らんやろうしな。アーリウスは……子供を守ろうと思うが、ガングレイブと運命を共にするやろうし」
あ、あまりに悲しい言い分だ。そんなもん、リルが認めると思ってるのか。
リルがそれを言おうとしたら、クウガが振り返った。精一杯の笑顔を、浮かべてだ。
「後は頼んだ」
何も言えなかった。家を出て行くクウガにリルは、これ以上何かを言うことはできなかった。
結局、リルはクウガの小屋には泊まらず、そのままオリトルからも去った。
なんか、もういいかなって。
次に訪れた村で、酒場で食事を取っているときだった。
気づいたときには遅かった。周りから、店主含めて誰もいなくなってる。
リルはその空気を感じ取り立とうとした瞬間、目の前の椅子に誰かが座った。
「初めまして。リルさん……でよろしかったでしょうか?」
「……誰?」
リルの前に座った人物は、黒い外套に全身を包んで鴉を模した仮面を被った人物だった。
声色から男だとわかるけど……。
「私、ヴァルヴァの隠れ里で“鴉”と呼ばれる役職に就いているものです」
「ヴァルヴァ……」
リルは椅子に座り直し、鴉という男と向き合う。
「ヴァルヴァか……与太話でよく聞いた。なんでも、戦場では暗殺を主とした仕事を請け負う、て話だけは」
「そのヴァルヴァと思っていただければ」
鴉はクツクツと嗤っていた。
「私たちは、基本的に“外”と関わることはせぬ民族性ですので。こうして話をする相手も、何人も通して正体を探られないようにしてます」
「ふーん。それで? リルに何のよう?」
リルは強気に腕を組んで言う。
鴉はピタリと動きを止めると、リルの前に紙を差し出した。
契約書だ。それも見たことの無い技術が使われた、複製が困難であろう装飾と仕掛けが施されている、契約書。
それを見てから、リルは顔を上げる。
「単刀直入に言います。ヴァルヴァの隠れ里にて、魔工技術の伝授をお願いしたい」
「……それは教師として招く、とか?」
「そう思っていただいて間違いありません。私たちはあなたの魔工技術を高く買っている。是非ともその技、私たちに教えていただきたい」
面白くない話だ。リルは思わず眉間に皺を寄せていた。
当たり前だが技術というのは、その人が持つ財産で飯を食うタネだ。おいそれと人に教えるなんて、馬鹿馬鹿しくてやりたくない。
だけどその空気を察した鴉は、リルの前に袋を置いた。
「前金として、これだけを」
「……前金?」
「そして、契約書の通り技術の教授が終われば、さらに契約金を払わせていただきたい。私たちには、あなたの技術が必要なのです」
……旨い話、かもしれない。袋の大きさからすると、相当な金銭が入ってると思っていい。音からして、偽金は混じってないんだろう。
だけど必ず、こういう話には裏がある。
「リルはそちらに魔工を教える。そちらは前金と契約金を払う」
「はい。その通りです」
「それだけじゃないよね? あとそちらから、契約事項があるんじゃない?」
リルがそういうと、再び鴉はクツクツと笑い出した。
「ええ、ええ。何、簡単な契約事項です。そちらに一つ、こちらに一つ、互いに交わす契約があります」
「それは?」
「そちらには、こちらの里に関する情報の一切を漏らさないで欲しいということ」
「……ここで鴉にあったことも踏まえて、ね」
「当然。わかっていただいたようで、ありがたい」
「そちらが負う契約は?」
「決まっております」
鴉は自身の胸に手を当ててから言う。
「そちらが教授を終わらせ、こちらの情報を何一切漏らさない限り、私たちはあなたを害することを一切しないということです。たとえ依頼されようと、金を積まれようと、あなたが私たちのことを誰にも話さない限り、あなたに危害を加えることはない。
夜、寝ている間にヴァルヴァの暗殺を受けることは、これからの人生から消えると思っていただければ」
なるほど、確かに魅力的な条件だ。話さないだけで、半ば怪談話になるようなヴァルヴァからの暗殺が無くなると思えば、心強い。
「ここで受けなかったら?」
「……言わずとも、わかるでしょう?」
ひやり、と首筋に冷や汗が流れる。だろうね、わかってた。リルの周りから、殺気が膨れ上がってる感じがしたから。
天井裏、カウンター裏、窓の外、もしかしたら床下にも鴉とやら潜んでいるかもしれない。そう思うと、断るなんてありえないだろう。
「わかった。引き受けよう」
「ありがたい……私もあなたも、無駄に血を流すことはなくなりました」
「ここであなたたちを殺すのは簡単。でも、延々とヴァルヴァに狙われる。そうでしょ?」
「ええ、その通り。私たちはあなたを襲い、ここで殺されるかもしれない。だけど、私たちが殺されたならヴァルヴァから刺客が放たれる」
「わかったわかった」
リルはもう一度契約書の内容を吟味し、おかしな点やおかしな仕掛けが施されてないかを確認する。ここでしくじると、後が大変だ。
そして変なことはないみたいなので、その契約書に名前を書いた。
「これで良い?」
「はい、ありがとうございます」
「それで? いつ行くの?」
「一週間後、満月が空のてっぺんに浮かぶ頃。再びこの酒場のこの席に座っていただければ……案内いたします」
「わかった。じゃあこの村の宿に泊まって、そのときを待とう」
「ありがとうございます」
リルは鞄を手にして立ち上がり、机の上に食事代を置いた。
やれやれ、面倒なことに巻き込まれてしまったな。だけど、噂話だけのヴァルヴァの隠れ里に行けると思うと、少しだけ心が踊る。
……そういえば。
「聞きたいことがある。答えられる範囲だけで良い」
「なんでしょうか」
「すぐに案内しない理由は何?」
リルは疑問に思っていた。この場から人払いをできるほどの根回しが可能な組織なら、すぐにリルを連れていくこともできるはずだ。
なのにそれをせず、一週間後に出発なんて随分と悠長な話じゃないか。
リルがそれを問いかけると、鴉はクツクツと嗤う。
「何、準備があるのです。ヴァルヴァは隠れ里なので、あなたを案内するための準備がね」
「……そう」
「それと」
鴉はピタリと嗤うのを止めると、顔を上げた。
「もう一人、仕事をお願いした人物がおりましてね。その人物もここに来るように御願いしているのです。それが、一週間後にはここにいるだろうという試算から出たのもあります」
「……誰かを聞いても、ここでは答えてもらえないんでしょ?」
「そうでもありませんよ」
鴉は椅子から立ち上がった。
「あなたも知ってる人物だと、思いますので」
「なに?」
それは――と聞こうとした瞬間、いつの間にか開いていた窓から強い風が吹きすさぶ。
思わず目を瞑ったリルが、次に目を開いたときに鴉の姿はなかった。
まるで、初めからそこにいなかったように。
「……面倒なことに巻き込まれたかもしれない」
思わず大きな溜め息を吐いたが、受けちゃった話だ。
どうなるかはわからないけど、無事に帰れるように頑張ろうか。