一章 その三
夕日も沈み、辺りが薄暗くなってきた頃。
俺は何故か石井と二人きりで、駅前のコーヒーショップに入っていた。
教室を出たその後、さらに学校も出て、彼女に誘導されるまま、俺は通学用の自転車を押しながら真っ直ぐここまで歩いてきた。
店に入って即座に、石井は慣れた様子でレジの店員に向かってココアとケーキ数点を注文し、さっさと二人掛けの狭いテーブル席に着いていた。とりあえず俺もコーヒーだけを注文して、それに続く。ちなみに石井のお茶代はちゃっかり、そしてしっかりと俺の財布から支払わされた。
席に着いてから、しばらくは二人共、無言だった。対面に座るヤンキー女はただひたすらに、黙々とケーキを食べ続けていた。
眉間にシワを寄せて、親の敵みたいな目で睨みつけ、力強く咀嚼する。その表情はさながら般若のようで、とてもじゃないけれど女子中学生がケーキを頬張っている顔には見えなかった。
もっと美味しそうに食べればいいのに。そう思ったが、口には出さない。そんなこと言ったら、次の瞬間、鉄拳が飛んでくるのは目に見えていた。
仕方なく、眉の寄った顔を眺めながら、俺は舐める様にちびちびとコーヒーを飲む。
やがてケーキをたいらげた石井は「御馳走様でした」と律儀に頭を下げた。
スッと居住まいを正し、その深い色の双眸で一直線に俺の目を見つめてくる。
瞳は泣き腫らしているにも関わらず、吸い込まれそうなくらい綺麗で、どこまでも澄み渡っていた。目を合わせていると、なんだか気恥ずかしさがこみ上げてくる。上手く見つめ返すことができず、つい目を逸らしてしまった。
「話を聞いてくれるんだったよな」
俺の挙動を気にする様子もなく、石井は堂々とした口ぶりで話しだした。その真剣さとは裏腹に、唇の端に先程までがっついていたケーキのクリームが付いていて、妙にちぐはぐな印象を受けた。
和む絵面ではあったが、とても指摘できる空気ではなかった。
そもそも、何故こいつはたまたま通りがかっただけの大して親しくない男に、一人で悲しみに暮れていた顛末をいきなり話す気になったのか。ピンチを切り抜けるため咄嗟に提案してはみたものの、まさか本当に話すとは微塵も思っていなかった。若干の引っ掛かりを感じながらも、しかしそれを今更言い出すつもりはなかった。
何故話す気になったのかは、また後にでも改めて聞けばいい。今はそれを飲み込んででも、何があったのか知りたい、という好奇心の方が勝っていた。無論、自分の安全の為にも。
しかし、やはり言いづらいのか、石井は少しだけ悲しそうに目を伏せて、もごもごと口の中でだけ呟いていた。当然だろう。俺は彼女が自分の中で整理をつけるのを静かに見守った。
やがて覚悟がついたのか、顔を上げ、大きく息を吸い、張り詰めた空気の中、胸を張って一言、
「フラレたんだ」
と端的に口にした。
「フラレた?」
思わず聞き返してしまう。
「そうだよ。バレンタインのチョコ渡そうとして、告白して、んで、フラレたんだ」
「……誰に、って聞いてもいい?」
きっぱりと淀みなく話す石井に、恐る恐る、尋ねてみる。
「河辺。クラスメイトの河辺奏人」
「あー」
なんとも間抜けな相槌を打ちながら、俺は名前が挙がったクラスメイト、河辺の事を思い起こしていた。
河辺奏人。中性的な甘い顔立ちで、白い歯を見せて笑うのが特徴的な、アイドルの誰某にも負けないというほど爽やか且つ愛嬌のある美少年だ。加えて、成績も上から数えたほうが早いという、どこの少女漫画から抜け出してきたのかと思うくらい文句無しの勝ち組野郎で、毎月のように誰かから告白されていると専らの噂だった。そして俺は、多分こいつが本日学校で一番多く女子からチョコを貰った、憎きタイトルホルダーであろうと睨んでいる。
しかし、石井愛歌がバレンタインにチョコを、か。あまりに両者がかけ離れ過ぎているせいか、何だか噛み合わない印象を受けてしまう。
「放課後、河辺を教室に呼び出した。あいつがモテるのも、沢山チョコ貰っているのも、もちろん知っていた」
石井は、先程あった出来事を回想するように朗々と語った。視線は俺を見据えて、少しもブレない。
「勝算なんてなかった。まして私は学校一の嫌われ者だし。告白したところで付き合えるなんて、はなから思っちゃいなかった。……でも、自分の気持ちを抑えることも、できなかった」
後半、今まで軽快に話してきた石井の口ぶりが、少しだけ憂いを帯びたようにトーンダウンした。心なしか、ほのかに瞳が潤んでいるようにも見える。
今の話に語弊があるとしたら、彼女は決して学校中から嫌われているわけではない。ただ恐れられているだけだ。下手に触れたらどうなるか分からない爆弾に、わざわざ自分から関わりに行く酔狂な奴なんていない。ただそれだけのことだった。
しかし、そんなことは当人にとって大した問題ではなかったようで、結果として、彼女に話しかける者も、ましてや親しくする者なんて存在せず、このヤンキー少女が孤独であることに変わりはなかった。
「駄目だなんて、最初から解っていた。解っていたはずなのに、涙が溢れて止まらなかった。こんな程度のことで泣いている自分に腹が立って、悔しくて、余計に泣けてきた。そんな時に、お前が教室に入ってきた」
そう言ってジトッとした目つきで軽く睨み、頬杖をつきながら、こちらを小さく指さしてきた。
「急に教室へ入ってきたと思ったら、いきなりお節介焼こうとしたり、わけ分かんねぇ事喚き散らしたり。だから、ぶっ飛ばして黙らせてやろうと思った」
やはりあの時、俺は殴られる寸前だったのか。危なかった、と安堵するとともに、一歩間違っていたらと思うと、背筋が凍る。
「でも、やっぱりぶっ飛ばさなくて正解だったかな。ケーキ奢ってもらえたし、話も聴いてもらえたし。教室でお前に言われたときはムカついたけど、案外、人に話すだけでスッキリするもんだな。ま、引きずっても仕様がないから、早めに次を探すさ」
そう言って、石井は姿勢を崩して緊張を解き、足をぷらぷらと遊ばせる。それを合図に、俺も肩の力を抜いて、すっかり冷めてしまったコーヒーを一口啜った。
きっと彼女は、今まで友達に恋愛相談をしたり、こうして愚痴をこぼしたりしたことが無かったのだろう。それ以前に、友人がいるのかも怪しい。常に孤独と戦って、悩みを自分の中に押さえ込んで来たに違いなかった。目の前にいるのは、極悪非道の不良中学生ではなく、単に不器用で他人に相談するのがちょっと苦手な、ただの小柄な女の子だった。
そう思うと、ほんの少しだけ、石井に対する恐怖感が和らいだ気がした。こうして話してみて、噂で言われているほど悪い奴ではないとも思う。
僅かながらに石井と心の距離が縮まった気がしたので、聞き役に徹してひたすら頷くのみだった俺も、少しだけおどけた調子で言ってみた。
「まあ、少しでも気が晴れたなら、よかったよ。石井も顔は良いんだからその気になれば絶対モテるし、なにより再来月から高校生じゃん。高校デビューに成功すれば、彼氏なんてすぐにできて、河辺のことも見返してやれるって」
ありきたりな社交辞令と世間話のつもりだった。当然、相手もそう受け取って、サラッと流れる話題だと思っていた。しかし予想に反し、石井はその大きな瞳が飛び出しそうなくらいに目を見開き、テーブルを強く叩きながら勢いよく身を乗り出してきた。
「本当かっ!」
「えっ」
「本当に高校デビューで成功すれば、あいつを、河辺を見返せるのか!?」
鼻息を荒くして聞いてくる石井に、思わず椅子を引いて距離をとる。何気なく言った一言に、まさかそこまで食いついてくるとは思わなかったので、どう答えたものかと戸惑ってしまう。
「……見返したいの?」
「当たり前だろ。あの野郎、告白した私にでかい態度で『ヤンキーとかそういう時代錯誤な人はちょっと』とか言ってきたんだぞ。吠え面かかせてやらなきゃ気が済まないじゃねぇか!」
早口にまくし立てながら、ひどく興奮した様子で即答された。しかし河辺の奴も当人を前にして随分と度胸があることを言ったものだ。その勇気には素直に感心してしまう。
「で、どうなんだ。私がいい女になれば、あいつは私をフッた事を後悔して、逃した魚の大きさに涙で枕を濡らすのか?」
「あ、え、えっと、多分」
今にも触れそうなくらい顔を近づけたまま、さっきより若干、誰かさんへの敵意が込もった口調で尋ねてきた。その迫力も然ることながら、息のかかりそうな距離に女の子――しかも相当に可愛い子だ――の顔があると思うと、変に緊張して、ついどもってしまう。
俺の要領を得ない答えで納得できたのかはわからないが、石井は「そうか」と殆ど聞こえないくらいの声で言い、ゆっくりと身を引いて、腕を組みながら座り込んだ。目前に迫っていた彼女が離れていくことにホッと安堵すると共に、多少の寂しさと残念さを感じ、何とも言えないモヤモヤとした気持ちが心の底にうっすらと残った。
暫くの間、うんうんと唸りながら何かを考え込んでいた石井は「分かった」と独りごち、手付かずだったココアを一気に飲み干した。
分かった、って何が分かったんだろう。自己完結されても、こちらは彼女の脳内会議の様子なんて分かるわけがない。しかし、ここまで話を聞いたんだから、どうせなら最後まで知りたいと思うのが人情というものだ。
「分かった、って何が?」
とりあえず疑問を投げかけるが、返ってきた答えは「今度話す」という素っ気無い一言だけだった。
……って、今度? 今度っていつだ。その時また俺は石井愛歌に連れられて、ケーキとココアを奢らされるのか? え? これってもしかして、カモられている?
疑問が不安へと変化していき、再び落ち着かない気分になっていくが、石井は特に気にかけることなく「そろそろ店、出るか」とマイペースに言って、俺の返事を聞かずに席を立った。慌てて残りのコーヒーを飲み干し、彼女に続く。
店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。時計を見ると、店に入ってから二時間ほどが経っていた。思ったよりも長居していたようだ。
「今日は、ありがとうな。じゃ、またな」
石井は片手を上げながらそう言うと、くるりと踵を返し、足早に歩き去っていった。既に俺の返事を聞く気はなさそうだったが、一応、彼女の背中に向かって「お、おう。またな」と返した。
またな、か。
石井愛歌。彼女と再び向かい合い、言葉を交わす日は、本当に来るのだろうか。
少なくとも、昨日までだったら到底考えられないことだった。
誰もが恐れる狂犬。極悪非道。そんな風に噂される奴となんて、話が通じるとすら思っていなかった。
だけど、彼女が噂通りの人物ではなく、年相応に恋をして、失恋に涙して、それを誰かにこぼしたくなる、そんな普通の部分も持ち合わせている事を、俺は今日、知ってしまった。
それに加えて、幼い雰囲気があるとは言え、他に類を見ない極上の美人でもある。男として、美人に興味が湧くのは水が低きに流れるが如く自然で、当然のことだった。
と、一人で物思いに耽っていると突然至近距離から「おい」と声をかけられ、急に現実へと引き戻された。思わず身震いする。
見ると、目の前に石井が立っていた。
「い、石井? どうしたのさ」
さっさと帰ったと思いきや、いつのまにか戻ってきていたのか。彼女のことを考えてボーっとしていただけに、つい頬が熱くなるのを感じた。しかし、どうしてここまで戻ってきたんだろう。忘れ物でもしたのだろうか。
「これ、やるよ。話を聞いてくれたお礼だ」
そう言って石井は俺の手を取ると、半ば無理やり押し付けるようにしてそれを渡してきた。お互いの指先が触れ、柔らかい感触とともに彼女の体温を感じ、心臓が跳ねる。
手のひらを開くと、そこには見覚えのある小箱が握らされていた。
パステルピンクの包装紙に、赤いリボン。間違いなく、今朝、俺が石井に届けた落し物だった。
「これって……」
朝見たときは分からなかったが、彼女の話を聞いた今なら、箱の中身は何となく予想がつく。
「バレンタインのチョコ。本当は河辺の奴にあげる予定だったんだけどな。受け取ってもらえなかったし、私がこのまま持ち帰るのもなんか寂しいから、おまえにやるよ」
そう言うや否や石井は再び俺に背を向け、こちらを振り返ることなくそそくさと歩き、雑踏の中へと消えていった。もしかしたらもう一度戻ってくるかも、と思い暫くそこに立ち尽くしてみるが、いつまで経っても彼女が戻ってくることはなかった。今度こそ本当に帰ったのだろう。
それが分かると同時に、ドッと疲労感が押し寄せてきた。今日は一日通して色々あったが、まさか最後にこんなサプライズがあるとは予想だにしなかった。握りしめている小箱を、ジッと見つめる。
思えば、誰かからチョコを貰いたいな、貰えないかな、と朝からずっとその事ばかり考えていた。石井に連れられてからはそんな事すっかり忘れていたというのに、皮肉にもその石井から渇望していたチョコを貰う事になるとは。
何気なく、小箱のリボンを解いて包装から出し、蓋を開ける。
「なっ」
開けた瞬間、声が漏れた。一瞬、人通りを気にしたが、通行人は俺のことなど少しも関心が無いようで、こちらを見ている人間は皆無だった。
改めて箱の中身に目をやる。そこにはハート型の小さい粒チョコが一つ入っていた。それはいい。問題はそこじゃない。手作りであろうそのチョコには、白いチョコペンではっきり「かなとくんへ」と全文字ひらがなで、表面いっぱいに書き込まれていた。
もちろん分かっていた。これは俺宛のチョコじゃない。いうなれば、これはお下がりみたいなものだ。河辺が断ったから、俺に回ってきた。ならば河辺の名前が書いてあるのも十分に理解できる。理解はできるが、納得はできない。
やっと念願のチョコを貰えたと思ったら、思わぬ肩透かしを食らったとでも言うか。どうしても、おこぼれを貰った感は拭えない。実際その通りなんだけれども、湧き出てくるルサンチマンを抑えることは到底できなかった。
微妙な哀愁を感じつつ、溜息を一つ、大きく吐く。
白く染まる吐息が消えていくのを見送りながら、俺は甘いチョコを一口で食べて、しょっぱい青春を噛み締めるように味わっていた。