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一章 その二

 その日の放課後、俺は再びトイレにこもっていた。ただし、鏡に映る自分の顔は朝と打って変わって精気はなく、まるでこの世の終わりのような絶望が浮かんでいた。

 おかしい。

 もう学校も終わり下校時刻になるというのに、未だにチョコを一つも貰っていない。

 目立たない大人しめな少女はどうした。

 ハニカミながらの告白は何処へいったんだ。

 今日がバレンタインデーなのは間違いないはずだ。クラスメイトの河辺は朝から沢山のチョコを貰って早速負け組男子から舌打ちされていたし、中庭でこっそりチョコのやり取りをしている男女を三、四組は見かけた。紛うことなく、本日は二月十四日だった。

 なのに、なぜ。

 洗面台に両手をついて頭を垂れる。やはり、今年も俺は負け組なのか。ちょっと髪型に気を遣った程度の付け焼刃じゃ駄目なのか。絶望に打ちひしがれて、今にも膝から崩れ落ちそうだった。

 しかし、それでもまだ、諦めきれない。ひょっとしたら、放課後、夕暮れの教室で告白、という青春まっしぐらなシチュエーションを狙っている女子がいないとも限らない。そうだ、諦めてはいけない。

 そう思うと、鏡に映る顔にはたちまち活力がみなぎり、気分が上っ調子へと戻っていく。精神的に沈み込むのも早いが、浮き上がるのはもっと早い。随分と都合の良い思考回路だと自分でも思う。

 一縷の望みを捨てきれない俺は鼻息を荒くして、教室へと足早に向かった。

 そうだ、何を弱気になっていたんだ、俺は。途端に自信が体中に満ち溢れ、期待に胸が膨らむ。脳内は今や、誰もいない教室でチョコを手渡されるイメージで埋め尽くされていた。

 教室の前まで来て、ぴたりと足を止める。さあ、ここが勝負どころだ。この扉を開けたら、一体誰が俺を待ち構えているだろう。メガネで三つ編みのあの子か、黒髪ロングのあの子か。自分がチョコを貰えない、なんて考えは既に微塵も持ち合わせていなかった。

 大きく一度深呼吸をし、気合いを入れる。

 そして俺は意を決して、叩き割らんばかりの勢いでドアを開けた。教室に一歩、足を踏み入れる。

 中に入った俺を出迎えてくれたのは、三つ編みメガネでも、黒髪ロングでもなかった。

 窓際の、一番後ろ。痛々しいくらいの金髪に、ちびっこい体躯と、それと対比するようなブカブカの制服。彼女は夕日が差し込む教室に一人、逆光を浴びるようにして立っていた。

 石井愛歌。今朝方、俺につっかかってきたヤンキー女が、そこにいた。

 石井は声を押し殺して、俯きながらしゃくりあげるように泣いていた。瞳からは止め処なく涙が溢れ、当の本人はそれを拭おうともせず、頬を伝っては流れ落ちていた。かなりうるさくドアを開けたにもかかわらず、石井は俺の方を見向きもしない。自分以外の人間がこの教室内にいることすら気が付いていない様子で、ひたすら泣き続けていた。

 ……っていうか。

 なんだよこれ。これはいったい、どういう状況なんだ。

 あまりに予想し得ない状況に、思わず自問自答する。

 自分の中で整理しようとしても、目の前で泣いている人がいれば、嫌でも気が焦れてしまう。考えはまとまらないし、さっぱり意味が分からない。

 なんで学校一のヤンキーがこんなところで一人メソメソしているんだ。というかこれ、もしかして見ちゃいけない場面ってやつじゃないのか?

 こんなところを見ちゃった俺は、もしかして相当マズいんじゃないのか。口封じにボコボコにされるんじゃないのか。それ以前に、やっぱり俺にチョコを渡そうと待っていた女子はいなかったのか。

 俺が頭の上にいくつもクエスチョンマークを浮かべながら、ドアを開けたポーズのままフリーズしている間も、石井は悲しげに嗚咽を漏らし続けていた。

「……石井? どうした? 大丈夫か?」

 気が付くと、自分でも知らないうちに彼女へと声をかけていた。声をかけた後で、しまった、と内心思った。もしかしたら、雰囲気を察して静かに教室から退出した方が俺の安全の為にも、何より彼女の為にもよかったのかもしれない。

 しかし、そんなことは後の祭り。やっと俺の存在に気が付いたのか、石井の視線はしっかりと俺の方へ向けられていた。途端、まるでスイッチが切り替わったみたいに石井はピタリと泣き止んだ。

 きょとんとした表情から一転、みるみる目尻を吊り上げて、射るように睨んできた。

「んだよ、テメェは」

 彼女は地を這うような声で、重くゆっくりと言ってきた。質問を質問で返されてしまい、こちらも言葉に詰まる。

「いや、なんて言うか。なんかめっちゃ泣いてたから、大丈夫かなって思って……」

 しどろもどろになりながら、つっかえつつも何とか返事をする。しかし実際のところ、自分でも何故声をかけたのかまったく分からない。何となく放っておけなくて、声をかけてしまった、という感じだった。

「うっせぇなっ。何でもねぇし、テメェには関係ねぇよっ!」

 石井は泣き腫らして目を真っ赤にしながら、涙の跡が残る頬を乱暴にこする。そして大股に、周囲の机や椅子を薙ぎ倒さんばかりの勢いでズカズカと歩き、あろうことか俺の方へ一直線に向かってきた。

 ヤバイ。

 殺られる。

 本能的に、そう思った。

「あ、あのさ!」

 必要以上に大きな声を張り上げる。俺の三十センチくらい手前まで迫って来ていた石井は、その声に釣られる様に、足を止めてこちらを見上げてきた。

「んだよ」

「あ、えーと、その」

 咄嗟に大声を出したが、実のところ何も考えていなかった。

 だけど、ここが正念場だった。ここで答えを間違えると、俺の命はない。そんな確信があった。

 手のひらに汗をかきながら、懸命に頭の中でこの場を乗り切る方法を組み立てる。

「な、何があったか知らないけどさ、よかったら、話してみない? 俺に」

「……。はぁ?」

「いやほら、辛いことって他人に話すと気持ちが楽になる時って、あるじゃん?」

「……」

「だから試しに俺に話して――」

「ふざけてんのか、テメェ」

 俺が最後まで言葉にする前に、ばっさりと切って捨てられた。この場を乗り切る方法、組み立て失敗。

 しかしそれも当然だ。本当に、何を口にしているんだ俺は。

 初手から大間違いを犯してしまい、血の気が引く。緊張していたとはいえ、これはありえない。そして、非常にヤバい。

 このままじゃ目の前の冷徹ヤンキーによって制裁を受けた後に、東京湾に沈されてしまう。

 ほとんど妄想な強迫観念で頭の中が沸騰して、考えが上手くまとまらない。

「も、もちろん立ち話も何だし、お茶くらい奢るからさ。ほら、悲しいことは、甘いもん食って忘れちゃおう!」

 もう自分が何を言っているのかも分からない。もはや完全に勢いだけで、まくし立てるように言葉を続けた。気でも違ったんじゃないかとすら思う。

 咄嗟に、昔泣いている女の子にお菓子をあげて宥めていたことを思い出して、気が付いたら口が勝手に喋り出していた。

 石井はいっそう眉根を寄せ、鋭い眼光を向けてきた。

 おしまいだ。

 俺は魚のエサになるのを覚悟して、固く目を閉じた。冬だというのに、次から次へと湧き出る汗がボタボタと滴り落ちていく。自分が唾を飲んで喉を鳴らす音が、やたらと大きく聞こえた。

 目を瞑ったまま直立不動で、しばらく立ち続ける。

 十秒が過ぎ、三十秒が過ぎ、たっぷり一分は過ぎただろうか。

 どれだけ待っても、石井からの一撃が飛んでくることはなかった。

 なんだ。いったいどうしたんだ。

 流石におかしいと思い、試しに片目だけそっと開いて様子を伺う。

 すると、石井は窓際にある自分の席まで移動して、掛けてあった通学カバンを軽い手つきで持ち上げていた。ついさっきまで目の前にいたのに。いつの間に。

 更に俺の席からもカバンを取って「ほらよ」とこちらへ無造作に投げつけてきた。あまりクラスメイトに興味のなさそうな石井が、俺の席をちゃんと覚えていたのは、かなり意外だった。

 急なことに慌てながらも、投げつけられたカバンを無事キャッチする。石井は憮然とした表情で再び俺の前に立ち、短く「行くぞ」と言い放った。

「行く、って……どこへ?」

「どこでも」

 ポカンとしたまま思わず聞き返すが、全く要領を得ない。今朝から現在に至るまでこの金髪ヤンキーには混乱させられっぱなしだが、ここに来て、それは最高潮を迎えていた。

 意味がわからない。

 いったい彼女の目的は何なのか。俺はどこに連れて行かれるのか。大枠から細部に至るまで、何一つ分からなかった。

 そんなことを思い呆けていた所為だろうか。見かねた石井が大きく溜息をつきながら、顎をしゃくって教室の外へと促した。

「甘いもん食いに行くんだろ? お茶くらい奢るって、いま自分で言ったじゃねえか」

 彼女は仏頂面のまま、視線を少しだけ逸らして、小さく呟いた。

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