四十七、仮面とピカタ・後編
俺は本当は怖がりなんだ。
子供の頃は幽霊と夜の闇が怖かったし、成長してからは師匠との稽古が怖い。
刃と刃の交差する瞬間も怖いし、将来俺が人殺しをして生きなければいけないってのも怖かった。
それが、俺だ。
俺の名前はヨン。ヴァルヴァの隠れ里に住む、ごく普通の男だ。
俺は生まれつき体が大きく、親の勧めもあってヴァルヴァ流では剣刃術を学んでいる。
剣刃術は他の投剣術、柔闘術、踏歩術、暗器術のような暗殺、奇襲が主となる戦い方とは異なり、真っ正面からの戦闘も視野に入れた戦闘術だ。
ヴァルヴァの剣は“外”で使われるものとは違った独特の形をしている。
反りのない片刃直剣で刃文が無い。そして拳一つ分、刀身が短く鍔もない。
これは、主にヴァルヴァの仕事が屋内で行われる暗殺、もしくは閉所での戦闘を主軸としているからだ。刀身が長ければ邪魔になる。鍔がないのは握りに工夫を加えるためで邪魔だからだ。
先祖より代々受け継ぎし技術、絶やさず伝えねばならない。
だが――。
『フ……ふ……』
俺は現在、夕焼け色の空が広がる時間帯に、黙って訓練場奥の森の中で剣を振るっていた。汗が流れるのも構わず、ひたすら稽古に励む。
ヴァルヴァ流剣刃術は、極めれば極めるほど正面戦闘としての側面が強く出てくる。
『ふ……!』
剣刃術一式“天雲”。敵の視界から一瞬で姿を消し、奇襲を加える技。人間の視線というものは、周りが見えてるようで集中している以外の部分は見えないものだ。その人間の視線の隙を狙った動きからの攻撃が型となる。背後に回る、側面から襲う、正面から攻撃すると四方向それぞれ、形が違う。
その内容は、動きの中に緩急を付けて相手の目を慣らさせ、そこから速度を変えて相手の意識の隙を突くことが極意となる。
『ふぅー……シッ!』
二式“青天”。相手の正中線を狙った突きから繰り出される二連撃。
人間は正中線に急所が集中している。そして、正確な正中線を狙った攻撃は左右どちらかの回避を迷わせる効果と、突きであれば相手に防御の選択の迷いを生み出させる効果がある。
そこからどの方向への回避、どのような防御をするかによって次の攻撃が千差万別に変わる。正中線への刺突、その後の敵の動きによって次の攻撃を命中させるための動きを確認する。
『ふぅ……はぁっ』
三式“曇天”。剣を逆手に持ち替えて持ち込む超至近距離戦闘。柔闘術の要素も取り入れられ、間合いを詰めることによって敵の懐に入っての攻撃がこの三式の型となる。
単純に刃だけでなく、逆手に持ち替えることによって柄尻による攻撃も可能となる。
が、ここまでだ。
俺が学んでいる剣刃術は三式までであり、四式はまだ習得していない。
それどころか、三式の訓練をしていても、一式から三式全てを修めることができているわけでもないんだ。
剣刃術には四式までの技があり、さらにそれぞれ剣術としての型が複数存在している。ご先祖様が永い永い鍛錬や戦場で学び遺してきた技法と対応する型、それらを全て修めなければ話にならない。
だが、できない。
心のどこかで恐れる心があるからだ。だから、俺の剣はどこまでも鈍っている。
どうすれば、この恐れや怯えを、怖さを克服できるのか。ずっと悩み続けて鍛錬を続けていた。
終わりのない、延々と終わらない迷いを断ち切れず――
『っ! 誰だ?』
その迷いの間隙を突かれたように、いつの間に後ろに誰かがいた。慌てて振り向きながら、できるだけ心を落ち着ける。そして、いつでも戦えるように心構えを作る。
実際に戦えもしないだろうが、だ。
こんなときにもヴァルヴァの民としての誇りが、戦闘行為を取らせてしまう。しかし、心の奥では怯えが消えてなくならない。そんなあやふやな心構えで戦えるはずがないんだ。
だが、そこにいたのは予想外の人物だった。
『え? なんでヌルがここにいるんだ?』
そこにいたのは、俺の婚約者レイが拾ったとか言うヌルという男だ。今ではレイの家の家事を一手に引き受けて、生活環境を改善している。
昼間にレイの家に作物のお裾分けをしに行ったときに、確かにこいつはそこにいたのを思い出していた。
こいつと始めて会ったのは、レイがヌルを拾って家に連れて帰った次の日の事だ。
『で? 川で倒れていたところを拾ってきた、と?』
『その通り。奴隷をただで手に入れた』
『ヨンからもなんとか言ってやってくれ。そんなもん拾うべきじゃないって』
今でも思い出す、あれは雨の日のことだ。
俺はその日も、作物のお裾分けのためにレイの家を訪れていた。雨の日ともなれば、訓練や仕事でもない限り家にいるのが普通だ。
ヴァルヴァで使われる革製の雨合羽を着込んで訪ねた際、ボケッとした顔で部屋の隅に座っているそいつを見た。当時は、こいつの名前すらわからなかった。
真っ黒な髪に見たことの無い服、そして片目が白濁しているのが特徴的だった。
『全くだ……論外だろう。“鴉”が仲介して連れてくる“外”の人間じゃないんだ。この村は隠れ里なんだぞ。だから――』
『でもこいつ、レイたちと同じ言葉を、淀みなく発声して聞き分けれてるみたい』
その言葉に、俺は驚いた。思わずゼロを見ると、神妙な顔で頷いた。
『本当だ。こいつ、始めてあったときに俺たちの言葉を話したんだ』
『不思議な話だな……“鴉”でもなければ、外の言葉とここの言葉を使い分けれるわけでもないだろう』
『そんなことはどうでもいい。だからレイは考えた』
レイは自慢そうに胸を張って言った。
『言葉が通じる奴なら、意思疎通が取れるから奴隷にピッタリだと』
『儂は反対しておるのだがな』
家の居間、壁に寄りかかって煙草を吸ってらっしゃるのは投剣術でその人ありと謳われ、未だに数々の難しい依頼をこなし強敵と戦った逸話を数多く持つレイとゼロの父親、ノーリ様だ。
そのノーリ様が不機嫌そうな顔をして、煙草の喫煙なさっている。
『得たいの知れない人間を家に招くなぞ、アホとしか言いようがないわ』
『でもこいつ、見るからに戦えないし。逆らったら殺せばいいじゃん』
『そんだけ弱いから、儂はそいつがここにいても手を出しておらんのだと言うことをいい加減気づかんかバカ娘』
呆れた様子でそっぽを向いてしまったノーリ様だったが、俺も同感だ。
“鴉”を介さずに外から来た人間なんて、たいがいがろくでもない奴だろうに。
『さっさと殺すか、目隠ししてそこら辺に放り出せばいいだろうよ』
『嫌だ! 言葉を教える手間がないのはお得だ! それに』
レイは、部屋の隅っこで座ったままのそいつを見て言った。
『家事も教えれば、使える。掃除でも、世話でも。
料理でも』
その瞬間、そいつはガバッと立ち上がった。
全員が驚きながらも、臨戦態勢に入る。無論俺もだ。心臓はバクバクと鼓動を鳴らしているがな。
しかし、そいつはキョロキョロと見渡して、料理をする竈を見て視線を固定させる。
『料理……料理?』
『んぁ?』
ブツブツと呟きながら、そいつは俺とレイの間を抜け、竈の前に立つ。
そして置いてあった食材を手に取りながら、何かを呟き続けていた。
『なんだ、あいつ?』
ゼロが怪訝な顔のまま呟くが、誰も何も答えられなかった。
その間にもそいつは、食材を一通り確認した後に包丁を手に取る。
さらに警戒を強めた俺たちだったが、そいつはいきなり食材をまな板の上に乗せて、包丁を振るいだした。
『なんと、なんとまぁ……』
ノーリ様が呆然と呟くのが聞こえたが、俺も同感だった。
そいつは、なんとも鮮やかな手並みで料理を開始したのだ。華麗な包丁さばきで、瞬く間に野菜と肉を捌いてしまう。
火を付けた竈に鍋を据え、水を入れて肉の骨を入れる。そこに塩を入れてグツグツと煮こみだした。十分に煮こめたのか捌いて下ごしらえをした野菜と肉を入れて、調味料で最後の仕上げを行う。
その流れるような作業を、俺たちは黙って見ているしかできなかった。
『でき、ました』
そいつはできたスープを、皿に盛ってレイに差し出した。
中身は普通の肉と野菜のスープだ。簡単な作りではあるものの、良い匂いがする。
『……これをレイに?』
レイがそう聞くと、そいつは虚ろな顔のまま頷く。
食べるのは明らかに危ない。全員がそう思った。
だがレイは違った。それを受け取ると、器を傾けスープを飲む。
『……美味しい』
レイはぽつりと呟き、続けてスープを飲んでいく。
飲み干したら手掴みで肉と野菜を食べ、あっという間に空にしてしまった。
『……うん、美味しかった』
『ありがとう、ございます』
そいつはそう言うと、糸が切れたようにその場に座り込んで、床を見つめて再びぼんやりとし始めてしまった。
なんだ、こいつ? と全員が思っただろう。俺も思った。
『なんだ、こいつ? 料理人か何かだったのか?』
俺がそう言うと、再びそいつは顔を上げた。
『料理人……? 料理、人……そうだ、ボ、くは、料理人だった』
僕という発音だけどこかおかしい。自分が定まっておらず、ハッキリと明言できてないから自信のない発音になってるようにも聞こえた。
だが、この結果に関して満面の笑みを浮かべたレイは、座ってそいつと視線を合わせた。
『お前が料理人なのはわかった。誰かのために料理を作り続けてきた、そんな人物なんだろうね』
『誰かのため……そうだ。ボくは、誰かのために料理を作ってきたんだ』
『だから、これからはレイたちのために料理を作れ』
『あなたの、ために?』
『そうだ』
レイはそいつの頬を両手で包み、視線をレイと交わして固定させる。
だんだんとそいつの目に理性の光が灯り始め、ぼんやりとした顔がハッキリとしていた。
『ボくは料理人だ。誰かのために美味しい料理を作るのが、役目だ』
『でも 今のお前は名前すらない。そうだな?』
『名前……名前を、思い出せない。ボくの名前は』
『だからレイが、名前をくれてやろう。ヴァルヴァ流の名前を』
レイは優しい笑みを浮かべ、そいつに言った。
『今日からお前の名前はヌル。ヌルだ』
『ボくは、ヌル』
『そうだ、ヌルだ。お前は今日から、ヴァルヴァの里の、レイの奴隷。ヌルだ』
『わかりました、ボくはヌル』
それが、ヌルと呼ばれることになる男の目覚めのようなもんだった。
懐かしいことを思い出した。名前を与えられ、役目を与えられ、料理という仕事を与えられたことによって、ヌルは急速に知性や理性を得たように見えた。
出会った当初のような虚ろな顔を浮かべることはなくなり、今ではヴァルヴァ里の住民としてみんなから認められている。
そんなヌルが、何故ここにいるのか。それを聞くと。
『えと、ヨン様のお父様より、様子を見てきて欲しいと頼まれました』
と、言われた。なるほど、そういうことか。
『はぁ? 全く……これじゃシファルたちを責められないじゃないか。何やってんだよ親父殿』
俺は困ったように頭を掻いて、剣を鞘に納刀した。チン、と音が鳴る
そのまま視線を鋭くしてヌルを睨み付けた。
『……見てたのか?』
『えと、型のことですか?』
『どこから見てた?』
『途中? から、ですが』
『どんな型なのか、わかるか?』
『奇襲? のように見えましたが、それだけです』
ふむ、と俺は顎をさすって頷く。
なんだ、その程度か。まぁヌルが俺の型を見ただけで全てを理解する、なんてことはないだろう。そこは安心した。
何故なら、
『よし。それ以上のことを理解されてたら、俺はヌルを殺していたところだ』
『ええ?!』
『当たり前だ。ヴァルヴァ流の技は、基本的に門外不出。使う際は基本的に必殺だ。
次からは気をつけろよ』
ヴァルヴァは基本的に敵に出会えば必ず殺す。そういう民だ。
だから技を知られ解明されることは死を意味する。だからこそ、この訓練場の使用に関して厳しい掟を課しているんだからな。
『は、はい』
ヌルは怯えた表情で言った。
これだけ脅せば大丈夫だろう、口外はしないはず。俺はそのまま帰ろうとした。
『じゃあ帰るか。親父殿に心配をかけるわけにもいかないからな』
『あ、はい』
全く、親父にも困ったもんだ。他人の家の奴隷を勝手に使うなってんだ。
俺が心の中でそう思っていたときだった。
意外なことを、言われたのは。
『ヨン様。ヨン様は何を悩んでおられるのですか?』
後ろから言われたヌルの言葉に、俺は足を止める。
『その根拠は?』
『えっと……この時間まで訓練場で鍛錬を積むのは、それ以外理由がないからだろうから、と』
……まぁ、そう思われても仕方が無いか。俺はそのまま木に寄り掛かる。
『悩み、悩み、か。……お前の立場を利用して、非道なことを言わせてもらう』
『な、なんでしょうか……えと……な、内容は』
『奴隷であるお前に命令する。ここで見聞きしたことは、一切漏らすな。いいな』
『え』
『お前はレイとゼロたちの奴隷だが、一応ここでは命令を拒む立場ではない。わかったか?』
無論、滅茶苦茶なことを言ってる自覚はある。だが、ここは良い機会なのかもしれないとも思った。
誰にも吐き出せないのなら、誰にも吐き出させないように命令できる人間に、吐き出してしまえば良いと思ったんだ。
ヌルは大きく頷いてくれた。
『わかりました。このヌル、ここで見聞きしたことは一切外で漏らしません』
『助かる』
俺はそう言うと、腕を組んで空を見上げた。
すでに空は夕日が沈み始めている。夕焼け空に、濃紺が入り交じっているようにも見えた。
その中で、俺はようやく誰にも言えなかったことを吐き出せたんだ。
『俺さ、実は怖がりなんだよ』
『……へ』
ヌルは呆けた顔をするが、俺は構わず続けた。
自分の胸の内を、吐き出せるだけ吐き出すように。
『俺はヴァルヴァ流剣刃術を引き継ごうとしている人間だ。体の強さを生かして、ヴァルヴァの稼業を立派にこなしたいとも思っている。
だけど怖いんだ。先のことが怖い。殺し合いが怖い。争いが怖い。本当は心臓が跳ね上がるほど怖いんだ。
毎日こうやって稽古を続けて自信を付けようとしても、どうにもならないんだ。誰かにこんな弱音を吐くわけにもいかないんだ。
俺はレイの婚約者で、ゼロの義理の弟になるからな。情けないところを見せるわけには、いけないんだ。決してな』
そうして吐き出しきった俺に、ヌルは告げた。
『なら、仮面を被るのはどうですか?』
あまりにも予想外の言葉だった。仮面を被る、という発想は俺になかったからな。
怖がりの心を誤魔化して生きてきた俺に、ヌルは言った。
仮面を被る。心に仮面を、強い自分を引き出す仮面を被るのだと。思い描いた理想の自分の仮面を、と。
『レイ様だったらきっと、ヨン様の怖がりなところも受け入れてくれるでしょう。なんだかんだで、レイ様はヨン様に惚れてますから。きっと大丈夫。好きな人の前だけでも、仮面を外せる時間を作れば……本当の自分を見失わずにすみますよ』
そうだろうか、と俺はヌルの言葉に悩む。こんな情けない自分を、レイに知られるのが怖いのもあるから。
『仮面、か』
『あ、そうだ。これをどうぞ』
ヌルは持っていた皿……清潔な布を被せていたものを、俺に差し出した。
こいつ、さっきから何を持っているのかと思ったらなんだ?
『これは?』
『実はヨン様のお宅にお返しを持って行ったとき、ヨン様がいらっしゃらなかったので渡しそびれた料理です。名前を、ピカタと言います』
そう言って清潔な布を取り払って現れたものは、鶏肉に黄色い衣が付いた料理だった。
何故ここで料理を? と俺が思っているとヌルは恐縮した様子で言ってくる。
『これ以上冷めるのもアレなので、ここでどうぞ』
『……ぷ、はははははっ』
もう笑いが出てきてしまって止まらなかった。
ヌルが驚いた顔をしているが、構うもんかよ。
全く、人を慰めようとしているのは良くわかったが、ここまで料理を持ってきて勧めてくるなんて何を考えてるんだよ。
ひとしきり笑って、俺は気持ちがスッキリした。
『お前、慰めたいのか料理を食べさせたいのか、どっちなんだよ』
『うーん……どっちもじゃないですか?』
『どっちもか! なるほど、それならどっちももらおうか』
俺は笑いながら料理を……ピカタとかいうものを手で掴んで口に運ぶ。じっくりと噛みしめながら食べることにしよう。
実際、料理は旨かった。
噛みしめるごとに溢れる鶏肉の旨みが、口の中いっぱいに広がるようだ。
『うん、旨い』
『それはようございました』
『ああ。旨いな。鶏肉が旨いのは当然だが、外側の衣が鳥の脂を逃がさず吸い込んでるから、より味わい深い。
衣自体にも卵が加わって、さらに味の品格を上げている。良い料理だ』
良い料理だよ、本当に。
鶏肉の焼き加減も絶妙だし、ただ小麦粉をまぶして卵を付けて焼くということで、また普通の焼き鳥とは違った料理だ。
シンプルだけど、シンプルな工夫を加えているから、旨い。
『ありがとうございます』
ヌルが俺の言葉にお礼を言って笑っていた。料理を作るものとして、作ったものを褒められるのは嬉しいんだろうな。
俺はピカタを全部食べ尽くし、満足そうに指を舐める。
旨かった。文句の付けようがないほどに。
『旨かった。ありがとな』
『どういたしまして』
ヌルは料理を食べ終わった皿に、再び清潔な布を被せて脇に抱える。
その様子を見て、ふと俺は思う。
仮面を被ると言えば、ヌルだって仮面を被っているようなものではないか? と。
こいつには、過去の記憶が無い。ある程度の理性的行動ができるくらいには、自身を取り戻してはいるもののそれだけだ。肝心の、自分を定着させるほどの過去が戻ってるわけじゃない。
そう考えれば、こいつもまたレイによって与えられた“ヌル”という役割の仮面を被っているようなものなのだ。
元の自分がわからないほど、深く強く被られた仮面だ。
こいつの仮面の下の顔は、未だに見えない。
仮面、豹変、変貌、変化……。
俺は、何かが見えた気がした。
『それと』
俺はヌルの顔を覗き込んで言った。
『仮面、か。助言として受け取っておこう。本当に助かった』
俺はその足で振り返り、村へ帰ることにした。
帰ったものの、俺がまず向かったのはレイの家だった。
すっかり夕日は落ちきって、空には星々と三日月が輝き地面を照らしている。
俺は深呼吸をして、家の戸を叩いた。
『レイ、いるか?』
叩いて数秒ほどで、戸が開いてレイが出てきた。
『ヨン? どうしたの? あ、ヌルを知らない? 帰ってきてないんだ』
『あいつは、途中まで一緒だったが……途中から別のところに寄っていったようだぞ』
『どこで何をしているのかっ。こっちの晩ご飯の準備があるだろうに』
レイは怒りながら言うものの、本気ではないんだろうな。
その顔を見るのも可愛くて良いのだが、ちゃんと話をしなければいけない。
俺は胸に手を当て深呼吸をしてから言った。
『レイ、話があるんだ』
『ヨン?』
『一緒に来てくれないか?』
俺の本気の様子を察してくれたようで、レイは真剣な顔で頷いた。
家を出て、俺と共に歩く。
誰もいない集落の道を歩きながら、俺は月を見る。雲一つ無い空に、美しい星々と月が輝いていた。
『今日は、月が綺麗だな』
『うん』
レイはそれ以上何も言わなかった。
……言わねばな。
『お前に話さないといけないことがある』
『何? 婚約を、破棄するの?』
『そうじゃない』
不安そうにレイが聞いてくるから、俺は即座に否定した。
『そんな話じゃない』
『てっきりそういう話かと思って、怖かったんだけど』
『まさか。こんな可愛い許嫁がいて、他に目移りするもんか』
『っ』
レイは照れたように顔を逸らして、俺の脇腹に軽く肘打ちをかましてくる。
いてて、結構いいところに入ったな。
『話ってのは、俺のことだ』
『……ヨンのこと?』
『ああ。お前だけには、話しておこうと思って』
俺はそこで立ち止まり、レイと面と向かって口を開いた。
『俺は、俺は本当は怖がりなんだ』
『ヨンに限ってそんな』
『いや、本当なんだ。聞いて欲しい』
そのまま、俺は今まで抱えていた悩みを全て打ち明けた。
戦うのが怖いこと、仕事に向かうのが怖いこと。全部だ。
レイは最初悪ふざけで言われてるのだと思ってたらしいが、俺の本気を知ってくれたのだろう、真剣な顔を浮かべる。
『……だから、俺は本当は怖がりなんだ』
『……そう』
『幻滅したか?』
『幻滅した』
胸に大きく、ズグリと痛みが走る。レイの顔は冷たく、声も吐き捨てるような感じだった。
『まさかそこまで怖がりなんて思わなかった。ヴァルヴァの民にとって、仕事は大切なものだ。血塗れの歴史の上に立ってるけど、一族を守るために行ってきた戦いの記録だ。
それを怖いなんて言うのは、臆病者以下の誹りを受けても仕方が無い』
『……そうだな』
『でもどうして?』
レイは俺の顔を覗き込みながら言った。
『どうしてレイに言ったの? レイが幻滅して、そこらに吹聴して回ると思わなかったの?』
『……お前に、嘘を吐き続けるのは誠実では無い、と思ったからだ』
これから先、俺は仮面を被る。立派なヴァルヴァの民として誇りを胸に仕事に励む、理想の自分の仮面を。
だが、仮面の下の顔を誰かに知っておいて欲しかった。
『俺はこれから先、そんな怖がりの自分を仮面で封じ込めて生きていくと決めた。
きっとこれから先の生涯、ほぼ全てが偽りの自分だ。
強い自分であれ、大切な自分であれと、仮面を被る。
でも、お前には、俺が本当はそんな奴なんだって、知って欲しかった』
『ヨンは、自分が思ってるほど怖がりじゃないよ』
え? と俺は驚く。レイは俺に背を向けて、月を見上げた。
『本当はね、そうなんだろうなって知ってた。告白してくれたことに酷評を、とりあえず言わなければいけなかったから言ったけど……言ってくれたこと、本当に嬉しかった。
ヨンは怖がりだけど、怖がりのまま勇気を出せる人だって、知ってるから』
『俺が、か?』
『覚えてる? 本当に小さい頃、二人で大人に止められてるのに森に入ったこと』
森に入ったこと? そんなことあっただろうか、覚えて無い。
俺が何も言わないことに察したのか、レイは続けた。
『あの日、二人で昼間の森に入って遊んでた。けど、イノシシに出くわした。興奮状態のイノシシに、ね。
レイは腰を抜かして泣いて、動けなかった。レイだって怖がりで臆病だったからね』
『小さい頃なら、そんなもんだろ』
『でもヨンはそのとき、涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫びながらレイの前に立って守ってくれたんだよ』
そんなことが、あったのか。俺は全く覚えてないんだけどな。
レイは振り向いて、笑顔を浮かべた。
『怖がりだけど、勇気を出してレイを守ろうとしてくれたから、許嫁の話が来たときは本当に嬉しかった。嬉しかったし、今だって幸せ』
『レイ』
『仮面を被って頑張ると決意したなら、レイは止めない。でも覚えて欲しい。あなたの許嫁も、臆病で寂しがり屋なんだ。ほっといたら、寂しくていじけるよ』
俺は思わず、レイを抱き寄せていた。
しっかりと背中に手を回し、強く強く抱きしめていたんだ。
『俺も、臆病で怖がりだ。でもお前と一緒なら、俺はヴァルヴァの民としての仮面を被って頑張ってられる』
『レイの前だけは、仮面を外してくれる?』
『もちろん。俺とお前だけが、互いの本当の心を知って生きていこう』
『うん』
これが正解なのかはわからない。偽りの自分を作って、これからの人生を生きていくと誓った。
でも、レイがいてくれて本当に良かった。
ヌル、ありがとな。
お前のおかげで俺は本当に大切なものを、失わずに済みそうだ。