二章 その五
目的の店は、若者向けのファッションショップばかりを揃えた総合ビルの一角にあった。雑誌を読んでいて、石井の好みに合う服が一番多い店が、そこだった。
服屋に着ていく服がない、なんて言っていたから、てっきり尻込みするかと思ったが、存外に彼女は店に入った途端、まるで年頃の少女のように目を輝かせた。いや、正真正銘、年頃の少女ではあるけれども。
「おおぉ、すげぇすげぇ! 可愛い服がいっぱいだぜ!」
「そうだね」
「しかも結構広いな、ここ! こりゃあ見て回るのに時間かかるぞぉ!」
「そうだね」
「んじゃ、とりあえずじっくり見て回るか。尽もいい服見つけたら教えてくれよなっ」
「そうだね」
「……お前、話聞いてないだろ?」
「そうだね」
「そうだね、じゃねえよ! 聞けよ! 話を!」
「いたたたたたごめんごめん! っていうか痛いしうるさいし!?」
彼女は急に俺の耳を強く引っ張ったかと思うと、耳元に顔を寄せて大声で怒鳴りつけてきた。涙目になりながら謝ると、ブツブツと文句を言いながらも石井は耳から手を離してくれた。
「ったく……。んじゃ、まあ適当に見てまわるから、アドバイスしてくれよな」
「うぁい……」
痛む耳を押さえながら、情けない声で返事をする。
どうにも、集中できない。理由は明白だ。解っている。
視界いっぱいに広がる女性服と、洪水のように現れる人、人、人。買い物客は、当然のように若い女性で溢れかえっていた。
男性スタッフは見当たらない。男性客も俺を除いて、誰一人いない。
時折向けられる奇異の目が、居心地の悪さに拍車をかける。気のせいだと分かっていても、周りの客たちの話し声が、場違いな俺を嘲笑っているようにしか聞こえない。女性服売り場に男が一人でいるというのは、非常に気まずいものがあった。
「なあ、やっぱり俺、入口の方で待ってるから、買い物は石井一人で……」
「駄目だ」
アウェーな空間に耐え切れなくなって脱出を試みようとするが、石井の返事はにべもない。
「それじゃ、お前が今日来た意味がなくなるだろ。グズグズ言ってないでとっとと服選べよ」
「ですよねー」
だったら今から帰ってやろうか、と言い返したくなったが、なんとか思いとどまり、言葉を飲み込んだ。暴力に訴えられないよう、口には気をつけねば。
それから石井と二人で、時間をかけながらゆっくりと、店内を見て回った。彼女は目を皿にして商品を選び、気になったものは「なあ、これ、どうだ!?」と逐一こっちに見せ、意見を求めてきた。その都度俺は「可愛いと思う」とか「さっきのほうがいい」とか、思うがままに答えた。それが参考になっているのかどうかは分からなかったが、石井は俺の短文コメントを真剣に聴き、時折小さく頷いて、選んだ服を買い物カゴへ入れたり、売り場に戻したり、さっき戻した商品が再び気になったのか、また手にとったりしていた。
そうして彼女が納得するまで服選びをしていたら、気がつくと、あっという間に二時間が経過していた。ずっと立ちっぱなしの歩きっぱなしだったので、下半身に鈍い疲労感を感じる。
「なあ、そろそろお昼だし、今日はもうこの辺にしとかないか?」
そろそろ時間的にも体力的にも厳しくなってきたので、それとなく水を向けてみる。
「んん……。まあ、確かに。しょうがねえ、今日はこんなもんにしとくか」
石井はまだ選び足りなさそうだったが、午後には美容院の予約が控えているのを思い出したのか、不承不承の態で、店員へと声をかけた。
「すみません、この服、着て帰りたいんですけど。試着室借りていいですか?」
声をかけられた店員は笑顔で石井を試着室へ案内する。連れられて行く彼女を見送って、見えなくなったところで膝に手をつき、深く重いため息をついた。
とりあえずは、上から下まで一式選ぶことはできた。
しかしそれにしても、女の買い物ってこんなに長いのか。知識としては知っていたが、いくらなんでも長すぎる。うんざりしながら、歩き疲れて棒のようになった足を撫で摩り、今のうちとばかりに自分を労わった。
やっと一息つけると思ったのも束の間、着替えに行ってから十分もしないうちに、石井は試着室から帰ってきた。
「戻ったぜ」
おかえり、と出迎えようとして彼女の方へ振り向き、一目見た俺は、思わず息を飲み、言葉を失った。
丸襟の白いブラウス、茶色いミニスカート、黒のカーディガン、そして足元はロールトップの黄色いショートブーツ。
どれも先程、二人で必死に選んだものだった。雑誌の知識頼りだった割には、中々のコーディネートが出来たと思う。少なくとも、俺が一瞬見蕩れるくらいには。
「ほほーう」
あえてわざとらしくため息を漏らしてみせると、案の定、石井は少しだけ眉間にしわを寄せて、頬を膨らませた。
「なんだよ、一人で納得して感じ悪い。なんか感想とかないのかよっ」
「いやいや、よく似合ってんじゃん。さすが俺の見立て」
「アホか」
「まあでも、冗談抜きにいいと思うよ、本当に」
少なくとも、スウェットにボロいスニーカーよりは格段の進歩だった。もはや進化と呼んでもいいかもしれない。女の園に男が一人だけ、という針のムシロを我慢しただけの結果を出せて、何かをやり遂げたような達成感に包まれていた俺は、その勢いに任せてストレートに石井を褒めた。
ちょっぴり照れくさくて、冗談を挟んで言った事と、相手の目を見て喋れなかった事は、ご愛嬌というものだろう。
褒められた彼女も満更でもない様で、口調はつっけんどんだが、目を泳がせながら頬を仄かに赤くしていた。そんな反応をされると、こっちだってだんだんと恥ずかしくなってきてしまう。
「と、とにかく! いい時間だし、美容院に行く前に、ご飯でも食べよう!」
「そ、そうだな!」
ちょっぴりだった照れくささがムクムクと膨らんで、二人のあいだに何とも言えないくすぐったい空気を作り出す。それを払拭したくして強引に話題を変えようとしたが、思った以上に大きな声になってしまった上に変にあたふたしてしまい、余計に意識してしまった。石井の返事にも、同じ必死さが滲み出ていた。
こそばゆい恥ずかしさから、ついお互いに距離をとってしまう。不自然なくらい間隔を空けたまま、無言で、だけどしっかりと相手を気にしながら、俺達は並んで歩き出した。
その後昼食を食べ終わるまで、二人の距離は、そのまま開きっぱなしだった。