四十六、双子さんの騒動とバウムクーヘン・後編
『本日はここまで。各自、訓練内容を復習すること。それとゼロ、ヨン。お前たちは残れ。三式訓練を始める。よいな』
『『『『『はい』』』』』
あちしたちは御師様の言葉に大きく返事をする。
少しの休憩のあと、ゼロとヨンは個別に訓練を始めることになる。一歩先に行かれてしまった。その事実が心を締め付ける。
㓜い頃は一緒に鍛錬をし、一緒に遊んできたのに。
いつの間にかゼロは達観して大人のように落ち着きを持つようになって、置いてけぼりを喰らった気分になってる。
御師様がその場を離れた後、ゼロと妹のレイはその後の訓練に向けて用意を始めている。ヨンも同様に、愛用の剣の刃を確認している。
あちしたちはゼロに近づく。
『ゼロ! 今日こそは決着をつけるぞ!』
『投剣術で勝負だ! あちしたちはまだ負けてないからな!』
『お前ら……俺はこれから三式訓練だって御師様が言ってただろうが』
ゼロは呆れ顔のままあちしたちに言った。
『それに三式訓練は基本的に部外者は見学禁止だ。いつまでもここに残ってると、御師様たちにぶっ殺されるぞ』
『レイはどうなんだよ!』
『そうだそうだ! 親族だからって許されるわけじゃないだろ!』
『私はもちろん、麓で待ってるよ。それくらいわかるだろ』
レイにそう言われて、あちしたちは同時にうっと唸った。
しかしシューニャはさらに口を開いた。
『それなら三式訓練が始まる前に勝負だ!』
『すぐに始まるんだよ。ほら、さっさと行け。怒られるぞ』
『むぅー!!』
シューニャは悔しそうに地団駄を踏む。あちしも苦い顔をしてゼロに指を突きつけた。
『今回は見逃してやるけど、次はちゃんと勝負だ! あちしたちは負けてないんだからな!』
『ああ、まだ勝負はついてないのは認めるよ。また今度な』
ゼロは用意を続けていて、こっちを見る様子もない。
その姿がまた、あちしたちの逆鱗に触れる。正直むかつきすぎてこの場で勝負を始めたくなるほどだ。
だけど、悔しいけどゼロの言うとおりだ。ヴァルヴァ流の三式訓練は秘密のもの、横から覗き見ようとすれば御師様に殺される。
『帰ろっか、シューニャ……』
『そうだね、シファル……』
あちしたちはトボトボと訓練場から離れることにした。
あちしの名前はシファル。ヴァルヴァの里に住む花も恥じらう14歳だ!
この里であちしは青春を謳歌しながら、日夜訓練と里の仕事を頑張ってる。
同い年であるゼロとヨン、それとゼロの妹で年下であるレイ、双子の妹のシューニャと一緒に里の暮らしを過ごしていた。
特にゼロとは幼い頃から、あらゆることで競って遊んできた。
追いかけっこ、かくれんぼ、狩り、訓練……勝負の数は両手で数えられなくなってきてから数えるのを止めたぜ。
あちしは正直なとこ、ゼロが好きだ。
友達としても、男性としても。あちしたちと全力で遊んで競って、仕事をちゃんとしている姿に惹かれていた。
シューニャとゼロのことで争ったのも両手の指で数え切れないな。
なのに、ここ最近のゼロはおかしい。
具体的に言うと、ここ二年の間にゼロは変わってしまったんだ。
なんだか達観してたというか、落ち着きが出て冷静さが目立ってきたというか、上手く説明できないけど……なんか『大人』になってるんだって感じがする。
あちしたちと競うこともなくなり、自主練と訓練に励み、これまで以上に仕事に精を出すようになった。なんというか、子供時代が終わったのを見せられてる気分だった。
レイも同様で、ゼロと一緒にあちしたちと競ってはヨンに注意されてたのに、そんなこともなくなっちまった。レイもなんだか『大人』の階段を上り始めてるって感じがする。
その割にあちしたちと口論はするけど、なんだか年下に言い聞かせてるみたいで気に食わない!
ゼロとレイの変化……それにあちしたちはなんとなく理由を察していた。
多分だけど、二年前にレイが拾ってきた奴隷であるヌルのせいだと思ってる。
あいつはなんだか不思議な奴で、外では理解されないあちしたちの言葉を理解して使いこなしている。髪の毛も黒と白のまだらだったり、片目は白濁しているのに見えてたり、服装はなんだか不思議な感じで見たこともなくてなのに汚れる気配がない。
そして、家事も料理も完璧だった。
あちしたちヴァルヴァの民はときどき、外から奴隷を拾ってきたり買ってきたりするときがある。けど、言葉が通じなかったり仕事ができなかったり逃げ出したり、ほとんどが酷い外れだ。
でもヌルは当たりも当たり、大当たりだ。
家事もできて料理もできる、言葉は理解できるし通じる。そして、どうもレイの話によるととても気が利いて家の中が住みやすくなったという。
きっとヌルのせいだ! ヌルのせいで、ゼロとレイはかわっちゃったんだ!
『ヌルに文句を言いたい』
あちしは帰り道で、誰に言うでもなく呟いていた。
里の真ん中を貫く通りを歩き、自分の家に向かってる。
今日は日の光も眩しく、良い天気だ。帰ったらきっと、狩りか畑仕事があるんだろうな。
面倒くせぇ、といつものあちしたちなら思うのだけど……ここ二年ほどのゼロの姿を見ると、どうもそんな気が起きない。あちしたちも影響されて、仕事はちゃんとするようになった。
その姿を見た両親は『ゼロくんはシファルとシューニャに良い影響を与えてくれたんだねぇ』なんて朗らかに言ってたけど、悔しいだけだぜ。
なんか、ゼロに置いてけぼりくらったまんまだから。
それはともかく、あちしの呟きを聞いたシューニャも言った。
『あちしもヌルに文句が言いたい』
シューニャも気持ちは同様で、不機嫌そうな顔をしている。二人して考えることはほぼ同じなので、同時にあちしたちは向き合った。
『あいつのせいでゼロがおかしい』
『あいつのせいでレイの自慢が嫌』
ほぼ同時に言葉を発し、相手の言い分を理解したあちしたちは再び同時に笑った。
『『よし、あいつに文句を言ってやろう!』』
そうだ、そうすれば良かったんだな!
ヌルに文句を言って、これ以上ゼロをおかしくするなと釘を刺してやらねば!
あちしたちの気が済まない!
そうときまればあちしたちは、同時に走り出した。
と言っても、実のところ外見そっくりなあちしたちでも得意なことは異なる。
シューニャは武器を隠し持ち戦う体術の暗器術が得意。あちしから見てもどこに持ってた? と思うような角度で不意に武器を取り出すことがある。これは女の色香に惑わされた男や、あちしたちの外見に油断した女といった、偉い身分の人間に非武装だと思わせて接近し、隠し持った武器で殺すのが神髄だぜ。
あちしは踏歩術、と呼ばれる歩法、走法が得意なんだぜ。
あらゆる悪路、狭路をどんな状況でも走り抜け、忍びより、建物内や陣地内にいる標的に接近して暗殺する技だな。どこにいようがどんなに籠もってようが関係なしだ。
なので、あちしの方が足が速いんだよな。訓練でもそこを重点的にやるから。
だけど置いていっても仕方が無いので、あちしは自然とシューニャの足の速さに合わせて走ってる。
『ここだここだ!』
『ここにいるんだ』
そうしてあちしたちはゼロたちの家の前に来た。
もう、家を見るだけで苛ついてくる。
『綺麗だな』
『綺麗だぜ』
『『前とは比べもんにならん』』
前までのゼロの家は、かのスィフィル様が仕事の合間に家事をしていたって話だから、ちょっと散らかってた。家の軒下には農具が立てかけられてたり、家の周りに山の葉っぱが風で飛ばされて散らかってたり。
なのに今のゼロの家にはそれが全くない。どこにもない。面影が無い。
農具は綺麗に磨かれて綺麗に棚に整頓され、家の周りに葉っぱが一枚も落ちてない。こころなしか家の壁も綺麗になってる感じがする。もう、家の外見からして綺麗なんだよ。
一つ補足しとくけど、前のちょっと散らかってる感じがこのヴァルヴァの里の普通だからな。ここまで病的に綺麗な家はないから。
『そういえばおかんが言ってた』
『あちしもおとんから聞いてた』
『『家が綺麗になって自慢されたって』』
ここまで綺麗になると自慢したくなったんだろな、スィフィル様がいろんな奥様がたを家に呼んではお茶をして、家の綺麗さを自慢してるって聞いてる。
それを見てうちのおかんも『あんな奴隷が欲しいわぁ……はぁ……』て感じで羨ましがって黄昏れてるのを見たのは、そろそろ二桁にさしかかるくらい。
そんな家を見て、あちしたちは同じ動作で怖じ気づいたのだけど、すぐに気を取り直す。
『行くぜ』
『行くよ』
あちしたちは家の扉を乱暴に開けると、叫んだ。
『ここにヌルって奴はいるか!』
『出てこい!』
あちしたちの様子といきなり扉が乱暴に開かれたことに驚いたらしい、家の中にいた人物は肩を跳ね上げて驚いた。
こいつだ、こいつがあちしたちが文句を言いたい人物だ。
この白黒まだら髪で片目白濁の不思議な奴隷、こいつがレイが拾ってきた奴隷。
初めてこの集落に来てゼロとレイが奴隷にすると言ったときはちょっと騒動があったんだけど、次の日にはスィフィル様が問題なしと里のみんなに説明したから騒動は収まった。
いや、そういう話は今はいい。
ヌルはあちしたちの顔を見て、ちょっと考えるように首を傾げた。
そして思い出したのか首を真っ直ぐにする。
『……ええと、シファル様、と、シューニャ様、でしたっけ?』
ヌルは掃除用具を隅に置いて、あちしたちに近づく。
そして不思議そうな顔をして言った。
『本日は家の人たちは全員、出かけていらっしゃいますよ。用事でしょうか? 言伝なら承りますが』
『それは知ってる。ゼロはまだ三式の訓練の途中で、レイはその付き添いだとも!』
『ええ……』
あちしが一歩前に出て腕を組んで言うと、ヌルは怪訝な顔をした。
『なら、なんの御用なのでしょうか?』
『あちしたちの用事はお前だからだ、ヌル!』
『はい?』
あちしの言葉が理解できないのか、ヌルは殊更不思議そうな顔をした。
『お前がこの家に来てから、ゼロもレイもおかしい!』
『なんか達観してきてるし、めきめきとヴァルヴァ流の技も極めだしてるし! お前のせいだろ!』
シューニャもまた、ヌルを指さして文句を言う。
しかし、ヌルはさらに困ったように頬を掻いていた。
『ボくのせいと言われましても……。結局最後は本人の努力次第なので、ボくの支えがあったとしてもゼロ様もレイ様もいずれはその域に達していたのでは?』
一瞬怯むあちしたちだったが、すぐに言葉を重ねる。
『それだけじゃない! あの狂犬と謳われたスィフィル様も狂獣と揶揄されたノーリ様も、どっちも穏やかになった!』
『しかも家の中が前とは比べものにならないくらい、こう、なんというか、綺麗になって過ごしやすくなった! お前が何かしたんだろ!』
いや、ほんと家の中がめっちゃ綺麗。ヴァルヴァの家の人が同じ事をやったら『本業はどうしたのさ?』と心配されるくらい綺麗。
そりゃスィフィル様は自慢するだろうし、うちのおかんも羨ましがるなってくらい綺麗。なんかこう、家の中が不思議と輝いて見えて、広く感じるくらい綺麗。
だけどヌルは何を聞くんだと困ったように言った。
『毎日掃除して洗濯して料理をお出ししてただけですが』
いや、そりゃ、そう言われたら何も言えないけど! ヴァルヴァの普通じゃないんだよなぁ!
『えと、用事はそれだけですか? もしそうなら、ボくはこれから仕事を終わらせて料理を作ろうと思うのですが』
『くっ! あくまで自分の仕事を全うするだけか!』
シューニャがそう言うと、ヌルは真顔になった。
『当然でしょう、そのためにボくはここにいるんですから。それを止めたら殺されますがな』
『それはそうなんだが、その』
『で? 結局何が言いたいのです……?』
おそるおそるヌルはあちしたちに聞いた。
思わずあちしたちは口を噤んで、次を言うことができなかった。
まあ、確かに文句を言ってどうなるんだって話なんだけどさ。ヌルに何を言っても仕方ないんだけどさ。
それを言われたら何をどう言えばいいのかわかんなくなるよ。シューニャも同じように困った顔をして止まっていた。
文句を言うことしか考えてなくて、実際のところ何をして欲しいかなんて考えなかったところを見抜かれたようで悔しい。
『用事がないのでしたら、ボくは仕事があるので失礼します』
ヌルはあちしたちを無視して、食材と調理道具等をを用意するとあちしたちの横を通り過ぎて外に出て行った。
『あ、こら!』
『待て!』
あちしたちはその後を追って外に出ると、ヌルは里に自生している竹を切ったりたき火の用意をしている。
『話を聞け!』
『話は終わってない!』
あちしたちが何を言っても、ヌルは無視したまま作業を続ける。
無視してるというか、聞こえてない感じがするんだ。作業に集中しすぎて、回りの声が聞こえなくなってる。
こうなったら何を言っても無駄だ……あちしはシューニャと顔を見合わせた。
『困ったな』
『困ったね』
『どうする?』
『どうしよ?』
二人してそんなことを言うけど、お互いの本音としてはもう何を言っても仕方ないし、文句は言うだけ言ったし目的は果たしてると言ってもいいんだぜ。
帰ろうかな……とあちしが言おうとしたら、シューニャはヌルの方へ顔を向けてそのまま動かなくなった。
『どうした、シューニャ?』
あちしがそう聞くけども、シューニャは何も答えない。
視線の先にはヌルが、何かの作業をしているのが見えた。背中越しに、たき火で何かを焼いているのがわかる。
なんか、甘い匂いがしてきた。
あちしとシューニャはジッとヌルの方を見て、なんとなしにヌルの隣に座った。
『何をしてるんだよ』
『話はまだ終わってないぞ』
あちしとシューニャはそう言うが、ヌルの焼く何かをジッと見ていた。
好奇心が抑えきれず、あちしたちは聞いた。
『で、これは何を作ってるんだ』
『見たことないぞこんなの』
『ボくもよく覚えてないんですけど、バウムクーヘンってお菓子です』
『『お菓子!』』
あちしとシューニャは同時に驚いた声を出した。同時に、期待するような目で見ていた。
お菓子。それは話でしか聞いたことのない、甘くて美味しい料理。
外で仲介人をしている人からたまに話に聞いては、食べたいと心を躍らせていた。
なんせ、生きるために食べる獣肉や野菜とは違い、純粋に楽しむための食事。それがお菓子だと聞いてる。
時々砂糖を盗み食いして甘さを楽しんでいた幼い頃があったけど、話によればそれ以上、美味しくて甘いを楽しめるものなのだと。
ヌルがたき火の前に座って、竹に何かを塗りながら焼いているもの。それがお菓子なのか!
あちしはヌルの仕事をじっと見ている。シューニャもそうだ。
『これがお菓子かぁ』
『聞いたことはあっても食べたことなかった』
あちしたちはそんなことを言いながら、思わず舌なめずりをしていた。
なんせ、だんだんと良い匂いがしてきたからだぜ!
ヌルには見えない角度なので気づかれてないだろうけど、本当なら欲しいとねだってるんだけどなぁ。
『そういうことでしたら』
ヌルは微笑みながら焼き上がったそれを確認して、竹をたき火から離して用意していた小さな机の上に置いた、まな板の上にバウムクーヘンとやらを置く。
バウムクーヘンを切り分けて、余った切れ端が並ぶ。
ヌルはそれを口に運び、満足そうにしていた。
ずるい、欲しい。
あちしとシューニャが物欲しそうな顔をしていると、ヌルは切れ端を指さして、
『ちょっと味見をしてみますか? 大きい部分は皆様に食べていただくのであれですが、余ってる部分は食べ放題ですよ』
と、言ってきた。
もちろん、あちしとシューニャの返答なんて決まってるぜ!
『『食べる!』』
あちしとシューニャの言葉に微笑ましくなったのか、ヌルは嬉しそうにあちしたちにバウムクーヘンを差し出した。
あちしはそれを受け取ると、すぐに口に放り込んだ。大きめの切れ端で、口の中に結構な存在感がある。
同時に、あちしの頭の中に稲妻が奔る。
食べたことのない料理の、味わったことのない味に、経験のない食感、そして感じたことのない風味が口と頭と胃に、これでもかと直撃する。
あまりの衝撃と心地よさに、あちしは夢心地のような気分になった。
これが生きるためではなく、楽しむための食べ物かぁ!
『うーむ、なんかふわふわしてて甘くて美味しい!』
感じる歯ごたえは、まるで雲を食べてるかのようなふわふわ感。
そこから楽しむ味は、まさに甘くて美味しいものだ!
どろっとしたものを竹に塗って焼くだけでこれだけ美味しいとは驚き。
『これがお菓子か! これがそうなのかぁ! ちょうど良い甘さにふわふわした食感でとてもいい!』
シューニャもまた、嬉しそうに味わって食べてる。初めてのお菓子に、夢心地の陶酔感に浸ってるのが良くわかる顔だ。そしてあちしも同じ顔をしてるんだろう。
なんせあちしとシューニャは双子だ。顔つきも体つきもそっくりなんだ。だから、鏡でも見てるようなもんなんだよな。
『それはどうも』
その間にヌルは綺麗に切り分けてあるバウムクーヘンを、皿に盛り付けて用意をしていた。
あれをゼロたちが食べるのか……羨ましいね! 全く!
『で、話ってなんだったんですか?』
あちしとシューニャは同時に咽せそうになった。だけど咽せて吐き出したらもったいなから、口の中でギリギリ押しとどめる。
もったいないけど十分楽しんだので、飲み込んでから口元を拭う。
『そ、それなんだけどな』
あちしが言う前に、シューニャが口を開いた。
『も、もう勘弁してやる!』
慌てて口にだしたシューニャの様子に、ヌルは怪訝な顔を浮かべた。
『勘弁してやる、とは……?』
当然だよな、そう聞くよな。正直あちしもシューニャと同じで勘弁してやるって気分だった。
ああ、だけど言わないと理解されないよなぁ! あちしは渋々言うことにした。
『あ、あちしたちはその……なんだ……ねぇ?』
『シファル!? そこであちしに振る!?』
『だって、上手く言えないじゃんよ!』
『あちしだって言えないよ!』
『喧嘩はそこまでにして、とりあえず言うことを言ってもらえますかね……? そろそろ皆さんが帰ってくるのではないかと思うので……』
ヌルの困り顔に、あちしたちも困ってしまう。
だって、ゼロが変わってしまったのはお前のせいだなんて言えるわけがない。
そんなことを言っても『は?』としか思われないだろうし、だからと言ってゼロに何をしたと言っても『毎日ちゃんと仕事をしただけですが』と繰り返されるだけ。
そんな繰り言を言うような性根がないあちしたちにとっては、返答に困るばかりだった。
『あの、今は上手く言えないなら後でも良いので、今日はこれまでにしましょうか』
そういうとヌルは、手際よく調理道具を片付けて持ち上げる。
『お話はまた後日、いつでも聞きますので』
う、もうヌルは帰ろうとしている。
『シューニャ、もうここでヌルの言葉に甘えた方がよくないか?』
『シファル、あちしもそんな気がしてたよ』
そんな会話を、あちしとシューニャはコソコソと話してみた。
うん、ここで帰った方が……。
『じゃ、じゃああちしたちはそうしようかな』
『はい。ボくはこれから残りの掃除と、料理と仕事が残ってますので』
『? まだ、掃除するところあるの?』
思わずあちしはヌルにそう聞いていた。
あの家はもう、歩くのに困らないほど綺麗だぜ。あれ以上何をするって言うんだ。
ちなみに隣でシューニャは、あちしに余計な事を言いやがって! て感じの怒った顔をしている。
すまん。
『ええ。まだ歩きやすくないので』
『歩きやすくない?』
どういうことだろう? あちしは頭を傾げて聞いていた。
あの家は綺麗だ。足の踏み場にも困らない。掃除は完璧のはずだ。
だけど、次にヌルが放った言葉に、あちしは頭の中に雷を打ち込まれたような衝撃を受けた。
『はい。人は歩くのに動線という奴があります』
『動線?』
『無意識に動く、効率的な道筋みたいなものです。あの家も、自然と居間に上がって寛ぎ、そして食事が終われば自然と自分の過ごしやすい場所に動く。そこに不快感も違和感もなく、あるがままに自然のままに移動する……そんな間取りとか物を置く位置とか気をつけてます』
その言葉に、あちしは胸の奥につっかえていた色んなものが、勢いよく取っ払われた気分になった。というか、いきなり世界が開けて青空も山も道も、全てが広がったようだ。
あちしは御師様から、踏歩術の三式にまだ至ってないって言われてた。
仲間の中では一番踏歩術に長けてたのに、それでも三式訓練の許可が下りてないんだぜ。
御師様は常々言っていた。『疲れないように早く全力で動け』と。
意味がわからなかった。全力で動けば疲れるのは当たり前だ。そんなの自然の成り行きだ。それがわからない限り、三式訓練は受けさせないとも。
でも意味が、本当に意味が、極意が、こんな形であちしの前に広がるとは思ってなかった。
この衝撃は今まで生きてきた中で経験したことが無いほどに。
『物を置く位置って?』
『そのままです。人って、どんだけ用意を整えても準備を万端にしても、失敗しちゃうことってあるじゃないですか。家の中って目に映るものよりも、目に映らないところにあるものの方が感じ取りやすいんです。仕事場でも家でも、結局いつもの場所にいつもの物があるって方が、違和感がないじゃないですか。
同時に、違和感のある場所にあるものって頭に残っちゃうし、不快感がある。ボくはそれを気をつけながら片付けてます』
そしてシューニャもまた、何かを感じたのかあちしと同じくらいの驚いた顔をした。
……今、この感覚を捨てたくない。
『ヌル、今日はここまでだぜ!』
『あちしたちはもう満足だ! じゃ!』
あちしとシューニャは同時に、訓練場の方へ走る。今頃はゼロたちの三式訓練も終わってるころだ。そしておじさんたちが訓練に使うのにまだ時間があるはず!
『あ、ちょ、その、またどうぞ!』
遠くでヌルが挨拶をする声が聞こえるが、あちしたちは構わず走る。
二人して並んで走って、そして徐々にあちしの方が前に出て走り出す。
何かが掴めた気がしたんだ。何かを見つけた気がしたんだ。
得たものを、無為にしたくないんだ! 自分のものにしたいんだ!
『どうした、お前ら?』
訓練場に行く坂の上で、帰りの途中らしいゼロとレイがあちしたちを見て不思議そうな顔をしている。
だけど、言葉を交わす時間すら惜しい!
『ちょっと訓練!』
『なんか極意を得た!』
『あ、おい』
ゼロとレイの隣を走り抜け、あちしたちは訓練場に辿り着く。
肩で息をして俯き、必死に呼吸を整える。
そしてあちしとシューニャは顔を見合わせた。
『じゃあ、おじさんたちが来る前に集合!』
『シファルは掴んだ? あちしは掴んだ!』
『あちしも掴んだ! 忘れない内に掴む!』
そう言ってあちしたちは別れた。
シューニャは訓練場の真ん中で、隠し持っていた暗器を広げて必死に並べ替えたりしてる。
あちしは訓練場の中で、竹藪と崖がある方向へ向かう。
竹藪の中を走りながら、あちしは自分の視界が全く違うものになっていることに驚いた。
今までは早く、速く、一秒でも目的地に辿り着くことしか考えてなかったぜ。
でも今はどうだ!
地面の僅かな隆起、竹の傾き、藪の密集地。それら全てを視界に収め、効率的に走れる道筋を見つける。
するとどうだろう。ただ走るのでなく、跳ね、飛び、重心の傾きによる歩法や走法によって疲れがない。前よりも格段に速いのに、疲労がないんだ!
さらに、やろうと思えば勢いのまま片足跳びを続けても速い。むしろその方が速い道筋の場合もある。従来の走り方に囚われない、自然体の移動。
これか! これが御師様が言ってた極意か!
そしてあちしは訓練場の崖の前で止まる。
前までは速さだけを追い求めていたため、到着したときには肩で息をしてた。
それがどうだ! 息が切れないし、足にも腰にも疲労が少ない!
あちしは崖を一瞬で見渡し、走り出す。この崖は登攀訓練も兼ねて、普通はよじ登るものだ。
なのにあちしは断崖絶壁のそれを見て、普通に走るようにして登っていた。
僅かな崖の出っ張り、傾き、足を掛ける部位の硬度、安定性……それを一瞬で看破して登る。
そしてあっという間に頂上まで登り、あちしは崖の上から里を見渡した。
綺麗な世界だった。青空、山、自然、村、人、動物……それらの道が、方向が見える。美しい世界には、調和された方向があったんだ。
『世界って、残酷なところもあるけど綺麗でもあったんだ』
あちしは放心しながら呟く。それだけ、自分の限界を一足飛びに超えた感覚に、戸惑いを覚えてたんだ。
『驚いたな』
そこに、後ろから声を掛けられてあちしは肩を跳ね上げて驚く。
振り向くと、そこには御師様がいた。御師様は顎を撫でながら、笑顔であちしに近づく。
『あのシファルが、慌てて訓練場に来て何をするかと思ったら……まさか三式訓練を飛び越えて四式まで身につけてここに来るとはな』
『……四式……?』
あちしは呆然と呟くように答えた。
御師様はあちしの隣に立つと、同じように高いところから世界を見渡す。
『ヴァルヴァ流踏歩術一式“転足”。どんな悪条件でも速く走るように、筋肉を使って一瞬だけ速度を上げる技。二式“心歩”。重心の傾きを利用して今までよりも少ない労力で速く走る骨を使った技。
お前が無意識に使ったのが三式“知触”。これは足の裏や体全体の肌を使って足場を感じ取り、悪条件でも走れるように足の置く位置を瞬時に変える技。
そして、最後にお前が体得したのが四式“界観”。肌だけでなく、目を、耳を、舌を、鼻を、自分が使える感覚器官全てを使って最適かつ最効率の道筋を見つけて、今までとは比較にならないほどの速さと疲労のなさで目標地点に到達する技だ』
『あちしが……そこまで……』
あちしは昂揚感のあまり言葉に詰まる。
そんなあちしに、御師様は肩に優しく手を置いた。
御師様の顔を見上げると、その顔は今まで見た訓練のときの顔の中で一番優しく、達成感に溢れていた。
『おめでとう。踏歩術に関してお前に教えてやることは、もうない』
『え』
『お前は秘奥に到達した。明日からは別のヴァルヴァ流を身につけつつ、踏歩術の確度を上げていくだけだ』
『は……はいっ! はい、わかりました!』
あまりの嬉しさに、あちしは思わず涙を流しながら頭を下げた。
ようやく到達し、体得した踏歩術の奥義を、あちしは胸の中で大事に大事に抱きしめるようにして両手で体を抱きしめる。
ああ、ありがとうヌル。
あちしは、ようやくゼロの隣に立てるよ。
『で、シファル様とシューニャ様は何故、ボくのところでたむろするようになったんですか?』
『だって、あちしたち四式まで身につけたから訓練時間が減ったんだよ』
『その分、ヌルに会いに来ても良いと思わない?』
『はぁ……』
次の日、訓練が終わった後にまたヌルの横でたき火を前にして座っていた。
今日もヌルはバウムクーヘンを作っている。竹を回しながら生地を焼き、香ばしく甘い香りを振りまいている。
そんな様子を見ながら、あちしとシューニャは笑顔を浮かべていた。
『それに、こんな美味しいものを知ったらまた食べたくなるじゃん』
『あちしたちは訓練の後のこれを楽しみにしてるんだからさ』
『うーん、その評価の高さを喜んでいいのか悪いのか』
ヌルは複雑そうな顔を浮かべながら、それでも嬉しそうだった。
『ちなみに四式ってどんななんですか?』
ヌルがそう聞くので、あちしたちは声を弾ませて答えた。
『『秘密! それを言っちゃったら秘伝じゃない!』』
『まあ、そうですな』
あの後、あちしは御師様と一緒にシューニャと合流した。シューニャはシューニャで、何やら暗器術の極意を完全に体得したらしい。
傍目から見たら良くわからなかったのだけど、シューニャは暗器をさらけ出してた。そのまま御師様に訓練を申し出た。
御師様は真剣な顔で戦闘訓練を行った。そこに手加減も慢心もなかったはずだぜ。
でも、シューニャは自然な動きのまま一瞬で道具を消したり取り出したり、どうやってそれをしているのかわからないほどに武器が消えたり現れたりを繰り返していた。
御師様のそのときの言葉はこうだ。
『ヴァルヴァ流暗器術一式“持術”。物を多く持つための技だ。手先足先の器用さを利用したもの。二式は“欺持”。物を隠し持つための技。脇の下、膝の裏、太股の裏、服の下……どうやって相手に悟られないように暗器を隠し持つかを突き詰めた技だ。
そして三式“滑動”。いかに物を多く持ち隠せても、動きを阻害しては意味がない。動きやすく、かつ効率的に暗器を体に隠す技。
最後の四式が“取在”。暗器を瞬時に隠し、瞬時に持ち直す技だ。手先足先の器用さ、効率的な隠し方だけでは足りぬ。それらは一瞬にして取りだし使い、一瞬にして隠し、相手に手の内を錯覚させる技だ。極めれば、相手には裸でも傍目に何も持ってないように思わせられる。何人周りにいようが関係ない。瞬時に相手に見えない位置に武器を隠せ、瞬時に相手に武器で攻撃できるのだからな』
御師様の説明にシューニャは驚き、シューニャもまた四式皆伝を得た。
今日になって、他のみんなにあちしたちがそこに至った説明がされ、ゼロとレイとヨンが驚いてた。
もうゼロに突っかかる気持ちはない。驕りも無かった。今日の訓練だって、真面目に真剣に取り組んだよ。
ゼロからは『なんか、お前らの背が大きくなったように見えたよ』と悔しさ半分嬉しさ半分に言われて嬉しかったなぁ。
で、あちしたちは訓練が早く終わったから、こうしてヌルに会いに来てる。
『で、今日も食べるんですか?』
『『食べる!』』
あちしたちは声を揃えて言うと、ヌルが困ったように笑いながらバウムクーヘンを切り分ける。
その背中で、あちしとシューニャはコソコソと話す。
『で、お礼は言わなくていいかな?』
『言った方が良いけど、今じゃない』
あちしたちはここに至ったのは間違いなく、ヌルのおかげだ。だからヌルにお礼が言いたかった。
でもなんだか直で言うのは気恥ずかしくて、照れくさくて言いにくい。
『じゃ、これをどうぞ』
と、あちしとシューニャが相談しているとヌルがあちしたちにバウムクーヘンの綺麗な部分を渡してきた。
『『いいの?』』
あちしたちが嬉しそうにして聞くと、ヌルのは頷いた。
『シファル様とシューニャ様の進展を祝って、ボくから贈り物ってことで』
『『じゃあ遠慮なく!』』
あちしたちは喜んでバウムクーヘンをもらって口に運ぶ。
切れ端じゃないそれは、やっぱり甘くて美味しくて、大きくて満足感があって。
あちしたちは、なんか幸せな気分のままバウムクーヘンを楽しむのだった。