四章 その一
「これ、見て」
痛いくらいの静寂を破り、姉さんはどこからか持ってきた数冊のアルバムを、ドサドサと音を立てて机に置いた。
俺はうずたかく積まれた本の中から一冊、無作為にひっつかむ。表紙には『チエリ 幼稚園 写真』と丁寧な字でタイトルが書かれていた。
震える手付きで、恐る恐るページを開く。
表紙をめくると、中には姉さんと思しき少女の写真が、大量に収められていた。
写真に写る女の子は、前髪をチョンマゲのように結っていて、顔つきは可愛らしいが、どこか素朴で弱気な印象を受ける。例えるなら、路傍の花という表現が一番しっくりくる、そんな感じの子だった。
間違いない。
この子が、この子こそが、俺の記憶の中に眠っていた、初恋の少女その人だった。
石井ではなかった。全ては、俺の勘違いだった。
目の前に現実を突きつけられては、反論の余地はどこにもない。只々、力なく項垂れる。
まだうまく現実を飲み込めず茫然自失としていると、姉さんは再びベッドに腰掛けながら、おもむろに口を開いた。
「私ね、昔はすっごい引っ込み思案で、いっつもオドオドして、人の顔色ばっかり伺っていたの」
俺と視線を合わせようとはせず、明後日の方向を見ながら、彼女はぽつぽつと、当時を思い出すように話し出す。
「そんな態度が気に食わなかったのか、毎日やんちゃな悪ガキどもにイジメられてさ。おかーさんにも心配かけたくなかったし、家に帰ると毎晩一人で声を押し殺して泣いてたよ」
話しぶりは軽快だが、思い出すだけで苦い思いが胸に蘇るのだろう。語る姉さんの横顔には、僅かに悔しそうな表情が浮かんでいた。
「でも、ある日、一人の男の子が両手いっぱいにお菓子を持って私の前に来たの。それで『嫌なことはこれでも食べて忘れろよ』みたいなことを言って、お菓子を押しつけてきたんだ」
「それは……」
それは、俺の記憶にもある。たしか押し付けられた方の女の子は、躊躇いながらも受け取って、遠慮がちに食べてくれたはずだ。
互いの記憶が噛み合ったのが心地よかったのか、姉さんは俺の方へ向き直り、優しい目で薄く微笑んだ。
「それでね、私、それがすっごく嬉しかったの。まだ私の味方になってくれる人がいるんだって、とっても心強かった。辛かったけど、まだ頑張ろうって思えた」
当時の行為は、今までずっとこっちの一方的なおせっかいだと思っていたが、存外、彼女からしても嬉しいものだったらしい。
良かった。心底そう思い、胸をなでおろす。俺は彼女を、救えていたんだ。それが分かっただけで、凍えた心が少しだけ温かくなった気がした。
「そのうち、男の子は親の都合でどこかに引っ越して行っちゃって。会えなくなってすっごい寂しかったけど、彼の存在が励みになって、それからずーっと、それだけを支えに頑張ってこれたの」
確かに俺は一度、父親の転勤でこの街を離れている。引越しの話を今まで姉さんにしたことはなかった。
無言のまま視線だけで合図し、話の続きを促す。
「んで、三年前。おかーさんが再婚するって聞いて、相手にも連れ子がいるって聞いて。会ってみたらビックリ仰天、なんてったってその連れ子こそが、昔の私を救ってくれた彼、その人だったんだから」
「……よく、俺だって分かったね」
十年もあれば、人は劇的に変化する。特に子供の成長による変化なんて非常に著しいものだ。現に俺は、姉さんが初恋のあの子だとは少しも気付かなかった。
「そりゃー分かるよー。だって、私にとっては、それが初恋だったんだから」
「……っ」
さらりと放たれた言葉に、思わず自分の顔が火照るのが分かる。初恋。それは、俺にとってもそうだった。照れると同時に、心に柔らかい棘が刺さったようにしくしくと痛む。
「まー、男の子の方は過去の事を綺麗さっぱり忘れていたみたいだから、今日まであえて話題にしなかったけど」
「いや、忘れていたわけじゃ……!」
「忘れてたじゃーん」
咄嗟に言い訳をしようとしたが、ぴしゃりと言い捨てられてしまった。断言され、居心地の悪さに思わず口ごもる。
完全に忘れていたわけではないが、たしかに、重要なことは何一つ思い出せていなかった。相手はしっかり覚えていてくれたというのに。ならばそれは、責められても仕方のないことのように思えた。
「……ごめん」
軽く頭をかきながら、小さく謝罪する。姉さんは変わらず微笑みを浮かべたまま、褐色の髪を手ですいた。
「で?」
「え?」
「え、じゃないよ。私からの話はこれでおしまい。で? これを聞いて、尽くん、どう思った?」
「ど、どう思ったって……」
感想を求められても、どうもこうもない、というのが今の率直な気持ちだった。
写真や過去の話の一致など、今ある情報から見て、姉さんが初恋の少女であることは最早疑いようもないことだろう。しかし、それが本当だとしても、腑に落ちないことはまだ沢山ある。
真っ先に浮かんだのは、石井のことだった。
彼女は、幼い頃約束したあの子ではなかった。
では、なぜ俺と姉さんしか知らないはずの『あの言葉』に反応したのか。
俺が勘違いしていたことが、彼女の口にした『運命』とやらに関係があるのか。
そうだとしたら、姉さんと俺の過去に、石井はいつ気付いていたのか。
そもそも、この事実が現在の状況と何か関係があるのか、ないのか。
たった一つ隠れていたものが見えただけで、疑問は次々と湧き上がってくる。
あまりに急に沢山のワードが浮かんできたせいで、自分の中での整理がうまく追いつかない。思考がごちゃごちゃになり、パンク寸前の頭を抱えて言いあぐねていると、見かねた姉さんが盛大にため息を吐いた。
「そんなに難しく考えないで。直感で構わないから、尽くんの素直な気持ちを教えて」
若干の苦笑を滲ませつつも、あくまで穏やかに彼女は尋ねてきた。
自分の、素直な気持ち。最初に頭に浮かんできたもの。
「……石井と、話がしたい」
頭で考えるより早く、言葉が口を突いて出てきた。
「でも石井ちゃんは、初恋の子じゃなかったんでしょ?」
まるで予想していたと言わんばかりに、俺が答えるのとほとんど同時に姉さんは鋭く言い返した。
「尽くんは、二人の絆に運命めいたものを感じていた。でもそれはまるっきり勘違いで、本当は運命なんてなかった。それでも、石井ちゃんが気になるの?」
姉さんの声は、驚くほど平坦なものだった。その言葉は暗に、ここで石井のことは忘れてしまうという選択肢があることを匂わせている。
発言の真意を見抜こうと彼女の瞳を覗き込むが、普段の表情豊かな姿からは想像できないくらい、無機的な面持ちだった。能面のような顔からは、感情の片鱗すら読み取れない。
試すように聞かれ、思わず言葉を詰まらせる。しかし、それも一瞬。
「ああ」
短く、だけど力強く、自分の心に浮かんだ回答を意気込んで口にした。
「俺は、石井に会いたい。会って、話を聞きたい」
言葉にすることで、曖昧だった気持ちを形にする。一度声に出すと、それはまるで火が着いたようにじわじわと心の中に広がっていった。
誰が何を考えているだとか、運命がどうとか、関係ない。
それが、嘘偽りない俺の本心だった。
「……そっか」
姉さんは無表情のまま、吐息と共にゆるく囁いた。
「そっかぁー。そっかそっかー!」
かと思ったら、ベッドに仰向けに倒れこみ、大の字になって何度も同じ言葉を繰り返した。何かが吹っ切れたように、声のボリュームが徐々に上がっていく。声色は、いつものおどけたものに戻っていた。
「ね、姉さん?」
急に雰囲気が変わったことに戸惑いを隠せず、ビクビクしながら聞き返す。が、姉さんはこっちの返事なんかこれっぽっちも気にしてない様子で、ベッドからムクリと体を起こした。
「尽くんはやっぱ、そうなんだねー。んじゃー、石井ちゃんのところに行かなきゃっ。こーんなところでウジウジしてないでさー! ほらほらーさっさと行っちゃいなー! それにホワイトデーのお返し、渡さなきゃいけないでしょー?」
起き上がった勢いでそのままこちらへ歩み寄ってくると、俺の背中をバシン! と強烈な音を立てて、豪快に叩いた。乾いた叩打音と共に、ひりつくような熱と痛みが走る。
「行ってこい、尽くん! 石井ちゃんと話せなかったら、今日は家に入れてやんないからねー!」
にっかりと笑いながら、彼女はガッツポーズをしてみせた。
これ以上ないくらい、心強い応援だった。
「……うん!」
そして俺も、精一杯の笑顔を姉さんに返しながら、財布とケータイをポケットに突っ込み、ホワイトデーのお返しが入った紙袋を持って、弾かれたように部屋を飛び出した。
感情のままに全力疾走し、玄関を叩き破らんばかりの勢いで家を出る。運動不足の体はすぐに悲鳴を上げだしたが、無視して走り続けた。
「待ってろよ、石井……!」
白く染まる息を吐きながら、俺は冬の道を駆けていった。




