二章 その一
ちょっとした騒動のあったバレンタインから、一夜明けて。
気怠い授業を聞き流しながら、俺は教室にいる二人の人物を盗み見ていた。
一人は河辺奏人。そしてもう一人は、石井愛歌。
河辺は黒板に書かれた文を板書したり、時々教科書にマーカーを引いたりと、至って真面目に授業を受けている。
それに対して石井の方といえば、背筋を伸ばして姿勢良く先生の方に耳を傾け、一見すると真剣に授業を受けているようだが、よく見ると机の上にはノートも教科書も何も出ていない。しかも、さらに注意深く見てみると、その視線が先生ではなく、スラスラとノートをとる河辺の姿を追っているのが、傍から見ても丸分かりだった。その表情は険しく、視線は鋭い。
事情を知らなければきっと、何も気付くことなく、いつもと変わらない教室の風景に見えるのだろう。
だけど俺は、知ってしまった。石井愛歌が、河辺の奴に告白して振られたことを。そして、なんだかよく分からないけれど、石井が河辺の鼻をあかすために何かを企んでいるらしいことを。
悪名高いヤンキー女が“何かを企んでいる”時点で嫌な予感しかしないが、少なくとも単純な暴力沙汰などにはならないだろう、と思う。もしそうだとしたら、河辺の奴はとっくにその綺麗な顔が変形するくらい殴り倒されているはずだ。しかし今現在、彼の顔面には変形どころか青アザの一つも見当たらない。
石井が一体どういう手段に出るのか興味はあったが、それを知るために首を突っ込むのは気が引けた。というより、腰が引けた。
推薦で志望高校の内定をもらってから今の所、俺は大したトラブルを起こす事なく今日までやってきた。それが昨日だけで、あわや暴力事件に巻き込まれるのでは、と何度思ったことか。彼女も噂ほどではないにしても、正真正銘、歴とした不良だ。関われば間違いなく危険が伴う。ヘタを打てば、内定取り消しなんてこともあるかもしれない。
そんな目にあってまで、自らリスクを背負う必要なんて本当に全く全然これっぽっちもない。このまますんなり卒業できるよう過ごすのが、一番利口というものだろう。
なので、バレンタインの一件は確かに気になる出来事ではあったが、綺麗さっぱり忘れて、無かった事にする、というのが一晩考えての結論だった。そう思うと、一時の親切心で石井愛歌という少女に関わってしまった昨日の自分を、激しく呪わずにはいられなかった。
ぼんやり考え事をしていると、不意に石井が俺の方をちらりとのぞき見てきた。元々こっちは彼女を眺めていたので、自然と視線がぶつかる。その瞳は何か言いたげに揺れていたが、俺はそれをあえて無視して、フッと目を逸らした。
そう。石井は河辺だけでなく、俺の方にも今日一日で何度も目を向けてきた。多分、昨日の件で何か言いたい事があるんだろうと察しは付いていたが、こちらとしては極力関わらないようにするという方向で既に結論づけてしまっている。薄情と思われようが構わない。好奇心は猫をも殺す。
石井と目を合わさないよう、俺は視線を落とし、ノートにぐしゃぐしゃと落書きをしながら時間を潰した。
やがて終業のチャイムが鳴り、先生は黒板を消しながら次の授業までに予習してくる範囲を伝えていた。これで今日の授業は全て終わりだ。
ざっと教室を見渡すが、石井の姿はなかった。トイレにでも行っているのだろう。今がチャンスだと思い、荷物をカバンに詰め、クラスメイト達との挨拶もそこそこに、俺はそそくさと教室を飛び出し、ほとんど全力疾走で玄関へと向かった。極力関わらないようにするためには、さっさと帰って、自宅に篭っているのが一番いいに決まっている。
荒くなった息を整えながら、靴をつっかけるように履き替える。こういう時に限って上手く履くことができず、もどかしい。
やっとの思いでスニーカーを履き、玄関から一歩を踏み出そうとした。
そこで、俺の足は止まった。
「待ってたぜ」
そこには既に、石井愛歌がまるで弁慶の如く玄関に立ち塞がり待ち構えていた。堂々と仁王立ちし、相変わらずの射抜くような鋭い目でこちらを見てくる。
俺は酸素を求める魚のように口をパクパクと開け、声にならない声を漏らした。
「……。いつの間に?」
なんとか声を絞り出すと、何よりもまず、純粋な疑問が口をついて出た。
いの一番にここまで来たはずなのに。
授業終了からまだ二、三分程度しか経っていない。クラスメイト達だって、やっと教室を出たかどうか、という所だろう。事実、玄関に他の生徒が来ている気配は全くなかった。
「チャイムと同時に飛んで来たんだよ。テメェが授業中ずっとそわそわしてたから、もしかして、と思ってな。イモ引いて逃げないように先回りさせてもらったぜ」
確かに授業中、石井の目配せに対し何度もそっぽを向いたが、まさかそれだけで先回りをしてくるとは。その執念深さに思わず頬が引き攣る。
「え、えっと、それで? 昨日の今日で、いったい俺に何の用なのさ」
後ずさりながら、話題を逸らす。石井に対して、多少はフランクに接することができるようにはなったが、人間、他人に対する印象や態度を一日でそこまで大きく変えられるものではない。依然としてこのヤンキー女が恐怖の対象であることに変わりはなかった。昨日同様、冷や汗が吹き出てくる。いま彼女にちょっとツラ貸せよ、とか言われたら間違いなく漏らしてしまうだろう。
「山岸尽、だよな。名前。わりぃけど放課後、ちょっとツラ貸してくれよ」
あまりに予想ドンピシャすぎて、腰が抜けそうになった。
石井はそんな俺を気にすることなく、話を続ける。
「ところで尽、お前、チャリで通学してたよな?」
「え? あ、ああ。うん。まあ」
急に話が飛んで困惑し、煮え切らない返事を返す。しかしそれだけで充分だったのか、石井は口元だけでにやりと笑った。
「じゃあ、行きたいところがあるんだけどよ。私をチャリの後ろに乗っけてくれねぇか」
「そりゃあ構わないけど……。でも一応言っとくけど、自転車の二人乗りは危ないし、禁止されてるよ。校則じゃなく、法で」
ハキハキと喋る彼女とは打って変わって、俺の声は次第に小さく萎れていく。
「細けえことはいいんだよっ!」
そう言って石井は俺の背中をバシンと力任せに叩き、にっかりと眩しい笑顔を見せてきた。
彼女の笑顔を見るのは、初めてだった。美少女の笑顔は、とても、絵になる。
それを見た瞬間、まるで体が浮き上がったような、なんとも言えないこそばゆい高揚を感じ、胸が高鳴った。緊張と恐怖で鼓動が速くなるのとは全然違う、この浮遊感。
気がつけば、しばらくの間、食い入るようにその顔を見つめてしまっていた。
「なんだ? どうした、尽」
「な、なんでも」
見蕩れていたのを悟られないよう、努めて素っ気無いふりをする。そして気が付けば、いつの間にか石井は俺を下の名前で呼んでいた。
いろんな事が何となく照れくさくて、むず痒くて、足早に駐輪場まで向かう。後ろを付いて歩いてくる彼女の幼げな歩き方がまた妙に可愛くて、さらに歩調は早まった。
自転車の鍵を開け、通学用のママチャリに足をかけると、石井は「よいしょっ」と言って俺の肩に両手をかけてきた。触れた瞬間、彼女の重みと体温を感じ、妙に意識してしまう。そんなことにいちいちドギマギしている自分が恨めしかった。
彼女は荷台に座らず後輪の留め具に足をかけ、ちょうど立ち乗りするようにして俺の後ろに跨った。
「座った方が楽だろうし、立ってると危ないんじゃない?」
言いつつ、自分のすぐ後ろで風に揺れている制服のスカートが時々背中に当たり、気になって仕方がない。
そんな俺とは裏腹に、石井は「大丈夫。さ、行こうぜ」と屈託なく言ってきた。表情は見えなかったが、石井の声に楽しそうな雰囲気を感じ、釣られて自分の頬も緩む。
どこに向かうのかも分からない。何をしに行くのかすらも知りはしない。
だけど、ヤンキーとはいえ、可愛い女の子と触れ合いながら二人乗りしている事実に、自然とペダルを漕ぐ足に力が入る。
まだ新しいはずの自転車は二人分の体重にキイキイと悲鳴を上げて、蛇行しながら、ゆっくりと動き出したのだった。




