終章
河辺の一件があってから、十日が過ぎていた。三月二十四日。今日は、卒業式だった。
行儀悪く教卓に腰かけ、誰もいない教室を、ぐるりと見渡す。
式はすでに午前中で終わり、三年生は晴れて卒業。涙ながらに「私たち、ずっと心友だよね」なんて言い合っていた女子や「これから帰って、卒業パーティーやろうぜ!」などと叫んでいた男子もとっくの昔にみんな下校した。つまり、今もなお、こうして教室に残っている俺のような奴はかなりの物好きと言えるだろう。
と、午後の日差しの中で物思いにふけっていると、静かに教室のドアが開いて、少女が一人、入ってきた。
「あ」
「あ」
相手も俺も、二人同時に、声を漏らした。
別に約束をしていたわけじゃない。ただ何となく、教室に残っていたら、会えるような気がしていただけだ。ただの直感だった。
「なんだよ尽、まだ帰っていなかったのか。一人で帰るのは寂しいってかぁ?」
「そんなところ。そういう石井はどうしたのさ。帰らないの?」
教室に入ってきた少女――石井愛歌は「別に理由はねぇよ」と素っ気なく呟いた。
俺は無言で、座っていた位置から半分だけ横にずれる。石井はそれを待っていたと言わんばかりに「よっこいしょ」と言って教卓の空いたスペースへと座り込んだ。
石井と、俺。二人ならんで、狭い教卓の上に座って、ただただボーっと無人の教室を眺める。時折、彼女と肘が触れたりすると、なんだかくすぐったいような、胸が跳ねるような、不思議な気分になった。
「今日で、私たちも卒業かぁ」
そう言って石井は、足をプラプラと所在無さげに遊ばせた。
「そう、だな」
とりあえず当たり障りのない返事をしようと思ったのに、口から出てきたのは、存外に硬い声だった。
彼女が何を言いたいのか、察しはついている。
卒業。
無人の教室。
男女二人きり。
もう、絶好のシチェーションだ。意識しない方がおかしい。でも、だからこそ、緊張するなって方が、この場合、無理だろう?
こういうのって、やっぱ男から言った方がいよなぁ。だけどこれで俺の勘違いだったりしたら、最悪だよなぁ。いやいや、でもなぁ。
そんな風にぐるぐると思考が無限ループに陥り、会話を続けられずにいると、石井は「よっ」と声を上げて、急に教卓から飛び降りた。
「最後なんだし、ちょっとくらいイタズラしても許されるよな」
言うが早いか、石井は白のチョークを一本手に取ると、ずんずんと音がしそうなくらい勢いよく進んで、前から三番目の席の前で立ち止まった。そこは、河辺が使っていた席だった。
石井は「くらえ!」と豪気に叫んでから、河辺の机に向かってチョークを走らせた。文字を書くときにくらえ、なんて言う人、初めて見たなぁと、どうでもいい感想が浮かんでは消えていった。
カツカツと歯切れのいい音をさせて、淀みなく書き込んでいく。そして十数秒後、書きあがった机を覗き込んでみると『すけこましクソ野郎』と、乱暴な字で、卓上いっぱいに、はみ出んばかりの豪快さで書いてあった。
「こっちは乙女心を弄ばれたんだ。これくらいやってもバチは当たらないだろ?」
手についた粉をはらいながら、石井は非常にやり遂げた顔を俺へと向けてきた。満足げだった。
いや、そりゃあ俺もあいつには嫌な思いをさせられたけどさぁ。それにしたってその報復がこんな小さいことじゃあ、その、反応に困る。
迷った末、結局俺は苦笑いを浮かべることしかできなかった。自分の頬が引きつっているのがわかる。そんな俺の反応が気に入らなかったのか、石井は口をへの字にして俺を睨んだ。
「次は尽の机に落書きしてやる」
「おいおいおい」
勘弁してくれ、という暇もなく、石井は足早に俺の机へと移動した。そして再びチョークを握り締め、迷いなく白い文字を書き始めた。
「何してくれてんだよ、まったく……」
やはり十数秒後、書き終えた石井は黒板へと駆け寄り、チョークを元の場所へと丁寧に戻していた。俺は教卓から飛び降り、彼女と入れ替わるように自分の席へと歩み寄った。
そこには、やはり白い文字で、石井から俺へのメッセージが書かれていた。
落書きは、机の中心に、小さくたった一言だけ、
『ありがとう、大好きです』
と、女の子らしい、丸っこい字で書かれていた。
瞬間、全身の毛という毛が逆立つような、体中の血液が湧き上がったような、浮遊感にも似た衝撃が俺の中を駆け抜けた。
勢いよく振り返ると、黒板の前にいる石井と目があった。
彼女の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
つり上がった瞳は、今にも溢れそうなくらいに潤んでいた。
触ると柔らかそうな、ぷるんとした唇は、小刻みに震えていた。
そして何より、今までの彼女からは想像できないほどか細く、甘い声で「尽……」と、そっと呼びかけてきた。
たまらなかった。考えるよりも先に、体が動いた。俺は彼女に駆け寄って、力いっぱい彼女を抱きしめた。俺の胸の中におさまった石井は、最初こそ指先まで伸ばして彫刻のように固まっていたが、やがておずおずと、俺の背中へと手を回してきた。
「尽、尽……。好きなの。本当に、大好きなの」
「あぁ。俺もだよ、石井」
そう言って彼女の顎を掴み、優しく上に向けて、顔を近づける。それで察したのか、石井は慌てたように「待って」と声を上げた。
やばい、がっつきすぎたか。一瞬あせるが、石井は恥ずかしそうに一言、
「苗字じゃ、いや。名前で、呼んで」
と今にも泣き出しそうな顔で訴えてきた。
そうか。そういえば俺、いまだに『石井』って呼んでいたっけ。たしかに、それじゃあ格好つかないよな。
己の不甲斐なさに苦笑しつつ、俺は再び自分の口を彼女の口へと寄せていって、その距離がゼロになる一瞬前に、静かに、だけど確かに聞こえるように、囁いた。
「俺も大好きだよ、愛歌」
【了】
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